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2014年6月29日日曜日
「台湾の声」【楠木正成の統率力第6回】恩賞の与え方と受け方
【楠木正成の統率力第6回】恩賞の与え方と受け方
家村 和幸
▽ ごあいさつ
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、『太平記』
全四十巻が書かれた経緯や、それぞれの巻の作者
について記されています。
それによれば、『太平記』という書物が、
後醍醐天皇のご発意により、長い年月をかけ、
多くの人々の手によって記されたものであること
が分かります。その内容を今回から、数回に
分けて紹介いたします。
(引用開始)
この書(注:『太平記』)は、今を去る建武
御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて
お遊びになられた折、諸卿・武臣が堂の上や下
にいたが、新田義貞を召して次のような勅を下された。
「文治から今までの数百余年、鎌倉幕府が権威
を重くして、天下を支配した。朝廷の廃頽は
日ごとに増していった。それゆえ代々の天皇も、
幕府を滅ぼし、帝徳を四海に照らそうと、
あれこれとお考えになられたが、事ならずして、
(後鳥羽院隠岐配流のように)かえって皇居を
遠島に遷されてしまい、または権勢も微々たる
ものとなり、沈黙なされていたのである。
しかし、朕(ちん:この場合は後醍醐天皇)の
代になって、逆臣はたちまちのうちに滅亡し、
王法(=仏教の立場から、国王の法令・政治を
称する語)も昔のように戻った。この上は、
後代のため、また現在の貴重な教訓ともなるで
あろうから、義貞が鎌倉を攻めた様子や、
(足利)尊氏が六波羅を滅ぼしたときのありさま
を、記しておこうではないか。」
このような仰せに対して、義貞は、
「天皇の御徳があまねく天の下を照らすこと
がないようでは、我ら臣下はどうして尺寸の
(=わずかな)謀を以て、大敵の勇を砕くこと
ができましょうか」とお答えしたのであった。
(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)
それでは、本題に入りましょう。
【第6回】恩賞の与え方と受け方
(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第三 赤坂城軍の事」より)
▽ 楠木が赤坂に城を築いた経緯
元弘元(1331)年8月、六波羅探題は
七万余騎の軍勢で、後醍醐天皇が遷幸された
笠置山を囲んでこれを攻めた。このことを
知った楠木正成は、笠置山の官軍と力を合わせ
ようとして、すぐに赤坂で挙兵した。
これは、鎌倉の武士がたいした日数も経ず
して京都に到着するのは困難であろう。
その間には、和泉・河内・摂津の三ヶ国
(現在の大坂府と兵庫県)を平定して、軍勢が
強大になっていれば、笠置の後詰めとして、
これを包囲した六波羅軍を背後から攻めよう、
と考えてのことであった。
ところが、鎌倉幕府の執権・北条高時が、
日頃の愚かさとは違って、速やかに大軍勢を
上京させたことから、楠木の考えどおりには
ならなかった。そこで、たいした準備時間も
無いまま、急いで赤坂に城を築いたのであった。
▽ 赤坂城における楠木の防御戦法
赤坂へ向かった鎌倉幕府の軍勢は、さほど
堀も深くなく、わずかに一重の塀と2〜30の
櫓が造られているだけの、二町(約220
メートル)四方ほどに過ぎない小城を見て、
「ああ、一日でも楠木に城を持ち堪えてもらい
たいものだ。敵の首と武器を分捕り、手柄を
立てて、恩賞に預かるぞ」と語っていたという。
そこで、幕府軍の4万余騎は、一斉に攻めかかり、
堀に飛び込んで櫓の下まで進むと、我先に
討ち入ろうと争った。
楠木正成は、強弓(=弓の技量に優れた射手)
2百余人を選りすぐって城内に配置し、また弟の
楠木七郎正季と、甥の和田五郎正遠に3百余騎
を与えて追撃隊とし、城内に待機させておいた。
これらの兵たちには皆、慣れ親しんだ(適切な)
武具を持たせるよう心がけた。
寄手(よせて=攻城軍)は、一気に目の前の城
を攻め落そうとして、四方から切り立った城壁に
取りついたところ、楠木軍の強弓が、櫓や狭間
から続けざまに、狙い違わず矢を射込んできたため、
瞬く間に負傷者や死者が続出し、千人以上にも
なった。射立てられて大損害をこうむった寄手は
退き、八方に逃げ散じた。
正成が城内から敵を見ると、備えを堅くして
いる陣は一つもない。ほとんどの敵兵は逃げ散り
つつあった。わずかに「見苦しいぞ、引き返せ!」
と叫ぶ声に応じて、心意気ある者が引き返したが、
それでも、一所にて百騎さえも返すことがなかった。
そこで、正季と和田を大将とする追撃隊・三百余騎
が二手になって城から出撃し、敗走する敵を
追いかけること一里(約4キロメートル)、
討たれた者はその数を知れずとなった。
▽ 楠木、弓兵と追撃隊の武勇を称賛
戦が終わってから正成が云うには、
「今日の合戦は、ひとえに弓兵のおかげである。
彼らの功績が無ければ、どうして敵を退けられた
であろうか。また、城中から討って出た兵が、
敵を滅ぼしたのも戦功がなかったと言うのではない。
義によって命を捨て、大勢の中に無勢で懸け入った
のは、神妙である。その上、敵が反撃してきたの
を撃退したのは、もちろん高名(手柄)である」
とのことであった。その時、傍らで追撃隊に
いた兵たちが、
「兎にも角にも、兵は弓を射るべきであるなあ。
なにせ、城の内にいながら、遠くまで敵を退けて、
一番の高名となったのだから。我らは城から出て
骨を折り、太刀・長刀で敵を打ち倒し、突き倒して、
自ら数箇所を負傷したにもかかわらず、高名は
弓兵の次である・・・」
と語り合っていた。
▽ 高名とは時と場合によるもの
これを聞いた正成は、彼らに諭すように語った。
「つたないことを言うものではない。時により、
事によって、高名には優劣があってしかるべき
なのだ。この度は、あまりにも敵が弱かったので、
城の塀のきわまでも来なかったのであるから、
弓の高名となったのである。敵が塀を超えて、
さらに近くまで来るような時は、太刀・長刀の勝負
である。さらに近くして、取っ組み合うような時は、
刀となる。このようなわけで、大昔から武具には
数々の種類があるのだ。であるから、この先もお前達
に高名がないなどということがありえるだろうか・・・。」
このように言われて、初めに愚痴を言った者は、
自らを恥ずかしく思ったのであった。
▽ 赤坂城に残った四人の脱出
楠木勢が赤坂城を落ちるにあたり、正成は、
勝多左衛門直幸、和田新五宗景、田原次郎正忠、
生地兵衛為祐の四人を城内に残した。勝多・田原は、
正成の家の子(血縁の家臣)、他の二人は郎従である。
これらは皆、勇士の誉れがあった。
城に火をかけたならば、寄手は四方から鬨(とき)の声
を挙げて近づいてきた。四人の兵は、二人は西へ出て、
二人は北へ出た。何れも戦死した城兵の首を両手に
取り提げ、大声で「敵は未だに本丸にいるぞ。急げ、
急げ」と叫んだ。
これを聞いた数万の敵軍は、「こしゃくな兵どもだ」
と云いながら、急いで城の奥へと駆け入った。
こうして、西と北から数万騎の敵が城内に入ったが、
夜のことであり、急なことでもあって、味方の目印
さえも定めていなかった。そのため、数時間にわたり
同士討ちとなって、兵二百余人が死んだ。
▽ 正しい恩賞の受け方とは
四人は無事に正成が居る金剛山の奥に帰り、
然々(しかじか)と語った。虎口の死を遁れる勇才も、
また多くの敵勢の中に四人だけ留まったのも、
正しい道のために死する覚悟があればこそであった。
正成は、この四人の兵を「義があって忠もある。
また勇もある」と褒めて、各々に太刀(たち)を
与えようとした。
四人が云うには、「弓矢取る身(武士)が
君主の為に命を捨てることは、常にやるべきこと
です。どうして我らに限ったことでありましょう。
殿の土地で喰わせていただき、妻子に糧を与える
こと数年、身命ともに殿の物であります。
引出物(君主からの贈物)は、以前にも数年前に
いただいております。それも、まだ最近のこと
ですので・・・」と云って、受け取ろうとしなかった。
正成は三度にわたってこれを与えようとした。
そしてついには各々が受け取ったのであった。
こうした場合には、二度目に与えようとされた
時点で受けるべきである。一度目は、その他の兵で
このことを知り、自分にも恩賞を得るだけの十分な
働きがあったと自負しているのに、正成がこの兵
に引出物をしようと考えていなかったならば、
その兵は恨みを抱くことになる。(一度は辞退しながら、
二度目に受けるというのは)このように思わせない
ためであり、最もよろしい。
三度目は無礼である。太刀を与えるということ
は、正成のためには死を快くせよということである。
また、君主の命令を辞退することであり、礼に背く
ことにもなるのだ。
(「恩賞の与え方と受け方」終り)
(以下次号)
(いえむら・かずゆき)
いただく声が、次回の連載を書くエネルギーになっています。
あなたのご意見・ご感想を、ぜひ聞きたいです。
このURLからお届けください。
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
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http://okigunnji.com/nankoleader/
● 著者略歴
家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。
現在、日本兵法研究会会長。
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
著書に
『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje
『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab
『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65
『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv
『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html
がある。
【過去の連載】いまでもメルマガで読めます。
●本土決戦準備の真実ー日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか(全25回)
http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurahondo.html
●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
http://okigunnji.com/1tan/lc/tosenmm.html
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【第19回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
演題 現代戦の要!航空作戦を語る 〜私の戦闘機操縦体験から〜
日時 平成26年7月26日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 偕行の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【第16回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】
演題『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その6:豊島河原合戦)
日時 平成26年8月9日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 田安の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
FAX 03-3389-6278
件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。
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家村 和幸
▽ ごあいさつ
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、『太平記』
全四十巻が書かれた経緯や、それぞれの巻の作者
について記されています。
それによれば、『太平記』という書物が、
後醍醐天皇のご発意により、長い年月をかけ、
多くの人々の手によって記されたものであること
が分かります。その内容を今回から、数回に
分けて紹介いたします。
(引用開始)
この書(注:『太平記』)は、今を去る建武
御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて
お遊びになられた折、諸卿・武臣が堂の上や下
にいたが、新田義貞を召して次のような勅を下された。
「文治から今までの数百余年、鎌倉幕府が権威
を重くして、天下を支配した。朝廷の廃頽は
日ごとに増していった。それゆえ代々の天皇も、
幕府を滅ぼし、帝徳を四海に照らそうと、
あれこれとお考えになられたが、事ならずして、
(後鳥羽院隠岐配流のように)かえって皇居を
遠島に遷されてしまい、または権勢も微々たる
ものとなり、沈黙なされていたのである。
しかし、朕(ちん:この場合は後醍醐天皇)の
代になって、逆臣はたちまちのうちに滅亡し、
王法(=仏教の立場から、国王の法令・政治を
称する語)も昔のように戻った。この上は、
後代のため、また現在の貴重な教訓ともなるで
あろうから、義貞が鎌倉を攻めた様子や、
(足利)尊氏が六波羅を滅ぼしたときのありさま
を、記しておこうではないか。」
このような仰せに対して、義貞は、
「天皇の御徳があまねく天の下を照らすこと
がないようでは、我ら臣下はどうして尺寸の
(=わずかな)謀を以て、大敵の勇を砕くこと
ができましょうか」とお答えしたのであった。
(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)
それでは、本題に入りましょう。
【第6回】恩賞の与え方と受け方
(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第三 赤坂城軍の事」より)
▽ 楠木が赤坂に城を築いた経緯
元弘元(1331)年8月、六波羅探題は
七万余騎の軍勢で、後醍醐天皇が遷幸された
笠置山を囲んでこれを攻めた。このことを
知った楠木正成は、笠置山の官軍と力を合わせ
ようとして、すぐに赤坂で挙兵した。
これは、鎌倉の武士がたいした日数も経ず
して京都に到着するのは困難であろう。
その間には、和泉・河内・摂津の三ヶ国
(現在の大坂府と兵庫県)を平定して、軍勢が
強大になっていれば、笠置の後詰めとして、
これを包囲した六波羅軍を背後から攻めよう、
と考えてのことであった。
ところが、鎌倉幕府の執権・北条高時が、
日頃の愚かさとは違って、速やかに大軍勢を
上京させたことから、楠木の考えどおりには
ならなかった。そこで、たいした準備時間も
無いまま、急いで赤坂に城を築いたのであった。
▽ 赤坂城における楠木の防御戦法
赤坂へ向かった鎌倉幕府の軍勢は、さほど
堀も深くなく、わずかに一重の塀と2〜30の
櫓が造られているだけの、二町(約220
メートル)四方ほどに過ぎない小城を見て、
「ああ、一日でも楠木に城を持ち堪えてもらい
たいものだ。敵の首と武器を分捕り、手柄を
立てて、恩賞に預かるぞ」と語っていたという。
そこで、幕府軍の4万余騎は、一斉に攻めかかり、
堀に飛び込んで櫓の下まで進むと、我先に
討ち入ろうと争った。
楠木正成は、強弓(=弓の技量に優れた射手)
2百余人を選りすぐって城内に配置し、また弟の
楠木七郎正季と、甥の和田五郎正遠に3百余騎
を与えて追撃隊とし、城内に待機させておいた。
これらの兵たちには皆、慣れ親しんだ(適切な)
武具を持たせるよう心がけた。
寄手(よせて=攻城軍)は、一気に目の前の城
を攻め落そうとして、四方から切り立った城壁に
取りついたところ、楠木軍の強弓が、櫓や狭間
から続けざまに、狙い違わず矢を射込んできたため、
瞬く間に負傷者や死者が続出し、千人以上にも
なった。射立てられて大損害をこうむった寄手は
退き、八方に逃げ散じた。
正成が城内から敵を見ると、備えを堅くして
いる陣は一つもない。ほとんどの敵兵は逃げ散り
つつあった。わずかに「見苦しいぞ、引き返せ!」
と叫ぶ声に応じて、心意気ある者が引き返したが、
それでも、一所にて百騎さえも返すことがなかった。
そこで、正季と和田を大将とする追撃隊・三百余騎
が二手になって城から出撃し、敗走する敵を
追いかけること一里(約4キロメートル)、
討たれた者はその数を知れずとなった。
▽ 楠木、弓兵と追撃隊の武勇を称賛
戦が終わってから正成が云うには、
「今日の合戦は、ひとえに弓兵のおかげである。
彼らの功績が無ければ、どうして敵を退けられた
であろうか。また、城中から討って出た兵が、
敵を滅ぼしたのも戦功がなかったと言うのではない。
義によって命を捨て、大勢の中に無勢で懸け入った
のは、神妙である。その上、敵が反撃してきたの
を撃退したのは、もちろん高名(手柄)である」
とのことであった。その時、傍らで追撃隊に
いた兵たちが、
「兎にも角にも、兵は弓を射るべきであるなあ。
なにせ、城の内にいながら、遠くまで敵を退けて、
一番の高名となったのだから。我らは城から出て
骨を折り、太刀・長刀で敵を打ち倒し、突き倒して、
自ら数箇所を負傷したにもかかわらず、高名は
弓兵の次である・・・」
と語り合っていた。
▽ 高名とは時と場合によるもの
これを聞いた正成は、彼らに諭すように語った。
「つたないことを言うものではない。時により、
事によって、高名には優劣があってしかるべき
なのだ。この度は、あまりにも敵が弱かったので、
城の塀のきわまでも来なかったのであるから、
弓の高名となったのである。敵が塀を超えて、
さらに近くまで来るような時は、太刀・長刀の勝負
である。さらに近くして、取っ組み合うような時は、
刀となる。このようなわけで、大昔から武具には
数々の種類があるのだ。であるから、この先もお前達
に高名がないなどということがありえるだろうか・・・。」
このように言われて、初めに愚痴を言った者は、
自らを恥ずかしく思ったのであった。
▽ 赤坂城に残った四人の脱出
楠木勢が赤坂城を落ちるにあたり、正成は、
勝多左衛門直幸、和田新五宗景、田原次郎正忠、
生地兵衛為祐の四人を城内に残した。勝多・田原は、
正成の家の子(血縁の家臣)、他の二人は郎従である。
これらは皆、勇士の誉れがあった。
城に火をかけたならば、寄手は四方から鬨(とき)の声
を挙げて近づいてきた。四人の兵は、二人は西へ出て、
二人は北へ出た。何れも戦死した城兵の首を両手に
取り提げ、大声で「敵は未だに本丸にいるぞ。急げ、
急げ」と叫んだ。
これを聞いた数万の敵軍は、「こしゃくな兵どもだ」
と云いながら、急いで城の奥へと駆け入った。
こうして、西と北から数万騎の敵が城内に入ったが、
夜のことであり、急なことでもあって、味方の目印
さえも定めていなかった。そのため、数時間にわたり
同士討ちとなって、兵二百余人が死んだ。
▽ 正しい恩賞の受け方とは
四人は無事に正成が居る金剛山の奥に帰り、
然々(しかじか)と語った。虎口の死を遁れる勇才も、
また多くの敵勢の中に四人だけ留まったのも、
正しい道のために死する覚悟があればこそであった。
正成は、この四人の兵を「義があって忠もある。
また勇もある」と褒めて、各々に太刀(たち)を
与えようとした。
四人が云うには、「弓矢取る身(武士)が
君主の為に命を捨てることは、常にやるべきこと
です。どうして我らに限ったことでありましょう。
殿の土地で喰わせていただき、妻子に糧を与える
こと数年、身命ともに殿の物であります。
引出物(君主からの贈物)は、以前にも数年前に
いただいております。それも、まだ最近のこと
ですので・・・」と云って、受け取ろうとしなかった。
正成は三度にわたってこれを与えようとした。
そしてついには各々が受け取ったのであった。
こうした場合には、二度目に与えようとされた
時点で受けるべきである。一度目は、その他の兵で
このことを知り、自分にも恩賞を得るだけの十分な
働きがあったと自負しているのに、正成がこの兵
に引出物をしようと考えていなかったならば、
その兵は恨みを抱くことになる。(一度は辞退しながら、
二度目に受けるというのは)このように思わせない
ためであり、最もよろしい。
三度目は無礼である。太刀を与えるということ
は、正成のためには死を快くせよということである。
また、君主の命令を辞退することであり、礼に背く
ことにもなるのだ。
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● 著者略歴
家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。
現在、日本兵法研究会会長。
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
著書に
『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje
『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab
『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65
『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv
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日時 平成26年7月26日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
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参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
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日時 平成26年8月9日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
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参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
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2014年6月24日火曜日
「台湾の声」【ニュース】民進党、柯文哲氏を公認
【ニュース】民進党、柯文哲氏を公認
台湾の声ニュース 2014.6.19 0:26
民進党は昨18日の中央執行委員会において、台北市長候補として柯文哲(か・ぶんてつ)氏を公認し、全力で支持することを決定した。また新北市長についても、民進党の候補である游錫[方方/土](ゆう・しゃくこん)氏と台湾団結聯盟の候補である林志嘉氏から候補を一本化する方向で調整することを決定した。
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
台湾の声ニュース 2014.6.19 0:26
民進党は昨18日の中央執行委員会において、台北市長候補として柯文哲(か・ぶんてつ)氏を公認し、全力で支持することを決定した。また新北市長についても、民進党の候補である游錫[方方/土](ゆう・しゃくこん)氏と台湾団結聯盟の候補である林志嘉氏から候補を一本化する方向で調整することを決定した。
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
2014年6月18日水曜日
「台湾の声」6月21日【北大】『牽阮的手 Hand in Hand 』上映会
6月21日【北大】『牽阮的手Hand in Hand』上映会
日時:2014年6月21日(土)午後1時半から5時半
場所:北海道大学クラーク会館 3F国際文化交流活動室
・主催者:北海道台湾人留学生会
・司会:北大国際広報メディア観光学院院生 許玉萱
・映後解説:北大法學研究科交換生 許仁碩
・映画予告編:https://www.youtube.com/watch?v=f4z7okX0wAQ
・言語:
映画:日本語、台湾語、中国語
字幕:中国語、英語
解説:日本語
・活動簡介(日本語版もある):
臺灣今年3月的社會運動,激起了留學生們的海外串聯,3/30札幌、東京、京都、福岡、沖縄的海外聲援活動,也串起了臺灣留日學生們的心。繼東京、京都與名古屋之後,札幌也將舉弁《牽阮的手》電影放映會,並於映後解説片中提到的臺灣民主運動事件。讓我們一起回首來時路,並守護得來不易的民主。也非常歡迎對臺灣歴史有興趣的各國朋友參加!
・今年三月台湾の社会運動により、留学生たちも連帯を作った。3月30日、札幌、東京、京都、福岡、沖縄で留学生が海外応援集会を行った。その後、留学生たちは心で繋がっている。東京、京都、名古屋での開催後、札幌においても《Hand in Hand》映画会を開催する。また、劇中に登場する台湾の民主運動における事件について、解説を行う。一緒に歴史の道を回顧し、貴重な民主主義を守ろう。台湾歴史に興味を持っている外国人も大歓迎!
・映画紹介:
保守的な1950年代に、主人公の田さんは人権派医師の田先生と駆け落ちした。その後、人生あるいは社会運動そして政治犯救援の場においても、お互いを支えっており、一生、後悔しない。
自由さえ許さない時代で、どのような男のために彼女は駆け落ちすることを選んだのか?
民主さえ許さない国で、どのような情熱ために彼らは命の危険を冒して、デモにいくのか?
彼らは熱血あふれる人生は、その時代の人と人、あるいは人と土地の絆を証明している。
・影片簡介:
影片主角田媽媽,在保守的1950年代,與人權醫師田朝明離家私奔。此後,無論是在人生或是社會運動、政治犯救援的道路上,他們互相扶持,無怨無悔。
在自由不被允許的年代,是什麼樣的男人讓[女也]選擇離家出走?
在民主不被容許的台灣,是什麼樣的愛讓他們冒死走上街頭?
他們用生命的熱血,見證了那個年代:人與人之間的情,人與土地之間的愛。
(facebookより転載 2014.6.17 09:00)
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
日時:2014年6月21日(土)午後1時半から5時半
場所:北海道大学クラーク会館 3F国際文化交流活動室
・主催者:北海道台湾人留学生会
・司会:北大国際広報メディア観光学院院生 許玉萱
・映後解説:北大法學研究科交換生 許仁碩
・映画予告編:https://www.youtube.com/watch?v=f4z7okX0wAQ
・言語:
映画:日本語、台湾語、中国語
字幕:中国語、英語
解説:日本語
・活動簡介(日本語版もある):
臺灣今年3月的社會運動,激起了留學生們的海外串聯,3/30札幌、東京、京都、福岡、沖縄的海外聲援活動,也串起了臺灣留日學生們的心。繼東京、京都與名古屋之後,札幌也將舉弁《牽阮的手》電影放映會,並於映後解説片中提到的臺灣民主運動事件。讓我們一起回首來時路,並守護得來不易的民主。也非常歡迎對臺灣歴史有興趣的各國朋友參加!
・今年三月台湾の社会運動により、留学生たちも連帯を作った。3月30日、札幌、東京、京都、福岡、沖縄で留学生が海外応援集会を行った。その後、留学生たちは心で繋がっている。東京、京都、名古屋での開催後、札幌においても《Hand in Hand》映画会を開催する。また、劇中に登場する台湾の民主運動における事件について、解説を行う。一緒に歴史の道を回顧し、貴重な民主主義を守ろう。台湾歴史に興味を持っている外国人も大歓迎!
・映画紹介:
保守的な1950年代に、主人公の田さんは人権派医師の田先生と駆け落ちした。その後、人生あるいは社会運動そして政治犯救援の場においても、お互いを支えっており、一生、後悔しない。
自由さえ許さない時代で、どのような男のために彼女は駆け落ちすることを選んだのか?
民主さえ許さない国で、どのような情熱ために彼らは命の危険を冒して、デモにいくのか?
彼らは熱血あふれる人生は、その時代の人と人、あるいは人と土地の絆を証明している。
・影片簡介:
影片主角田媽媽,在保守的1950年代,與人權醫師田朝明離家私奔。此後,無論是在人生或是社會運動、政治犯救援的道路上,他們互相扶持,無怨無悔。
在自由不被允許的年代,是什麼樣的男人讓[女也]選擇離家出走?
在民主不被容許的台灣,是什麼樣的愛讓他們冒死走上街頭?
他們用生命的熱血,見證了那個年代:人與人之間的情,人與土地之間的愛。
(facebookより転載 2014.6.17 09:00)
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
「台湾の声」【告発】呆れた!林志昇集団河村常夫が虚偽の宣伝
【告発】呆れた!林志昇集団河村常夫が虚偽の宣伝
台湾の声編集部 多田恵 2014.6.17 08:00
昨年12月22日、東京の住友商事竹橋ビル10階で「台湾民政府講演会」が行われた。小名木善行氏や、門脇朝秀氏および「台湾民政府 河村常夫代表」が参加した。なお、チラシに名前が出ている「桜井よしこ」氏は、実際には出席しなかったという。
その会で質疑応答が行われ、河村常夫(台湾人)が「台湾民政府への疑惑に答える」として、発言を行った。長々と話しているのでいちいち検討はしないが、河村は重大な虚偽を述べている。
それは次の部分である:
「〔動画の3分50秒のところから〕(林志昇は)アメリカ政府をアメリカ連邦裁判所に告訴する。アメリカは国務省を立てました。争った結果、〔5分5秒のところまでは「本土台湾人」の説明なので省略〕告訴した結果、国務省が第一審のところで負けました。それで連邦高等裁判所に上訴します。...また、台湾人が勝ちました。それで国務省が最高裁に上訴する権利を放棄します。そこで判決が決まったわけです。」
実際には、一審、二審で請求が棄却され、最高裁では請求が却下された。それを勝訴したかのように伝えている。つまり、「疑惑に答え」ていたはずの河村常夫は、事実とはまったく逆の説明をして、疑惑のもみ消しに努めたのである。ここまで恥も外聞もなく、嘘を言ってのけられるとは、実に見事である。
問題の動画:2013-12-22_台灣民政府 日本天皇祝寿団29
http://youtu.be/8971RxY_r7U?t=3m50s
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
台湾の声編集部 多田恵 2014.6.17 08:00
昨年12月22日、東京の住友商事竹橋ビル10階で「台湾民政府講演会」が行われた。小名木善行氏や、門脇朝秀氏および「台湾民政府 河村常夫代表」が参加した。なお、チラシに名前が出ている「桜井よしこ」氏は、実際には出席しなかったという。
その会で質疑応答が行われ、河村常夫(台湾人)が「台湾民政府への疑惑に答える」として、発言を行った。長々と話しているのでいちいち検討はしないが、河村は重大な虚偽を述べている。
それは次の部分である:
「〔動画の3分50秒のところから〕(林志昇は)アメリカ政府をアメリカ連邦裁判所に告訴する。アメリカは国務省を立てました。争った結果、〔5分5秒のところまでは「本土台湾人」の説明なので省略〕告訴した結果、国務省が第一審のところで負けました。それで連邦高等裁判所に上訴します。...また、台湾人が勝ちました。それで国務省が最高裁に上訴する権利を放棄します。そこで判決が決まったわけです。」
実際には、一審、二審で請求が棄却され、最高裁では請求が却下された。それを勝訴したかのように伝えている。つまり、「疑惑に答え」ていたはずの河村常夫は、事実とはまったく逆の説明をして、疑惑のもみ消しに努めたのである。ここまで恥も外聞もなく、嘘を言ってのけられるとは、実に見事である。
問題の動画:2013-12-22_台灣民政府 日本天皇祝寿団29
http://youtu.be/8971RxY_r7U?t=3m50s
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
「台湾の声」台湾産アップルマンゴーの「 6 月下旬配達」のお申し込み締切日は 6 月 19 日 ( 木)!
日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」より転載
ご案内の台湾産アップルマンゴーですが、今年も多くの方々からお申し込みをいただいていま
す。中には、台湾では3玉パックという種類がないということで、台湾から日本の知人に送って欲
しいというお申し込みをいただくなど好評です。
ところで、6月下旬の配達を希望される方にお願いです。台湾からの入荷予定日が6月25日と26日
と決まりましたので、お申し込みの締切日を6月19日(木)とさせていただきます。発送用伝票作
成などの作業に時間がかかりますのでご理解のほどお願いいたします。
◇ ◇ ◇
あま〜い香りと滑らかな舌触りで、大好評の台湾産アップルマンゴーを今年もご案内します!
今年もこれまでの2.5kgと5kgに加え、ご要望が多かった3玉パックをご用意いたしました。
贈答用にもピッタリの、糖度13度以上でサイズのそろった特選品です。産地は6月末までのお届
けは屏東産、台南産は7月中旬からのお届けになる予定です。
*これまでマンゴーなどお申し込みの方にはご案内状をお送りしています。裏面の「お申し込み
書」に必要事項をご記入いただき、FAXでお申し込みください。
*本会ホームページでも、お申し込みについての詳細や召し上がり方などを案内し、「お申し込み
書」もダウンロードできます。
◆ 日本李登輝友の会ホームページ:http://www.ritouki.jp/
*下記のお手軽で簡単な「お申し込みフォーム」からは、ご自宅用はもちろん、お申し込み者様と
お送り先が異なる場合でも、5件分だけお送りできます。
◆ 2014年・台湾アップルマンゴーお申し込みフォーム
PC用 : https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/j1nloiu8pdbz
携帯用 : https://mailform.mface.jp/m/frms/ritoukijapan/j1nloiu8pdbz
-----------------------------------------------------------------------------------------
1.商品の種類と価格
アップルマンゴー 3玉 = 3,200円(税・送料込)
アップルマンゴー 2.5kg(5〜7玉) = 5,200円(税・送料込)
アップルマンゴー 5kg (10〜14玉) = 7,800円(税・送料込)
2.お申し込みとお支払い方法【前金制】
1)「お申し込み書」に必要事項をご記入いただき、FAXでお申し込みください。
日本李登輝友の会 FAX:03-3868-2101
2)お申し込みと同時に、下記の郵便貯金口座もしくは銀行口座までご入金ください。
・郵便貯金口座
記号番号 10180 95214171
日本李登輝友の会(ニホンリトウキトモノカイ)
・銀行口座
みずほ銀行 本郷支店 普通預金 口座番号 2750564
日本李登輝友の会 事務局長 柚原正敬(ジムキョクチョウ ユハラマサタカ)
*代金前払い制、振込手数料はご負担願います。
3.配送について
1)配送時期は、収穫の都合上、6月下旬、7月中旬、7月下旬を予定しています(配送は冷蔵便
です)。
2)ご希望の配達時期を必ずお書き添えください(配達時間をご希望の方は、時間帯もお書き添
えください。ヤマト宅急便対応範囲内でお届けいたします)。
3)配達時期は、入荷タイミングによってご希望に沿えないこともあります。ご了承願います。
4)生ものですので、お届け先様が長期間不在の場合は送り主様へ転送いたしますことをご了承
願います。
5)今回の熨斗(のし)紙は「御中元」のみとさせていただきます。
4.申込締切……7月22日(火)
5.輸入・協力……池栄青果(株) 台湾物産館
〒170-0013 東京都豊島区東池袋3-15-7
■日本李登輝友の会
〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A
TEL:03-3868-2111 FAX:03-3868-2101
E-mail:info@ritouki.jp
ホームページ:http://www.ritouki.jp/
Facebook:http://goo.gl/qQUX1
*月〜金、10:00〜18:00 土・日・祝日は休み
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
ご案内の台湾産アップルマンゴーですが、今年も多くの方々からお申し込みをいただいていま
す。中には、台湾では3玉パックという種類がないということで、台湾から日本の知人に送って欲
しいというお申し込みをいただくなど好評です。
ところで、6月下旬の配達を希望される方にお願いです。台湾からの入荷予定日が6月25日と26日
と決まりましたので、お申し込みの締切日を6月19日(木)とさせていただきます。発送用伝票作
成などの作業に時間がかかりますのでご理解のほどお願いいたします。
◇ ◇ ◇
あま〜い香りと滑らかな舌触りで、大好評の台湾産アップルマンゴーを今年もご案内します!
今年もこれまでの2.5kgと5kgに加え、ご要望が多かった3玉パックをご用意いたしました。
贈答用にもピッタリの、糖度13度以上でサイズのそろった特選品です。産地は6月末までのお届
けは屏東産、台南産は7月中旬からのお届けになる予定です。
*これまでマンゴーなどお申し込みの方にはご案内状をお送りしています。裏面の「お申し込み
書」に必要事項をご記入いただき、FAXでお申し込みください。
*本会ホームページでも、お申し込みについての詳細や召し上がり方などを案内し、「お申し込み
書」もダウンロードできます。
◆ 日本李登輝友の会ホームページ:http://www.ritouki.jp/
*下記のお手軽で簡単な「お申し込みフォーム」からは、ご自宅用はもちろん、お申し込み者様と
お送り先が異なる場合でも、5件分だけお送りできます。
◆ 2014年・台湾アップルマンゴーお申し込みフォーム
PC用 : https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/j1nloiu8pdbz
携帯用 : https://mailform.mface.jp/m/frms/ritoukijapan/j1nloiu8pdbz
-----------------------------------------------------------------------------------------
1.商品の種類と価格
アップルマンゴー 3玉 = 3,200円(税・送料込)
アップルマンゴー 2.5kg(5〜7玉) = 5,200円(税・送料込)
アップルマンゴー 5kg (10〜14玉) = 7,800円(税・送料込)
2.お申し込みとお支払い方法【前金制】
1)「お申し込み書」に必要事項をご記入いただき、FAXでお申し込みください。
日本李登輝友の会 FAX:03-3868-2101
2)お申し込みと同時に、下記の郵便貯金口座もしくは銀行口座までご入金ください。
・郵便貯金口座
記号番号 10180 95214171
日本李登輝友の会(ニホンリトウキトモノカイ)
・銀行口座
みずほ銀行 本郷支店 普通預金 口座番号 2750564
日本李登輝友の会 事務局長 柚原正敬(ジムキョクチョウ ユハラマサタカ)
*代金前払い制、振込手数料はご負担願います。
3.配送について
1)配送時期は、収穫の都合上、6月下旬、7月中旬、7月下旬を予定しています(配送は冷蔵便
です)。
2)ご希望の配達時期を必ずお書き添えください(配達時間をご希望の方は、時間帯もお書き添
えください。ヤマト宅急便対応範囲内でお届けいたします)。
3)配達時期は、入荷タイミングによってご希望に沿えないこともあります。ご了承願います。
4)生ものですので、お届け先様が長期間不在の場合は送り主様へ転送いたしますことをご了承
願います。
5)今回の熨斗(のし)紙は「御中元」のみとさせていただきます。
4.申込締切……7月22日(火)
5.輸入・協力……池栄青果(株) 台湾物産館
〒170-0013 東京都豊島区東池袋3-15-7
■日本李登輝友の会
〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A
TEL:03-3868-2111 FAX:03-3868-2101
E-mail:info@ritouki.jp
ホームページ:http://www.ritouki.jp/
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*月〜金、10:00〜18:00 土・日・祝日は休み
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
「台湾の声」【楠木正成の統率力4】勇臆・老若に応じて人を用いる
【楠木正成の統率力4】勇臆・老若に応じて人を用いる
家村和幸
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、
最初に『太平記』という書物の名称の
変遷が記されています。この書は、
名を改めることがこれまでに四度あった
といいます。
最初の名は、『安危来由記』でした。
その意味は、古今の世の安定と危機の
移り変わりを記して、後世の戒めとする
ということです。
二番目の名は、『国家治乱記』でした。
この書を読んで理解すれば、大にしては
国の治乱を思い、小にしては御家の治乱
を思うということから名づけられました。
三番目の名は、『国家太平記』でした。
国家の意味するところは、前の書名と
同じです。太平というのは、戦乱の治まり
つつある当代を賀し奉ろうとの願いから
でした。
南朝の正平(1346〜70)年間
の筆者がこのように称しました。また、
太平の部分は北朝の延文(1356〜61)
年間頃に改めて号したとも云われています。
四番目の名は、『天下太平記』でした。
応安元(1386)年、細川武蔵入道頼之
(北朝の政治指導者)が「この書の名は、
南朝の治乱等の号を捨て、当代を賀し奉ろう
というのであれば、どうして国家というのか。
(南・北朝で)同じく天下太平こそが望ましい
のではないか」と述べたことから、当時の
学才の人等が『天下太平記』と名づけたのでした。
その頃、京都の住人は、「天下太平と改名
してからは、南朝は威を失い、天下の朝敵は
自ずから亡びて、実に天下太平になったのだなあ」
などと勝手に噂したのですが、これは好ましく
ないことでした。
天下の治乱とこの書名の善し悪しは、何ら
関係がないのです。真実は、武蔵入道が聖賢
の道を修得し、無欲に天下の政道を相量り、
無私の精神に徹したがゆえに、四海が日を
追うごとに豊かになったのでした。
それで、いつしか『太平記』とだけ、
呼ばれるようになったのでした。
それでは、本題に入りましょう。
【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる
▽ 世に三つの勇者あり
およそ世に三つの勇者がある。一つには、
生得の勇者、二つには、血気の勇者、
三つには、仁義の勇者である。
先ず、生得の勇者とは、生まれつきのもの
であり、恐ろしい事を知らず、する事をも
顧みない者がいる。心が健やかであるだけで、
遠く慮ることができない。
また、血気の勇者とは、生まれつき勝れて
勇気があることもない。また、あながち臆病
だということもない人である。
そうではあっても、腹を立てて怒る時か、
または、人に頼まれると即座に受け易く、
また、主人に言葉をかけられなどして、
何につけても血気に乗り、上がっている時に、
勇気が涌いてくるならば、炎の中や深い水底
へも入り、鬼神をも恐れず、剛をなす類で
ある。時が過ぎれば、その勇は少しも無く、
人を恐れる気持ちさえあるのだ。
さらに、仁義の勇者とは、常に事を慎み、
行いに失がないだろうかと省み、一命の重き
ことを思量して、周りの人への礼を厚くし、
和を施し、事の切なるに臨んでは、全てを
受け容れて遁れず、勇敢に死する者を云う。
(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第六
楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)
▽ 正成、兵士の勇臆について語る
(以下、終わりまで「太平記秘伝理尽鈔巻第三
笠置軍事付陶山・小見山夜討の事」より)
その昔、楠木正成は息子たちに次のように
語りかけた。
兵士たちの心中をおもんばかって、それらに
応じて命令せよ。臆した者には、敵が必ず亡びる
のだと説け。こちらが身命を捨てるのだという
ことは説いてはならない。
勇の過ぎる者には、小さな事に軽々しく命を
捨てるのは道理に反している。あくまでも、
義によって(命を)軽くせよ、と説け。
勇の過ぎる者というのは、生得(生まれもって)
の勇者とは違って、ただ死にさえすればよい
と思っている者だからである。
▽ 血気の勇者と仁義の勇者
血気の勇者ということがある。血気とは、
向こう見ずな意気である。常日頃は勇気が無いが、
怒ると勇気が出てきて、死を顧みない者がいる。
また、人に褒められると俄(にわ)かに勇気が
出てきて、炎(ほのお)の中へも入る者がいる。
人から「頼むぞ」と云われると動じやすく、
心変わりしやすい。また、年来の重恩を忘れて、
当面の親しさに意を寄せる。
そういう人間は、自分の父母には不孝であって、
親しい人に付いて自分以外の父母に意を寄せ、
君主の命に背いて、仲間にだけ意を寄せ、
兄弟を離れ、他人に親しみ、重恩を捨て、
少々の恨みにこだわり、かつての大恩を
忘れて、今の小恩に付くのである。
このような行跡(ふるまい)は、全て血気の勇者で
ある。これらに対しては、常に血気ということを
語って教え、義に付くことを奨励するようにせよ。
また、仁義の勇者ということがある。道理を
わきまえて実行し、国の為に命を捨てることを
喜びとすることから仁という。義によって身命を
捨てることから義と呼ばれるのである。
仁義・生得・血気の三つは、どれもが兵士の中
に存在するのである。
▽ 臆病者には「決死」と言うな
これら以外に、臆病というのがあるので知って
おけ。将軍が戦場で死すべきことについて言及した
ならば、仁義・生得の二つの勇者であれば、
益々勇気がわいてくるものである。しかし、
血気の勇者は一往勇むことがあっても、時日が
移れば勇気も消えうせるものである。
臆している兵士は、将軍が決死の覚悟を固めた
のを見て、死を恐れて逃げ散るものである。
臆病な兵士が散ってしまえば、血気の者もまた
臆病になるのである。
この世の中には臆病が多く、血気すらまれで
ある。生得の勇者はさらにまれであって、仁義の
勇者などはほとんどいない。
このため、ことが急を要するような場面に及んで、
将軍と死をともにしようと思う者は少なく、
一身を立てようと欲するものは多い。世の常の
合戦では、将軍は決して死のうなどと軽々しく
言わないものだ。
▽ 十死一生の合戦
ところが、「十死一生の合戦」と言うものもある。
例えば、兵力において味方が弱く敵が十倍の
強さである。それだけではなく、敵に従う兵は
日々に増えていき、味方は夜毎に劣勢になり、
周辺の国の援助も得られない。このような状況
であれば、合戦を急げ。
しかも、通常のような戦い方では、勝つことは
できない。大河を後ろにして退くことも
ままならないようにして、討死を覚悟した上で、
敵の堅い陣地を突破せよ。
生きる望みは一つ、死は九つ。このことから
十死一生というのだぞ。生きようと欲すれば死す。
死のうと覚悟すれば生きるのだぞ。軍の大事とは
ただこのことである。
正成は息子たちにこのように教えたのであった。
▽ 笠置山を落城させた陶山・小見山の夜討ち
『太平記』によれば、元弘元(1331)年8月、
後醍醐天皇が笠置山に遷幸されると、六波羅探題
は七万余騎の軍勢で笠置山を囲んでこれを攻めた。
しかし、笠置山は、西国の軍勢が数万騎で数日間
攻めても落ちなかった。笠置勢三千余騎は、
足助重範らが奮戦して六波羅軍を悩ませた。
そうしているうちに、畿内・西国に宮方に
与しての挙兵がおこり始めた。急いでこの城を
落とさなければ、諸国に六波羅軍の敵が多く
出てくるのは疑いなかった。
やがて鎌倉から東国の軍勢が援軍として
上ってきた。しかし、東国の大将には智謀が
無い。力攻めだけでは笠置山は落とせないだろう。
そこで、六波羅軍の陶山と小見山は、
9月30日夜、わずかな手勢で笠置山を襲撃した。
陶山は手勢五十余人を率いて、笠置の城の北側
の断崖絶壁に回りこみ、崖をよじ登って城内に
突入した。
兵力が足りない笠置勢は、北側の入り口付近の
地形が険しいことを頼みとして、そこには兵士を
置いていなかった。
これにより、官軍側は奇襲され、笠置山は落城した。
夜討ちの日、陶山は死装束に曼荼羅を
書き付けて、郎従たちに十死一生の覚悟を示した
のであった。
▽ 山城の守備・新田義貞と楠木正成の問答
世の中が鎮まって後、新田義貞が楠木正成に
対して、雑談のついでに質問した。
「笠置の城が攻め落とされたことは、
寄手(攻撃側の兵士)の勇が優れていたから
ではない。陶山の智謀と勇が秀でていたからである。
今後もこのような険阻な場所を、優れた兵を
もって警固するのは適切ではない。楠木殿は、
どう思われるか。」
そこで、正成が云うには、
「医師が病気を防ぐのに薬をもってするよう
に為せばよいのです。山城の険しい箇所で
あれば、敵も必ず忍びを入れるでしょう。
なぜならば、地形の険しさを頼んで、警固の
兵士を置かないからです。また、警固の兵も、
険しい地形であることに安心して守るのに
怠りがあるからです。
ただし、私の考えるところをお尋ねに
なられたので、簡単に申し上げたのですが、
その意味を奥に残すようであれば、かえって
人並みにえらぶっているように思われるでしょう
から、さらに説明いたしましょう。
▽ 老兵の特性を活かして用いる
四十歳以上の老兵を以て、険しい箇所を
昼夜にわたり守らせるのがよいと思います。
その理由は、人は四十歳以前は若くして
眠りがちですが、四十歳以後は眠ることが
少ない。険しい地形であれば、敵も必ず、
夜討ちや忍びを考えるでありましょう。
白昼に攻めるようなことはしないものです。
このような場合の守備は、眠らないことに
勝るものはありません。
また、老兵は積んできた経験も豊富です。
さらに、老兵はあらゆることによく心がける
ものでもあります。
したがって、険しい地形であっても敵が
攻めよせて来るかもしれない場所には、
四十歳以下の若者たちに少々の老兵をそれぞれ
加えて編成するのです。
老いて武功も無く、若い時には強弓と云われた者
でも、四十歳以降は次第に弱くなるものです。
かけ引き・歩行・力業(ちからわざ)、これらは皆、
二十四、五から三十七、八までを盛りとするもの
です。
このような分別なく、兵を配置されるよう
であれば、闇将でしかありません」とのことで
あった。
義貞は深く心を打たれたのであった。
(「勇臆・老若に応じて人を用いる」終り)
(以下次号)
(いえむら・かずゆき)
いただく声が、次回の連載を書くエネルギーになっています。
あなたのご意見・ご感想を、ぜひ聞きたいです。
このURLからお届けください。
↓
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● 著者略歴
家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。
現在、日本兵法研究会会長。
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
著書に
『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje
『名将に学ぶ 世界の戦術』
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『真実の「日本戦史」戦国武将編』
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『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
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●本土決戦準備の真実ー日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか(全25回)
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《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
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場所 靖国会館 2階 田安の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
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日時 平成26年7月26日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 偕行の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
FAX 03-3389-6278
件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。
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家村和幸
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、
最初に『太平記』という書物の名称の
変遷が記されています。この書は、
名を改めることがこれまでに四度あった
といいます。
最初の名は、『安危来由記』でした。
その意味は、古今の世の安定と危機の
移り変わりを記して、後世の戒めとする
ということです。
二番目の名は、『国家治乱記』でした。
この書を読んで理解すれば、大にしては
国の治乱を思い、小にしては御家の治乱
を思うということから名づけられました。
三番目の名は、『国家太平記』でした。
国家の意味するところは、前の書名と
同じです。太平というのは、戦乱の治まり
つつある当代を賀し奉ろうとの願いから
でした。
南朝の正平(1346〜70)年間
の筆者がこのように称しました。また、
太平の部分は北朝の延文(1356〜61)
年間頃に改めて号したとも云われています。
四番目の名は、『天下太平記』でした。
応安元(1386)年、細川武蔵入道頼之
(北朝の政治指導者)が「この書の名は、
南朝の治乱等の号を捨て、当代を賀し奉ろう
というのであれば、どうして国家というのか。
(南・北朝で)同じく天下太平こそが望ましい
のではないか」と述べたことから、当時の
学才の人等が『天下太平記』と名づけたのでした。
その頃、京都の住人は、「天下太平と改名
してからは、南朝は威を失い、天下の朝敵は
自ずから亡びて、実に天下太平になったのだなあ」
などと勝手に噂したのですが、これは好ましく
ないことでした。
天下の治乱とこの書名の善し悪しは、何ら
関係がないのです。真実は、武蔵入道が聖賢
の道を修得し、無欲に天下の政道を相量り、
無私の精神に徹したがゆえに、四海が日を
追うごとに豊かになったのでした。
それで、いつしか『太平記』とだけ、
呼ばれるようになったのでした。
それでは、本題に入りましょう。
【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる
▽ 世に三つの勇者あり
およそ世に三つの勇者がある。一つには、
生得の勇者、二つには、血気の勇者、
三つには、仁義の勇者である。
先ず、生得の勇者とは、生まれつきのもの
であり、恐ろしい事を知らず、する事をも
顧みない者がいる。心が健やかであるだけで、
遠く慮ることができない。
また、血気の勇者とは、生まれつき勝れて
勇気があることもない。また、あながち臆病
だということもない人である。
そうではあっても、腹を立てて怒る時か、
または、人に頼まれると即座に受け易く、
また、主人に言葉をかけられなどして、
何につけても血気に乗り、上がっている時に、
勇気が涌いてくるならば、炎の中や深い水底
へも入り、鬼神をも恐れず、剛をなす類で
ある。時が過ぎれば、その勇は少しも無く、
人を恐れる気持ちさえあるのだ。
さらに、仁義の勇者とは、常に事を慎み、
行いに失がないだろうかと省み、一命の重き
ことを思量して、周りの人への礼を厚くし、
和を施し、事の切なるに臨んでは、全てを
受け容れて遁れず、勇敢に死する者を云う。
(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第六
楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)
▽ 正成、兵士の勇臆について語る
(以下、終わりまで「太平記秘伝理尽鈔巻第三
笠置軍事付陶山・小見山夜討の事」より)
その昔、楠木正成は息子たちに次のように
語りかけた。
兵士たちの心中をおもんばかって、それらに
応じて命令せよ。臆した者には、敵が必ず亡びる
のだと説け。こちらが身命を捨てるのだという
ことは説いてはならない。
勇の過ぎる者には、小さな事に軽々しく命を
捨てるのは道理に反している。あくまでも、
義によって(命を)軽くせよ、と説け。
勇の過ぎる者というのは、生得(生まれもって)
の勇者とは違って、ただ死にさえすればよい
と思っている者だからである。
▽ 血気の勇者と仁義の勇者
血気の勇者ということがある。血気とは、
向こう見ずな意気である。常日頃は勇気が無いが、
怒ると勇気が出てきて、死を顧みない者がいる。
また、人に褒められると俄(にわ)かに勇気が
出てきて、炎(ほのお)の中へも入る者がいる。
人から「頼むぞ」と云われると動じやすく、
心変わりしやすい。また、年来の重恩を忘れて、
当面の親しさに意を寄せる。
そういう人間は、自分の父母には不孝であって、
親しい人に付いて自分以外の父母に意を寄せ、
君主の命に背いて、仲間にだけ意を寄せ、
兄弟を離れ、他人に親しみ、重恩を捨て、
少々の恨みにこだわり、かつての大恩を
忘れて、今の小恩に付くのである。
このような行跡(ふるまい)は、全て血気の勇者で
ある。これらに対しては、常に血気ということを
語って教え、義に付くことを奨励するようにせよ。
また、仁義の勇者ということがある。道理を
わきまえて実行し、国の為に命を捨てることを
喜びとすることから仁という。義によって身命を
捨てることから義と呼ばれるのである。
仁義・生得・血気の三つは、どれもが兵士の中
に存在するのである。
▽ 臆病者には「決死」と言うな
これら以外に、臆病というのがあるので知って
おけ。将軍が戦場で死すべきことについて言及した
ならば、仁義・生得の二つの勇者であれば、
益々勇気がわいてくるものである。しかし、
血気の勇者は一往勇むことがあっても、時日が
移れば勇気も消えうせるものである。
臆している兵士は、将軍が決死の覚悟を固めた
のを見て、死を恐れて逃げ散るものである。
臆病な兵士が散ってしまえば、血気の者もまた
臆病になるのである。
この世の中には臆病が多く、血気すらまれで
ある。生得の勇者はさらにまれであって、仁義の
勇者などはほとんどいない。
このため、ことが急を要するような場面に及んで、
将軍と死をともにしようと思う者は少なく、
一身を立てようと欲するものは多い。世の常の
合戦では、将軍は決して死のうなどと軽々しく
言わないものだ。
▽ 十死一生の合戦
ところが、「十死一生の合戦」と言うものもある。
例えば、兵力において味方が弱く敵が十倍の
強さである。それだけではなく、敵に従う兵は
日々に増えていき、味方は夜毎に劣勢になり、
周辺の国の援助も得られない。このような状況
であれば、合戦を急げ。
しかも、通常のような戦い方では、勝つことは
できない。大河を後ろにして退くことも
ままならないようにして、討死を覚悟した上で、
敵の堅い陣地を突破せよ。
生きる望みは一つ、死は九つ。このことから
十死一生というのだぞ。生きようと欲すれば死す。
死のうと覚悟すれば生きるのだぞ。軍の大事とは
ただこのことである。
正成は息子たちにこのように教えたのであった。
▽ 笠置山を落城させた陶山・小見山の夜討ち
『太平記』によれば、元弘元(1331)年8月、
後醍醐天皇が笠置山に遷幸されると、六波羅探題
は七万余騎の軍勢で笠置山を囲んでこれを攻めた。
しかし、笠置山は、西国の軍勢が数万騎で数日間
攻めても落ちなかった。笠置勢三千余騎は、
足助重範らが奮戦して六波羅軍を悩ませた。
そうしているうちに、畿内・西国に宮方に
与しての挙兵がおこり始めた。急いでこの城を
落とさなければ、諸国に六波羅軍の敵が多く
出てくるのは疑いなかった。
やがて鎌倉から東国の軍勢が援軍として
上ってきた。しかし、東国の大将には智謀が
無い。力攻めだけでは笠置山は落とせないだろう。
そこで、六波羅軍の陶山と小見山は、
9月30日夜、わずかな手勢で笠置山を襲撃した。
陶山は手勢五十余人を率いて、笠置の城の北側
の断崖絶壁に回りこみ、崖をよじ登って城内に
突入した。
兵力が足りない笠置勢は、北側の入り口付近の
地形が険しいことを頼みとして、そこには兵士を
置いていなかった。
これにより、官軍側は奇襲され、笠置山は落城した。
夜討ちの日、陶山は死装束に曼荼羅を
書き付けて、郎従たちに十死一生の覚悟を示した
のであった。
▽ 山城の守備・新田義貞と楠木正成の問答
世の中が鎮まって後、新田義貞が楠木正成に
対して、雑談のついでに質問した。
「笠置の城が攻め落とされたことは、
寄手(攻撃側の兵士)の勇が優れていたから
ではない。陶山の智謀と勇が秀でていたからである。
今後もこのような険阻な場所を、優れた兵を
もって警固するのは適切ではない。楠木殿は、
どう思われるか。」
そこで、正成が云うには、
「医師が病気を防ぐのに薬をもってするよう
に為せばよいのです。山城の険しい箇所で
あれば、敵も必ず忍びを入れるでしょう。
なぜならば、地形の険しさを頼んで、警固の
兵士を置かないからです。また、警固の兵も、
険しい地形であることに安心して守るのに
怠りがあるからです。
ただし、私の考えるところをお尋ねに
なられたので、簡単に申し上げたのですが、
その意味を奥に残すようであれば、かえって
人並みにえらぶっているように思われるでしょう
から、さらに説明いたしましょう。
▽ 老兵の特性を活かして用いる
四十歳以上の老兵を以て、険しい箇所を
昼夜にわたり守らせるのがよいと思います。
その理由は、人は四十歳以前は若くして
眠りがちですが、四十歳以後は眠ることが
少ない。険しい地形であれば、敵も必ず、
夜討ちや忍びを考えるでありましょう。
白昼に攻めるようなことはしないものです。
このような場合の守備は、眠らないことに
勝るものはありません。
また、老兵は積んできた経験も豊富です。
さらに、老兵はあらゆることによく心がける
ものでもあります。
したがって、険しい地形であっても敵が
攻めよせて来るかもしれない場所には、
四十歳以下の若者たちに少々の老兵をそれぞれ
加えて編成するのです。
老いて武功も無く、若い時には強弓と云われた者
でも、四十歳以降は次第に弱くなるものです。
かけ引き・歩行・力業(ちからわざ)、これらは皆、
二十四、五から三十七、八までを盛りとするもの
です。
このような分別なく、兵を配置されるよう
であれば、闇将でしかありません」とのことで
あった。
義貞は深く心を打たれたのであった。
(「勇臆・老若に応じて人を用いる」終り)
(以下次号)
(いえむら・かずゆき)
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● 著者略歴
家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。
現在、日本兵法研究会会長。
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
著書に
『真実の日本戦史』
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『名将に学ぶ 世界の戦術』
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「台湾の声」【太陽花運動】中国併呑にノー学生決起は台湾の独立意識に火をつけるか ( 上)
【太陽花運動】中国併呑にノー学生決起は台湾の独立意識に火をつけるか(上)
日本李登輝友の会メルマガ日台共栄より転載
柚原 正敬
台湾の学生たちでつくる「太陽花学運(ひまわり学生運動)」がサービス貿易協定の撤回などを
求めて占拠していた立法院議場を出てからほぼ2カ月が経つ。
ひまわり学生運動の学生リーダーを務めた林飛帆氏(台湾大学大学院生)や陳為廷氏(清華大学
大学院生)と中央研究院研究員の黄國昌氏らは5月18日、社会運動によって政治改革を実現して真
の民主化を目指したいとして、新しい活動組織として「島国前進(Taiwan March)」を結成して記
者会見を開き、引き続きサービス業貿協定や事前監督制度の法制化、「公民投票法」の改正を求め
ていくと発表、すでに新たな一歩を踏み出している。
ひまわり学生運動の最大の強みは、既成政党に頼らず、民意に支持されたことだ。それは、新組
織「島国前進」の活動方針の一つに公民投票法の改正を入れたことによく表れている。
李登輝元総統は学生たちの行動を高く評価し「学生たちが台湾という国に対して見せた情熱、理
想の堅持、明るい未来の追求、台湾の民主主義を世界に知らしめたエネルギーは、私たちに国家の
希望というものを見せてくれた」(3月30日)と述べられた。
台湾に問われているのは、民意をいかに国政に反映させてゆくかであり、その先に「国家の希
望」が見えてくる。今後の「島国前進(Taiwan March)」の活動から目が離せない所以だ。
本会の柚原事務局長は月刊「正論」6月号に寄稿した論考で「立法院占拠は、台湾民主主義の
ターニングポイントになるだろう。もしかしたら、台湾史に残る分岐点を為したのではないか」と
指摘している。
改めて「太陽花学運(ひまわり学生運動)」の意義を振り返ってみるため、ここにその全文をご
紹介したい。400字詰め原稿用紙で20枚ほどあるので、2回に分けて掲載したい。プロフィールも同
号からである。
◆柚原正敬(ゆはら・まさたか)氏
昭和30(1955)年、福島県生まれ。早稲田大学中退。同57年、専務取締役編集長として出版社
「展転社」を創立し、主に天皇、靖国、大東亜戦争、南京、台湾に関する単行本約130冊を担当
編集。平成7年、台湾研究フォーラムを設立。同14年、日本李登輝友の会の設立とともに常務理
事・事務局長に就任。共著に『世界から見た大東亜戦争』『台湾と日本・交流秘話』など。
-----------------------------------------------------------------------------------------
中国併呑にノー! 学生決起は台湾の独立意識に火をつけるか(上)
日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬
◆民意が支持した「ひまわり学生運動」
台湾が昨年6月に中国と結んだ「サービス貿易協定」の撤回を求め、3月18日から立法院(国会に
相当)の議場を占拠していた学生たちは4月10、自分たちの要求が一定の成果を上げたとして立法
院から退去した。
学生たちはこの活動を「太陽花学運(ひまわり学生運動)」と名付け、馬英九総統との直接対話
をはじめ、サービス貿易協定の撤回、台湾が中国と協定を結ぶ場合は事前に内容を監督する制度
(事前監督制度)の法制化、各党派の代表者や住民代表などを集めた公民憲政会議(国是会議)の
開催などを求めた。
この24日間に及ぶ立法院占拠という学生運動は、日を追うごとに台湾社会の関心を深め、台湾ば
かりでなく、協定当事国の中国をはじめ、アメリカや日本からも強い関心が寄せられた。日本の報
道数は台湾を除けば世界一と伝えられている。
占拠から2日後の3月20日、日本の在日台湾同郷会、在日台湾婦女会、日本台湾医師連合、台湾独
立建国聯盟日本本部の4団体は「民主主義と台湾の主権を守るために立ち上がった学生たちを支持
する」「台湾の政府に対しこの協定を撤回するよう要求する」など5項目の共同声明を発表している。
台湾では、占拠翌日から高雄市で約千人の学生たちが座り込みデモをするなど抗議行動は他都市
にも及んだ。
李登輝元総統も早くから関心を寄せ「馬総統は彼らの話を聞いて、早く学校や家に帰す努力をす
るべきだ」「もし私がいま総統であれば、今度の学運の学生たちと対話して、彼らの要求をじかに
聞き取り、学運をいいように処理する」と述べ、学生たちと直接話すことで早く収拾するよう馬氏
を促していた。
学生たちの活動は台湾社会に大きなインパクト与えた。それは世論調査や抗議デモの参加者数に
もはっきりと表れている。
占拠から6日後の3月24日に実施した台湾のテレビ局TVBSの世論調査によれば、馬総統に学生
との対話を求める意見は83%に達し、学生たちが3月30日に行った総統府前の抗議デモは50万人を
超えた(警察発表は11万6千人)。この日、この抗議デモに呼応して日本でも、台湾留学生が主催
する集会が東京、京都、福岡で開かれ、約900人が参加したと伝えられている。
また、3月下旬に実施した民進党系シンクタンクの新台湾国策智庫による世論調査では、サービ
ス貿易協定について「交渉やり直し」支持は66・2%、「国是会議の招集」は76・5%、「事前監督
制度の法制化」に至っては82・1%が支持する結果となっている。台湾の民意が学生たちを支持し
ていることは明らかだった。
元産経新聞記者の福島香織氏はジャーナリストとして立法院内に入り、学生運動リーダーの林飛
帆氏(台湾大学大学院生)と陳為廷氏(台湾清華大学大学院生)へインタビューし、また「被災地
の災害対策指揮所かと思うような指揮系統」により統率のとれた立法院内の整然とした様子を次の
ように報告している。
<その命令系統とロジスティック管理のものすごさである。占拠されている立法院内に入って驚い
た。一瞬被災地の災害対策指揮所かと思うような指揮系統ができている。総指揮部の下に渉外部
門、物資管理部門、メディア対応部門、ボランティア医師による医療部門、学生らによるネット・
動画サイト・フェイスブックなどを使った世界への広報・情報発信部門、果ては、35か国語対応の
通訳部門まである。すぐにでも政党が作れそうな人材の充実ぶりだ。>(4月2日付「日経ビジネ
ス・中国新聞趣聞(チャイナ・ゴシップス)」「続・『台湾ひまわり学運』のゆくえ─カリスマ学
生リーダーの登場はアジアを変えるか」)。
福島氏は台湾教授協会の呂忠津会長が「これほど素晴らしい学生運動を行うとは、この子たちは
私たちの誇りです」と述べていることを伝えている。
馬英九政権側も学生たちのロジスティック管理のすごさには舌を巻いたようで、龍應台・文化部
長(文化大臣に相当)は思想面の脆弱性を指摘しつつも「若者たちの組織力、職務分担、国内外へ
の広報アピール、イメージ戦略にいたるまで『ただただ感心するばかり』だとし、台湾社会が戦後
60年間に経験した数々の市民運動で積み上げてきたものの成果発表にも等しいと高く評価、『学生
らの行動力は百点満点。愛すべき若者たちだ』と絶賛」(4月2日付「フォーカス台湾」)したという。
◆危急存亡の秋
では、学生たちは「サービス貿易協定」を巡る動きのどこに、どのような危機感を覚えたのだろ
うか。私自身はこの占拠中、台湾に行っていない。隔靴掻痒の感はあるが、ニュースや立法院の中
で支援活動に携わっていた方などに聞いたことなどをベースに、学生たちが立法院を退去するまで
の動きを追ってみたい。
そもそもサービス貿易協定とは、台湾が2010年6月に中国と結んだ経済協力枠組み協定(ECF
A)の具体化協議の一つで、タクシー、広告、機械製造、印刷、出版、書店、食品、生活用品、商
店、新聞、金融、医療、旅行、建物など、台湾は60、中国は84のサービス分野の市場を開放し、相
互参入を容易にすると伝えられていた。
ただ、サービス分野における台湾の業種は中小企業が大半を占めるため、大規模な中国資本の進
出は台湾企業を圧迫すると心配され、台湾経済が中国に呑み込まれるのではないかとの懸念が広
がっていた。そこで、政府側の説明が不十分として、立法院における公聴会や審査手続きを経て発
効することに決めていた。
立法院での承認審議が終われば、4月上旬にも本会議で可決される予定だった。3月17日、多数与
党である中国国民党所属の委員長は委員会開始直後に審議打ち切りを宣言して強行採決し、承認手
続きを進めようとした。これが直接のきっかけだった。
中国国民党が強硬策を講じたことで、学生たちは民主主義に反すると反発した。また、協定は密
室で結ばれたもので、中国による経済進出は実質的な台湾併呑であり、これは台湾の危急存亡、生
きるか死ぬかの重大な瀬戸際と捉え、翌18日夜、約300名の学生たちが本会議場である立法院議場
を占拠してしまう。学生たちは馬英九総統との直接対話を求め、サービス貿易協定の撤回などを求
めた。
ところが、馬氏は学生たちの要求に応ずるどころか、23日に開いた記者会見では「これこそが
我々の必要としている民主主義なのか、このような方法を用いて法治を犠牲にしなければならない
のか」と、民主主義を踏みにじっているのは学生たちだと非難した。
この間にも、立法院の周りには学生らを支援しようと数万人が集まり、台湾各地から数十名の大
学教授も応援に駆けつけ、路上で民主主義やサービス貿易協定などについて青空講義を始めていた。
しかし、馬氏のこの対決姿勢はさらに学生たちの反発を買い、23日の夜、学生の一部数百人が一
ブロック離れた行政院の敷地内に警官隊の警備を突破して座り込む事態が勃発した。
これに対し、馬総統に指示を仰いだ江宜樺・行政院長(首相に相当)は強制排除を警察に命じ、
高圧放水車を繰り出して強力な放水を学生たちに浴びせて抵抗力を奪った。ずぶ濡れになりながら
警官に引きずり出される光景は、強権を発動して戦車で数百名の学生を殺戮した天安門事件を連想
させるに十分なものだった。
李元総統が声を詰まらせながら「国家の指導者たるもの、学生の意見に耳を傾けるべきで、警察
力を使って彼らを排除するべきではない。学生たちが殴られている光景を見るのは耐えられない」
と答える場面はテレビでも繰り返して放映された。
さすがにこの事態に、同じ中国国民党に所属する?龍斌・台北市長は「馬英九総統や江宜樺行政
院長、王金平立法院長は何らかの形で学生と意見交換を行って問題を解決すべき」と述べ、胡志
強・台中市長も「学生を傷つけてはならない。彼らを誘導して問題を解決すべき」と表明する。
3月25日、馬氏もようやくここにきて、前提条件を設けずに学生の代表を総統府に招いて対話す
る姿勢を示した。馬氏の支持率はすでに10%を割っており、これ以上のイメージダウンは11月末の
統一地方選挙にも、馬政権を援護する中国にも影響すると踏んでの決断だったようだ。しかし、学
生側は応じなかった。馬氏があくまで協定承認を目指す構えを崩していないからだ。そこで、馬氏
が要求に応じるまで無期限で占拠を続けると宣言、大規模デモを実施するとの発表に至っている。
50万人デモ後の4月3日、行政院は膠着状態を打破しようと学生たちの要求に応じ、事前監督制度
の法案を立法院に提出し、また「経済貿易国是会議」を開く計画も示した。しかし、馬氏は依然と
して協定の早期成立を目指す姿勢を崩していない。
この膠着状態を破ったのが王金平・立法院長だった。王院長は4月6日午前、立法院を訪れ、事前
監督制度の法制化を急ぎ、それまでは協定の承認手続きを進めないという方針を示した。また、立
法院の中に入って学生たちとの対話を実現、「皆さんの声は私たちに届いています。引き続き努力
します」と語りかけた。馬氏のメンツは丸潰れとなった。
学生たちもここが潮時と読んだのだろう。翌7日夜、10日に立法院を撤退すると宣言した。すぐ
に撤退しないのは、議場内を清掃して占拠前の状況に戻す時間が必要だからだった。事実、原状回
復に向け、8日と9日は清掃作業や垂れ幕、ポスターの撤去作業などの後片付けに追われた。
一方、7日に記者会見した馬総統は学生たちの撤退宣言を評価しつつも、協定の事前監督法案の
審議とサービス貿易協定の審議を同時進行すると従来どおりの方針を強調、王院長宣言と食い違い
を見せている。今後も成り行きが注目される所以だ。 (つづく)
【月刊「正論」平成26(2014)年6月号より】
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
日本李登輝友の会メルマガ日台共栄より転載
柚原 正敬
台湾の学生たちでつくる「太陽花学運(ひまわり学生運動)」がサービス貿易協定の撤回などを
求めて占拠していた立法院議場を出てからほぼ2カ月が経つ。
ひまわり学生運動の学生リーダーを務めた林飛帆氏(台湾大学大学院生)や陳為廷氏(清華大学
大学院生)と中央研究院研究員の黄國昌氏らは5月18日、社会運動によって政治改革を実現して真
の民主化を目指したいとして、新しい活動組織として「島国前進(Taiwan March)」を結成して記
者会見を開き、引き続きサービス業貿協定や事前監督制度の法制化、「公民投票法」の改正を求め
ていくと発表、すでに新たな一歩を踏み出している。
ひまわり学生運動の最大の強みは、既成政党に頼らず、民意に支持されたことだ。それは、新組
織「島国前進」の活動方針の一つに公民投票法の改正を入れたことによく表れている。
李登輝元総統は学生たちの行動を高く評価し「学生たちが台湾という国に対して見せた情熱、理
想の堅持、明るい未来の追求、台湾の民主主義を世界に知らしめたエネルギーは、私たちに国家の
希望というものを見せてくれた」(3月30日)と述べられた。
台湾に問われているのは、民意をいかに国政に反映させてゆくかであり、その先に「国家の希
望」が見えてくる。今後の「島国前進(Taiwan March)」の活動から目が離せない所以だ。
本会の柚原事務局長は月刊「正論」6月号に寄稿した論考で「立法院占拠は、台湾民主主義の
ターニングポイントになるだろう。もしかしたら、台湾史に残る分岐点を為したのではないか」と
指摘している。
改めて「太陽花学運(ひまわり学生運動)」の意義を振り返ってみるため、ここにその全文をご
紹介したい。400字詰め原稿用紙で20枚ほどあるので、2回に分けて掲載したい。プロフィールも同
号からである。
◆柚原正敬(ゆはら・まさたか)氏
昭和30(1955)年、福島県生まれ。早稲田大学中退。同57年、専務取締役編集長として出版社
「展転社」を創立し、主に天皇、靖国、大東亜戦争、南京、台湾に関する単行本約130冊を担当
編集。平成7年、台湾研究フォーラムを設立。同14年、日本李登輝友の会の設立とともに常務理
事・事務局長に就任。共著に『世界から見た大東亜戦争』『台湾と日本・交流秘話』など。
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中国併呑にノー! 学生決起は台湾の独立意識に火をつけるか(上)
日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬
◆民意が支持した「ひまわり学生運動」
台湾が昨年6月に中国と結んだ「サービス貿易協定」の撤回を求め、3月18日から立法院(国会に
相当)の議場を占拠していた学生たちは4月10、自分たちの要求が一定の成果を上げたとして立法
院から退去した。
学生たちはこの活動を「太陽花学運(ひまわり学生運動)」と名付け、馬英九総統との直接対話
をはじめ、サービス貿易協定の撤回、台湾が中国と協定を結ぶ場合は事前に内容を監督する制度
(事前監督制度)の法制化、各党派の代表者や住民代表などを集めた公民憲政会議(国是会議)の
開催などを求めた。
この24日間に及ぶ立法院占拠という学生運動は、日を追うごとに台湾社会の関心を深め、台湾ば
かりでなく、協定当事国の中国をはじめ、アメリカや日本からも強い関心が寄せられた。日本の報
道数は台湾を除けば世界一と伝えられている。
占拠から2日後の3月20日、日本の在日台湾同郷会、在日台湾婦女会、日本台湾医師連合、台湾独
立建国聯盟日本本部の4団体は「民主主義と台湾の主権を守るために立ち上がった学生たちを支持
する」「台湾の政府に対しこの協定を撤回するよう要求する」など5項目の共同声明を発表している。
台湾では、占拠翌日から高雄市で約千人の学生たちが座り込みデモをするなど抗議行動は他都市
にも及んだ。
李登輝元総統も早くから関心を寄せ「馬総統は彼らの話を聞いて、早く学校や家に帰す努力をす
るべきだ」「もし私がいま総統であれば、今度の学運の学生たちと対話して、彼らの要求をじかに
聞き取り、学運をいいように処理する」と述べ、学生たちと直接話すことで早く収拾するよう馬氏
を促していた。
学生たちの活動は台湾社会に大きなインパクト与えた。それは世論調査や抗議デモの参加者数に
もはっきりと表れている。
占拠から6日後の3月24日に実施した台湾のテレビ局TVBSの世論調査によれば、馬総統に学生
との対話を求める意見は83%に達し、学生たちが3月30日に行った総統府前の抗議デモは50万人を
超えた(警察発表は11万6千人)。この日、この抗議デモに呼応して日本でも、台湾留学生が主催
する集会が東京、京都、福岡で開かれ、約900人が参加したと伝えられている。
また、3月下旬に実施した民進党系シンクタンクの新台湾国策智庫による世論調査では、サービ
ス貿易協定について「交渉やり直し」支持は66・2%、「国是会議の招集」は76・5%、「事前監督
制度の法制化」に至っては82・1%が支持する結果となっている。台湾の民意が学生たちを支持し
ていることは明らかだった。
元産経新聞記者の福島香織氏はジャーナリストとして立法院内に入り、学生運動リーダーの林飛
帆氏(台湾大学大学院生)と陳為廷氏(台湾清華大学大学院生)へインタビューし、また「被災地
の災害対策指揮所かと思うような指揮系統」により統率のとれた立法院内の整然とした様子を次の
ように報告している。
<その命令系統とロジスティック管理のものすごさである。占拠されている立法院内に入って驚い
た。一瞬被災地の災害対策指揮所かと思うような指揮系統ができている。総指揮部の下に渉外部
門、物資管理部門、メディア対応部門、ボランティア医師による医療部門、学生らによるネット・
動画サイト・フェイスブックなどを使った世界への広報・情報発信部門、果ては、35か国語対応の
通訳部門まである。すぐにでも政党が作れそうな人材の充実ぶりだ。>(4月2日付「日経ビジネ
ス・中国新聞趣聞(チャイナ・ゴシップス)」「続・『台湾ひまわり学運』のゆくえ─カリスマ学
生リーダーの登場はアジアを変えるか」)。
福島氏は台湾教授協会の呂忠津会長が「これほど素晴らしい学生運動を行うとは、この子たちは
私たちの誇りです」と述べていることを伝えている。
馬英九政権側も学生たちのロジスティック管理のすごさには舌を巻いたようで、龍應台・文化部
長(文化大臣に相当)は思想面の脆弱性を指摘しつつも「若者たちの組織力、職務分担、国内外へ
の広報アピール、イメージ戦略にいたるまで『ただただ感心するばかり』だとし、台湾社会が戦後
60年間に経験した数々の市民運動で積み上げてきたものの成果発表にも等しいと高く評価、『学生
らの行動力は百点満点。愛すべき若者たちだ』と絶賛」(4月2日付「フォーカス台湾」)したという。
◆危急存亡の秋
では、学生たちは「サービス貿易協定」を巡る動きのどこに、どのような危機感を覚えたのだろ
うか。私自身はこの占拠中、台湾に行っていない。隔靴掻痒の感はあるが、ニュースや立法院の中
で支援活動に携わっていた方などに聞いたことなどをベースに、学生たちが立法院を退去するまで
の動きを追ってみたい。
そもそもサービス貿易協定とは、台湾が2010年6月に中国と結んだ経済協力枠組み協定(ECF
A)の具体化協議の一つで、タクシー、広告、機械製造、印刷、出版、書店、食品、生活用品、商
店、新聞、金融、医療、旅行、建物など、台湾は60、中国は84のサービス分野の市場を開放し、相
互参入を容易にすると伝えられていた。
ただ、サービス分野における台湾の業種は中小企業が大半を占めるため、大規模な中国資本の進
出は台湾企業を圧迫すると心配され、台湾経済が中国に呑み込まれるのではないかとの懸念が広
がっていた。そこで、政府側の説明が不十分として、立法院における公聴会や審査手続きを経て発
効することに決めていた。
立法院での承認審議が終われば、4月上旬にも本会議で可決される予定だった。3月17日、多数与
党である中国国民党所属の委員長は委員会開始直後に審議打ち切りを宣言して強行採決し、承認手
続きを進めようとした。これが直接のきっかけだった。
中国国民党が強硬策を講じたことで、学生たちは民主主義に反すると反発した。また、協定は密
室で結ばれたもので、中国による経済進出は実質的な台湾併呑であり、これは台湾の危急存亡、生
きるか死ぬかの重大な瀬戸際と捉え、翌18日夜、約300名の学生たちが本会議場である立法院議場
を占拠してしまう。学生たちは馬英九総統との直接対話を求め、サービス貿易協定の撤回などを求
めた。
ところが、馬氏は学生たちの要求に応ずるどころか、23日に開いた記者会見では「これこそが
我々の必要としている民主主義なのか、このような方法を用いて法治を犠牲にしなければならない
のか」と、民主主義を踏みにじっているのは学生たちだと非難した。
この間にも、立法院の周りには学生らを支援しようと数万人が集まり、台湾各地から数十名の大
学教授も応援に駆けつけ、路上で民主主義やサービス貿易協定などについて青空講義を始めていた。
しかし、馬氏のこの対決姿勢はさらに学生たちの反発を買い、23日の夜、学生の一部数百人が一
ブロック離れた行政院の敷地内に警官隊の警備を突破して座り込む事態が勃発した。
これに対し、馬総統に指示を仰いだ江宜樺・行政院長(首相に相当)は強制排除を警察に命じ、
高圧放水車を繰り出して強力な放水を学生たちに浴びせて抵抗力を奪った。ずぶ濡れになりながら
警官に引きずり出される光景は、強権を発動して戦車で数百名の学生を殺戮した天安門事件を連想
させるに十分なものだった。
李元総統が声を詰まらせながら「国家の指導者たるもの、学生の意見に耳を傾けるべきで、警察
力を使って彼らを排除するべきではない。学生たちが殴られている光景を見るのは耐えられない」
と答える場面はテレビでも繰り返して放映された。
さすがにこの事態に、同じ中国国民党に所属する?龍斌・台北市長は「馬英九総統や江宜樺行政
院長、王金平立法院長は何らかの形で学生と意見交換を行って問題を解決すべき」と述べ、胡志
強・台中市長も「学生を傷つけてはならない。彼らを誘導して問題を解決すべき」と表明する。
3月25日、馬氏もようやくここにきて、前提条件を設けずに学生の代表を総統府に招いて対話す
る姿勢を示した。馬氏の支持率はすでに10%を割っており、これ以上のイメージダウンは11月末の
統一地方選挙にも、馬政権を援護する中国にも影響すると踏んでの決断だったようだ。しかし、学
生側は応じなかった。馬氏があくまで協定承認を目指す構えを崩していないからだ。そこで、馬氏
が要求に応じるまで無期限で占拠を続けると宣言、大規模デモを実施するとの発表に至っている。
50万人デモ後の4月3日、行政院は膠着状態を打破しようと学生たちの要求に応じ、事前監督制度
の法案を立法院に提出し、また「経済貿易国是会議」を開く計画も示した。しかし、馬氏は依然と
して協定の早期成立を目指す姿勢を崩していない。
この膠着状態を破ったのが王金平・立法院長だった。王院長は4月6日午前、立法院を訪れ、事前
監督制度の法制化を急ぎ、それまでは協定の承認手続きを進めないという方針を示した。また、立
法院の中に入って学生たちとの対話を実現、「皆さんの声は私たちに届いています。引き続き努力
します」と語りかけた。馬氏のメンツは丸潰れとなった。
学生たちもここが潮時と読んだのだろう。翌7日夜、10日に立法院を撤退すると宣言した。すぐ
に撤退しないのは、議場内を清掃して占拠前の状況に戻す時間が必要だからだった。事実、原状回
復に向け、8日と9日は清掃作業や垂れ幕、ポスターの撤去作業などの後片付けに追われた。
一方、7日に記者会見した馬総統は学生たちの撤退宣言を評価しつつも、協定の事前監督法案の
審議とサービス貿易協定の審議を同時進行すると従来どおりの方針を強調、王院長宣言と食い違い
を見せている。今後も成り行きが注目される所以だ。 (つづく)
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