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    2015年3月21日土曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 18 回】大将は戦場を離れるな 

    【楠木正成の統率力第18回】 大将は戦場を離れるな 
             


                   家村 和幸

    ▽ ごあいさつ

     こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     『太平記秘伝理尽鈔』には、合戦における「戦術・戦法」
    や「指揮・統率」に関する具体的な話がたくさん書いて
    あります。同じ楠流兵法書でも『河陽兵庫之記』や
    『楠正成一巻之書』が洗練された「理論書」であるのに
    対して、『理尽鈔』は「事例集」といった位置づけに
    あったと云えましょう。

     江戸時代、多くの武士たちがこうした「理論書」と
    「実例集」の両方を読むことで、戦(いくさ)のない
    時代でもより実戦的・実際的に「武人としての
    嗜(たしな)み」を身につけたのでしょう。

     今回も、千早城外・賀名生(あなう)の別働隊が
    大活躍しますが、まずは「理論書」の中から関連
    記述を紹介いたします。

     「上下が和し、諸人がうれしそうに喜び、楽しい
    ことをなにも施されずとも楽しみ、賞をなにも
    与えられなくとも満足し、国と人々が親睦して、
    上の者は恩恵を与え、下の者は果たすべき任務
    をしっかりと尽くし、その君主を尊ぶことは霊神が
    在するようであり、懐かしむことは父母の如くで
    あり、罰すれども怨まず、狎れていても侮らず、
    洋々悠々と徳化が下に流れていくのは、治まって
    いる世の中の効果である。(河陽兵庫之記一 順徳)」

     「これまでに、令が正しくなされて人がこれに服従
    しなかったことは無く、服従して剛毅になれば人は
    常に死を恐れない。兵自ら進んで死んでゆくようで
    あれば、戦は必ず勝つ。このようにして我が兵士
    全員が道義に殉ずる時は、貧しく賤しい身分で
    あっても天地の中で何ら恥じるところがなく、
    たとえわずかな兵力であっても大敵を恐れることも
    ない。(河陽兵庫之記二 威令)」

     それでは、本題に入りましょう。


    【第18回】 大将は戦場を離れるな

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 新田義貞、綸旨を賜はる事」より)

    ▽ 宇都宮公綱、本格的な攻城戦法で櫓を掘り崩す

     伝えられるには、(宇都宮)公綱が千早に下り来て、
    大将の大仏奥州と評定(=作戦会議)をして諸軍勢を
    集め、千早を百重、千重に取り囲ませて、夜毎押し
    寄せる鯨の波のような時の声を発し、前にいる兵は
    手に手に鋤・鍬を取って堀をほり、前に土を高く
    積み上げて、その陰に宇都宮を始めとして着陣した。
    城からはたくさんの車松明が投げ込まれ、大石や
    大木を投げ落としてきたが、堀によって留められた。

     夜が明ければ、これらの堀を前に当て、宇都宮を
    始めとして宗徒の大将たちが笠じるしを風になびかせて、
    雲霞のごとくに並んでいたのだった。夜に入れば、
    寄手は又しても時の声を発し、前の夜の堀からさらに
    十間(約15メートル)から二十間(約30メートル)、
    三十間(約45メートル)押し出して堀をほる。城からは
    雨あられのように大石・大木が投げ落とされる。
    このような堀が出来るまでは、石にあたる者も多かった。
    しかし、堀が出来てからはあたる者もいなくなった。

     毎夜このようにして十日以上も続け、大勢でじわり
    じわりと城の斜面を昇って攻めたので、ついに城の
    切り岸の下までたどり付いた。そこで、寄手は
    鹿垣(ししがき)一重を引き破って捨てたところ、これに
    よりかえって城兵から隠れることも出来なくなった寄手
    の兵士は、数多く討たれてしまった。楠木がよく考えて
    構築した千早城の切り岸には、よじ登れる箇所が
    全くなかったのだった。

     こうしたことから、宇都宮は新たな謀を考え出した。
    「とにかくこの城を掘り崩せ」と命じて、切り岸の下から
    掘りに掘った。この時の寄手は密集しており、間隙が
    なかったので、城中から忍びの兵を出すこともほとんど
    出来なかった。そのため、楠木は敵が城を掘り崩そう
    と工事していることさえ知らずにいたところ、大手の
    櫓(やぐら)一つが掘り崩された。そこで寄手が城中
    に切り入ろうとしたが、城から大石が投げ落とされた
    ので大勢が討たれて中止された。正成がかねて
    塀沿いに植えさせていた樹木が、この時には厳しい
    構えを維持するのに役立ったことであろう。

     その後は役所役所の後ろに穴を掘って煮え湯を
    沸かし、これを敵にかけたり、石を落としたりして
    敵兵を数多く打殺した。これにより、寄手はいくら
    堀り続けても、櫓の一つも掘り崩せなくなった。
    ただ、宇都宮が最前にいて正面の櫓一つを掘り
    崩したことだけは、多くの人を死傷させたにも
    かかわらず、一つの高名(手柄)となったのである。


    ▽ 正氏、賀名生の別働隊を率いて寄手を夜討ち

     正成は、寄手が城を攻める様子を見て、一つ
    夜討ちをしなければなるまい、と思っていたところに、
    賀名生(あなう)に居た楠木七郎(正氏)が500余騎
    を率いてやってきた。

     風雨の夜の暗闇にまぎれて、互いに顔を知り
    知られている兵を、10人、20人一組にして、
    城を囲んでいる大将の諸隊へ分散して遣わし、
    自分は150騎で宇都宮の陣の後ろにまぎれていた。
    そして、味方の兵たちが夜通しの警備の交代に行く
    真似をして、合言葉を定めて居たのであった。

     (同じく賀名生の)和田孫三郎には、選りすぐった兵
    800人を引き連れさせ、大将の本陣に忍びを入れて
    焼き立てさせ、これを合図に前にいる200余騎で
    陣中に切り込み、残りを三つに分けて、あちらこちら
    に軍勢を伏せさせていたのであった。

     寄手が「これは何事だ」とあわてているところに、
    楠木七郎がすでに組ごとに分けていた兵たちが、

     「味方の何がし誰それが、楠木殿に返り忠して
    おられますぞ」

     と叫びながら、前後不覚に風の如く切って廻った
    ので、寄手は驚き騒いだ。そこへ楠木七郎が150騎
    で宇都宮の陣へ懸け入ったので、敵は蜘蛛(くも)の子
    を散らすように自軍の陣へ引いて行き、また自軍の
    陣さえも通過して遠くへ引いていくのも多くあった。
    大将の陣も散々に懸け乱された。


    ▽ 正成、自分だけ戦場を離れた正氏を批判

     そうした中で、正成は城から一騎も出撃させる
    ことなくこれらを見物して居たのであったが、そこへ
    楠木七郎が城門の前にやって来て番兵に小声で
    語りかけた。番兵が喜んで門戸を開こうとするのを
    七郎がとがめて問うた。

     「どうして重要な城の門戸を、このような時に、
    大将の下知も無いのに開こうとするのか。番の兵
    は誰であるか。重大な過ちである。・・・ところで、
    正成は無事でおられるか。」

     番兵は「別に何ごともございません」と申した。
    七郎は同行してきた兵に言った。

     「おぬし、正成に伝えよ。寄手どもが千早城を激しく
    攻めることがあれば、私こそがこのようにいたしま
    しょう・・・と。さて、大将が見えないのを我が勢も
    驚いておることであろうから・・・」

     そして兵一人を城に入れ、そこから七郎正氏は
    帰った。正成はこれを聞いて、

     「思慮が浅いからであろう。大将たる者が、合戦の
    最中に戦場を去って、ここに来るとは。今、見てみよ。
    味方の兵たちは七郎が考えていたとおりの戦をして
    いないだろう。早々と引くことであろう」

     と云ったのであるが、案の定、あちらこちらで組を
    なしていた兵は、正氏が見あたらないので、早くに
    引いてしまう者も多かったという。


    ▽ 和田、忍び一人だけを城に派遣

     これに対して、和田孫三郎は忍びの兵を一人で
    城へ遣わしたのであった。正成は、「七郎より
    はるかに優っている」と語っていたという。

     和田も七郎の姿が見えないと聞いて、

     「楠木殿に対面するために城へ入られたのに
    違いない。まずいな・・・」

     とつぶやきつつ、自分が率いる兵を打ち連れて
    山かげに隠れてしばし待っていると、正氏が七十騎
    ほどでやってきた。前もって「合図して待とう」と(集合
    場所に)決めていた峰に登って、旗を打ち立てて
    待っていると、方々から兵が10騎、20騎ずつ
    走って来たので、それらを打ち連れて引き退いた
    のであった。


    ▽ 正成、正氏の忠・孝・勇を認める

     寄手は大将の陣を始めとして、敗れて討たれる者
    は数えきれぬほどであった。それでも、楠木側は
    小勢であったので引き退いたのであった。

     陣を堅くして崩れなかった陣は、六つだけで
    あった。二階堂道蘊(どううん)の陣、長崎四郎左衛門
    の陣、高橋九郎左衛門の陣、赤橋入道の陣、
    千葉介の陣、入江入道の陣である。これらも陣に
    敵が攻め寄せていたならば、踏みとどまることは
    できなかったと思われ、何とも情けない。これ以外
    の大将たちは五里、六里(約19キロメートル〜
    23.6キロメートル)も逃げて、次の日の白昼に
    帰ってくる者もあり、また日が暮れるのを待ってから
    戻り来る者もあったという。何とも見苦しいものである。

     この夜討ちにより、正成もまた大いに利を得た
    のであろう。正氏の謀は、実に忠を尽くしたもので
    ある。兄に対する孝であり、勇でもあり、と正成も
    感じいったのであった。


    ▽ 正氏が夜討ちを実行するまでのいきさつ

     また、伝えられるには、千早城の櫓の一つが
    掘り崩されたことが賀名生にまで伝わると、正成の
    郎従たちが集まって云うには、

     「我らが生きていたとしても、正成殿が滅亡される
    のを見るのはつらく、恨めしい。先ず、我らが先に
    死して、後はどうなるかは知らない。とにかくひとつ
    夜討ちして、正成殿の御目の前にて屍を軍門にさらすか、
    敵をひとまず追い払うか、二つの内のどちらかに
    定めよう。もしも我らが残らず死んだとしても、城さえ
    強固にして在るならば、正成殿の御ため何を惜しむ
    ことがございましょう」

     とのことであり、幼童に至るまで勇み進んだので
    あった。女や子供らでさえも

     「さあ、正成殿の御大事がこの時でこそあるならば、
    我らも命を惜しんで生きたところで何になりましょう」

     と覚悟を固めたように見え、口々に出陣を切望して
    いるので、七郎も和田も「そうであれば」とのことで
    評定を開いて、このような作戦を立てたのであった。

     正成は常に自分のことを思う意識が少なく、郎従を
    憐れんでいので、郎従も皆このようであったのだ。
    将たる者は知っておくべきことであろう。この度は
    正成も郎従たちの志を大いに感じたことであろう。


    (「大将は戦場を離れるな」終り)



    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
    ⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
    ⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

    『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
    ⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html

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    【過去の連載】いまでもメルマガで読めます。

    ●本土決戦準備の真実ー日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか(全25回)
    http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurahondo.html

    ●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
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    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
    20141004

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 17 回】楠木正成の『軍法六箇条』 

    【楠木正成の統率力第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』 
            



                     家村 和幸

    ▽ ごあいさつ

     こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

    千早城における楠木正成の戦いぶりは、孫子兵法に
    ある「兵は詭道なり」をそのまま実践したものでした。

     詭道とは、敵を詐り欺く(いつわりあざむく)ことで
    裏をかき、判断を誤らせるやり方ですが、これに
    ついて孫子兵法では具体的に次のように説いています。

     能力があっても無いように見せかけ、能力が
    無くて謀を用いても能力があるように見せ、
    近くにいても遠くにいるように思わせ、遠くにいても
    近くにいるように錯覚させ、利益を与えて敵を
    誘い出し、混乱させて討ち取り、敵が充実している
    ときは備えを固くし、敵が強ければこれを避け、
    敵が怒るように挑発して心をかき乱し、こちらから
    へりくだって驕りたかぶらせ、安んじて疲れて
    いなければ疲労させ、親しみあっていれば分裂
    させる。敵が備えていないところを攻め、敵の不意を突く。

     (以上、孫子第一篇「始計」より)

     今回は、楠木がなぜこのような詭道を完璧な
    までに実践できたのか、という疑問にお答え
    いたしましょう。

     それでは、本題に入りましょう。


    【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』

    ▽ 奇策「藁(わら)人形作戦」

     これまでの常識では考えられないような楠木の
    戦い方に寄せ手(幕府軍)はすっかり慎重になり、
    当初のように勇敢に攻めようとはしなくなった。

     千早城を力攻めで落とそうとすれば、兵士の
    損害ばかり多くなるので、寄せ手は城を包囲だけ
    して兵糧攻めすることに決め、戦闘を中断した。
    そこで暇をもてあました寄せ手の将兵らは、
    碁や双六をして日を過ごし、また茶会や歌会
    を楽しんで夜を明かした。

     今度は千早城内の兵士らも、することが
    無くなって退屈してきたところ、数日して楠木正成
    が言った。

     「そろそろこの辺で、やつらの眠りを覚ましてやろうか・・・。」

     そして、藁くずやぼろ布などで等身大の人形を
    2〜30体作り、甲冑を着せ武器を持たせて、
    夜中に城の麓に立てた。人形の前には畳を楯の
    ように並べ、背後には選りすぐりの兵500人を
    配置した。夜がほのぼの明け初めると、この兵たち
    が朝霞の中から声を合わせて閧(とき)の声を上げた。

     千早城を取り囲んでいた寄せ手の兵たちは、

     「それっ、城から出てきたぞ。敵はいよいよ
    運が尽きて、やけくそになったのだな。」

     と云って、我先に攻めかかっていった。

     楠木軍の兵士らは、作戦どおりに形だけの
    矢いくさをしながら大勢の敵をおびき寄せると、
    人形だけをその場に残して城へと退いた。寄せ手は
    人形を本当の兵士と思い込み、討ち取ろうと
    集まってきた。近づいて見ると、一歩も退かずに
    戦った勇敢な兵士らは皆人間ではなくて、藁で
    作った人形だった。

     次の瞬間、楠木軍は城中から大石、4〜50個
    を一度に投げ落とし、激しく矢を射った。これにより、
    一箇所に集まっていた寄せ手の兵は、300余人
    があっという間に即死し、500余人が半死半生
    の重傷を負った。


    ▽ 軍法なきがゆえ「藁人形戦法」に引き込まれた幕府軍

     (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より

     楠木の奇策に又しても散々な目にあわされた
    東国の大将は、智謀が無いと云えよう。

     「なぜ、今ごろ楠木が軍勢を出して、閧の声を
    発しているのか。おそらく謀があってのことでは・・・」

     このように思わなかったからである。そうでなければ、
    なぜ早速に軍勢を出撃させたのか。これが一つである。

     もしも、寄手の軍勢が大将の下知を守らず、
    勝手に進んだというのであれば、なおもって
    将の恥であるとともに、兵の恥でもある。

     およそ、将が戦場に赴くならば、先ずは
    軍法(戦場で守るべきルール・行動規範)を堅く
    守らせるものである。自分の配下の者にすら、これは
    常識である。ましてや、諸国から寄せ集めの兵
    であれば、まずは軍法を発出し、これを強制しな
    ければならない。にもかかわらず、あらかじめ
    軍法を出さなかった。

     また、兵はいかに些細なことであろうとも、
    将の下知を守ってこそ進むものであるのに、
    そのような手立てが一つも無い。これが
    二つ目の不可である。


    ▽ 正成の『軍法六箇条』

     それでは、楠木軍にはどのような軍法があった
    のだろうか。これを以下に紹介しよう。

    一 この度の軍陣において、夜討ち並びに
    いかなる些細な事があったとしても、将の下知が
    無いのに懸け出でる(注:交戦する)ことが
    あってはならない。ただし、敵がすぐ手前に
    寄せ来るような場合には、その一陣の将の
    下知によること。

    一 もしも、陣中に火災が有ったならば、
    そこの一陣が対処して、これによる亡失を
    防がねばならない。それ以外の陣は、
    急いでその陣の前に兵を備えて、下知を
    守るべきこと。

    一 陣中において女を求めてはならない。
    付け加えて、諸軍勢は酒宴などの遊びに
    専念することがあってはならない。

    一 甲乙誰であろうと諸人に勝れて忠が
    あれば、それに相応しいだけの賞を行うべきこと。

    一 老若にかかわらず陣中だからと云って、
    無礼な振る舞いをしてはならない。
    喧嘩・口論は、はしたないことである。

    一 その組の陣の外、所用も無いのに
    表敬訪問だと云い、または親交を結ぶと
    云って、他の陣へ歩き行くことは、忠を心に
    懸けず、武の嗜(たしな)みが無い兵である。
    道を踏み行おうとする人であれば、速やか
    にこれを禁じるべきこと。

     このような法には、いろいろな種類がある。
    正成は、一陣一陣にこの法を手始めとして、
    良いものを加え、また不相応なものを削除した。
    それに対して、東国の将にこのような軍法が
    無かったのは不覚である。そのため、城から
    出撃してきた楠木軍が発する閧の声を聞くと、
    同じように出向いてしまい、見事に相手の
    術中に陥ったのである。


    ▽ 敵の手立てに落ちる、とは

     その上、敵軍が突然に兵を進めるのであれば、
    先ずは深い謀があるものだと知らねばならない。
    敵の手立て(作戦)を十分に察知していなければ、
    動いてはならないと云われる。もしも、その
    意識が無ければ、勝ったといえども、実の
    勝利ではない。ただ偶然にそのような結果に
    なったのである。

     東国の将が、これらの事を知らないのは恥であるぞ。
    これらこそ、敵の手立てに落ちるということである。


    ▽ 敵の智の程度を十分に知り、戦に勝つ

     また、鎌倉幕府が亡んだ後、赤松則祐が正成に
    向かって尋ねた。

     「楠木殿の藁人形の謀には、腑に落ちないことが
    ございます。なぜかと申せば、味方は500余騎、
    敵は数万騎でありますれば、人形をも人をも
    物の数になりませぬ。敵が本気になり、数万騎で
    一度にどっと攻め懸かっていたら、城までも危うく
    なっていたことでしょう」。

     これに対して、正成が答えた。

     「則祐の考えは、恐れながら思慮が浅いものである。
    突発的で小規模な戦いであれば、敵も数万騎の兵
    をそろえる必要はないだろう。こちらの陣からバラバラ
    に5〜6人、あちらの陣から7〜8人程度が、後に先に
    と攻めかかって来ることになるだろうから、足軽が
    そこそこに交戦してこれらを石弓の下までおびき寄せ、
    一挙に討とうとしたのである。

     もしもそうではなく、寄手が陣々に太鼓を打ち、
    軍勢をそろえて攻め来るようであれば、その間に
    正成の500余騎は、軽々と城中に引き取るように
    計画していた。そうであるから、正成も自ら城下の
    斜面半ばに居て、太鼓による約束事を堅く守らせて、
    下知したのである。

     こうして私が考えていたところと少しも違わずに、
    数多くの敵を討つことができたのだ。」

     これを聞いた則祐は、「実に敵の智がどの程度
    かを十分に知っていなければ、戦に勝つことは
    難しいものでありますな・・・」と云ったのであった。


    (「楠木正成の『軍法六箇条』」終り)



    (以下次号)


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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
    ⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
    ⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

    『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
    ⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html

    がある。


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    ●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
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    【第18回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】

     演題 『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その7:湊川の戦・前段)

     日時 平成26年10月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 田安の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


     お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
         FAX 03-3389-6278
         件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。





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    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
    20140927

    2014年9月25日木曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 16 回】敵の「返り忠」工作を逆手に取る         

    【楠木正成の統率力第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る
             

    家村 和幸


    ▽ ごあいさつ

     こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

    前回に引き続き、敵の返り忠(裏切りを
    促す謀略)への対応策についての楠木正成と
    足利高氏・赤松円心との問答をご紹介いたします。

     今回は、楠木正成が千早城外の
    賀名生(あなう=現在の奈良県五條市にある
    丹生川下流沿いの谷)の奥にある観心寺に
    極秘のうちに隠し置いた別働隊(注)が活躍します。

     それでは、本題に入りましょう。

     (注)詳しくは、第13回掲載文「千早における
    楠木の諜報活動」をご参照下さい。
    http://okigunnji.com/nankoleader/category2/entry16.html


    【第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


    ▽ 敵将・金沢右馬助の謀を封じる

     楠木正成の郎従である早瀬吉太に対する
    足利高氏の「返り忠」工作が失敗した話の
    ついでに足利尊氏が言った。

     「さて、その後の夜討ちこそ、見事に謀られてしまいましたな。」

     それを聞いた赤松円心も、「ほう、是非とも
    お聞かせ願いたいものです」と言ったので、
    正成は語り始めた。

     「長くなりますが、お話いたしましょう。

     正成の知る限りでは、千早城を攻めていた
    敵将の金沢右馬助殿は、謀を廻らして、ややも
    すれば城に様々の困難なことをもたらしてこられました。
    そこで、こうした謀の手立て(作戦)を止めさせよう
    として、観心寺の別働隊長・和田七郎正氏のもとに
    軍使を遣わして、このことを相談しました。

     その結果、弟の七郎は別働隊の木沢平次・
    日井(ひのい)小藤太という二人の兵に、『吉野(大塔宮方)
    の落人であるが、今は商売をする者』との触れ込み
    で商人になりすまし、敵陣のあちらこちらに往行させ、
    さらには金沢殿の陣の近くに住むように、と命じました。

     数日後に金沢殿の家の子、岩城右近助という者
    に味方になるように誘われた木沢と日井は、金沢殿
    に面談して申しました。

     『城の有力な将の一人である恩地左近太郎の
    下へ、密かに参じて寝返りの勧めを告げましょう。』

     これに対して、金沢殿が『いかにして城へ入る
    ことができるか』と問うたので、両人は答えました。

     『必ず入れる方法がございます。大塔宮の
    令旨(命令書)を一通作って賜るようにしましょう。
    これを持って参るのです。そうして、正成に参会して、
    楠木には宮の仰せを談じ、恩地殿にこの寝返りの
    勧めを申しましょう』

     こうして金沢に信頼された両人は、城に来ることになりました。


    ▽ 恩地、「返り忠」を演じる

     千早城内に入った両人は恩地の役所には
    行かず、直ぐに正成のもとに来て、先ずは懐かしさ
    に涙を流して睦まじげでありました。

     そして、この謀について語っていると、正成は
    恩地を呼んでこのことを密談してから、木沢・日井
    の両人を帰しました。その際、両人が恩地の言葉
    として、金沢殿に対し次のように伝えることにいたしました。

     『仰せのごとく千早城は、日本国中に味方の
    無い城であるからには、やがては落城すること
    疑いなしと思いながらも、ただ今まで主と頼みに
    してきた正成を捨てることができなかっただけ
    でございます。それ故、この度の仰せは誠に
    ありがたいものでございます。

     これで楠木の跡継ぎが絶えるようなことに
    なれば、恩地家の数代にわたる義理であれば
    こそ、先祖代々に対する義理も果たせぬこと。
    なんとしても金沢殿の仰せに随わねばなりません。

     もしも、国中の武家を敵に回した無謀な正成と
    いう男一人が不義の者だといたしますれば、彼が
    亡びて後も、その子孫が楠木の家を御立てて
    いこうというのであれば、家の為は末代、正成に
    対しては一代の恩義にございますれば、家の
    存続を重んじて、何としても御心遣いに従うこと
    と致しましょう。』

     そして、この旨を恩地に自筆で書かせました。
    これを受け取った木沢・日井の両人は、正成の
    令旨に対する受取状も身に帯びて城を出たのです。


    ▽ 敵の要求に応じて長谷平九郎を人質に差し出す

     恩地からの書状を受けた幕府方の諸大将は、
    密かに会議をして決定しました。

     『正成一人さえ討ち取ることができれば、御家の
    事は恩地が要求するとおりにしてやろう。』

     これに対して(木沢・日井)両人が、

     『神や仏に御誓いの文言が無いのであれば、
    恩地殿は、決して誠意があるとは思われません。
    約束を取りに参りましょう』

     と言ったので、諸大将は再び密談して、誓いの詞
    について書き加えました。この恩地への誓文を身に
    帯び、また宮の令旨を作って城中に入ってきました。

     恩地は届けられた書状を開かずに、両人を連れて
    正成とともにこれを見ると、

     『六箇条の希望条件の内、人質の事(恩地側
    から人質を出さないという条件)は、いかにも
    受け容れがたいことである』

     とありました。敵も以前の早瀬に対する「返り忠」
    工作の失敗に懲りて、

     『人質が無いならば、恩地殿を城内に入れることはできない』

     と書いてある。そこで正成は、力量が人に勝れて
    早業にも賢い長谷平九郎という者を恩地の弟と
    称して差し出すことにいたしました。この男の力量は、
    普通の五人十人とは比較にもならないほど勝れて
    おりましたが、これで敵陣に入るのは木沢・日井の
    両人に城兵である長谷を併せて3人となりました。

     長谷は何の異義も唱えないで、『しかと承りました。
    御意のままに随いましょう』と云うので、合図など
    その後の様々なことを打ち合わせて、長谷を遣わしました。


    ▽ 恩地との約束により金沢は少数精鋭で襲撃

     長谷を人質として手に入れた金沢は、宗徒の一族
    8人、屈強の侍32人を忍ばせて、恩地の役所に
    遣わせました。このような小勢であったのは、

     『大勢ではかえって見破られる。衆を当てにせず、
    少数精鋭であたれば、恩地が正成に腹を切らせましょう』

     との金沢と恩地との約束があったからです。

     それのみならず、『当座の引出物である』として、
    金剣三振り、黄金三百両、白銀千両が恩地に
    届けられました。しかし、恩地は

     『これらは、この間の苦労をなされた郎従の方々にお与えください』

     と云って受け取りませんでした。そして、城のきり岸
    に石弓を多数張り、大木を崩し懸けようとして
    待ち構えていたのです。


    ▽ 金沢の襲撃隊と幕府軍をだまし討ち

     そうして、金沢の襲撃勢40人に『恩地勢が楠木の
    役所を襲撃するので、すぐ後ろの櫓を占領していただきたい』
    と告げ、案内者二人を添え、合言葉を定めて連れて行きました。

     定めていた時刻になると、表からは恩地の兵が
    切り入るまねをし始めました。そこで、40人の兵が
    恩地の兵に劣るなとばかりに櫓に上ろうとする所を、
    楠木勢が上から散々に射伏せ、切り伏せました。
    そこへ『恩地の勢が通るぞ』と(楠木軍との同士討ち
    をさけるために)叫びながら駆けつけ、金沢の襲撃隊
    を前後から討ち取ったので、40人の兵は一人残らず、
    一箇所で戦死しました。

     その後、城内に合図の鐘を鳴らし、鬨(とき)の声を発しました。

     この鐘は、幕府側には「楠木を討ち取った(襲撃成功)」
    という偽りの合図であると同時に、長谷には「脱出せよ」
    という合図でした。そうとは知らない幕府軍の寄手は、
    これを聞いて数万が雲霞の如く城へ攻め上って来ました。
    これに紛れて、人質である長谷の警護に付き添っていた
    12人の侍が、城へ攻め寄せる軍勢に気を取られている
    間に、かねて用意していた楠木の兵8人が労せずに
    入り込み、12人の侍をひたひたと切り回ったのです。

     『何事だ』という間もなく、長谷もその場で立ち上がり、
    太刀を手に取って切り回ると、6人を切り伏せ、その他
    の多くを負傷させて、木沢・日井の両人・楠木の兵8人・
    長谷、合わせて11人がうち連れて姿をくらましたのです。

     このことも知らず、寄手が我先にと攻め上りながら、
    切り岸の下まで到着したところを、大木・大石を次々に
    投げかけ、散々に射ったので、将棋倒しのように崩れて、
    四方の谷は死人で埋もれました。これより後、敵は
    千早城への返り忠の謀略を一切止めてしまったのです。」

     正成がこのように語ったのを聞いた円心は、「実に
    あっぱれな謀でありますな・・・」と深く感心したのであった。


    (「敵の「返り忠」工作を逆手に取る」終り)



    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
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    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
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    《日本兵法研究会主催イベントのご案内》

    【第20回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】

     演題 東アジア情勢と北朝鮮の動き 〜金王朝の隠された真実から〜

     日時 平成26年9月21日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 偕行の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


    【第18回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】

     演題 『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その7:湊川の戦・前段)

     日時 平成26年10月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 田安の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


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    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html

    2014年9月19日金曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 15 回】敵の夜討ちと返り忠を防ぐ 

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    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 14 回】物と人を備えるということ

    【楠木正成の統率力第14回】 物と人を備えるということ
             

                          家村 和幸

     こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

      『太平記秘伝理尽鈔』には、楠木正成が新田義貞や
    赤松円心、足利高氏らと対談する場面がひんぱんに
    あります。そのほとんどは、元弘の役で鎌倉幕府が
    滅亡して建武の親政となり、官軍側の武将たちが
    京都に詰めていたころに行われたものです。

     そこでは、当時の名将とされる人々との問答を
    通じて、戦術・戦法や指揮・統率などに関する
    楠木正成の考えや思いが遺憾なく述べられており、
    たいへん面白く、かつ学ぶべきことが多々あります。

     そこで、今回から数回にわたり、こうした談議
    のいくつかを紹介してまいります。今回は、
    新田義貞との問答です。

     それでは、本題に入りましょう。


    【第14回】 物と人を備えるということ

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


    ▽ 正成、義貞に籠城の資材準備を説く

     世の中が鎮まって後、新田義貞が楠木正成に問うた。

     「千早に籠城された時、楠木殿はどのようにして、
    諸事について不足なく、郎従を扶助し、金銀・米銭
    などを貯えられたのか。」

     これに対し、正成は次のように答えた。

     「私には、生まれつき親が貯えておいた宝物が
    多くありました。また、湯浅の城を攻め落として
    (注:赤坂城を奪還して)からは、和泉・河内にある
    敵の所領を皆、取り集めて郎従たちに与えております。
    その残るところを、多くはありませんが、全て千早
    に備蓄させたのです。

     その時、胡麻・榧(かや=実から上等の植物油が
    取れる)は云うまでもなく、一切の木の実を取らせて
    油とし、よろずの草の若葉を取らせて乾して城に
    貯えました。また、和泉・河内の両国に出向いて
    民屋を収奪した折、食物の類は云うに及ばず、諸事
    籠城の役に立つであろう物は全て取り立てて城に
    籠めました。

     例えば、摂津国中島へ出向いたことがありましたが、
    時は9月17日であったので、あらゆる所の稲を刈り
    取らせて、藁(わら)を捨て置き、馬に負わせ、人夫に
    持たせて、千早に運ばせ、厚さ六寸(約18センチ)の
    槙の板で、長さ二丈八尺(約8.46メートル)、
    横一丈二尺(約3.63メートル)、深さ二間(約3.63メートル)
    に箱を作って、この中に稲を満たしました。また、正成
    が居た家屋の下には、二間の深さに土を掘り、ここに
    およそ駄馬3千余分の炭を埋めましたが、その大方
    は和泉・河内の一年分の取り立て物でございます。

     そうは云えども、正成にはただ今も、我が手下の
    郎従3千8百人、所従(しょじゅう=家来・従者)や
    眷属(けんぞく=一族・親族)およそ2万人おりますが、
    私の備蓄をもって二年は養うことができます。
    そうだからと云って、郎従が自らの蓄えを持たない
    ということはございません。また、郎従につらい
    思いをさせて、私一人が欲深いこともござりませぬ。


    ▽ 十分な蓄えと質素な生活

     また、私の家の子・郎従で、軍(いくさ)に従事
    する者であれば、自分の郎従、所従を一年や
    二年養うだけの蓄えをしていない者はございません。
    それというのも、普段千早に居住する侍は、
    一百人にも過ぎません。それ以外は全て、それぞれ
    自分の領所に居住しております。そうでありますから、
    我が領内に荒れた地があれば、これを開墾し、
    山に樹を植え、村には竹を立たせ、身には麻布の
    粗末な着物を着せ、会合での食事は、二汁三菜
    (ぜいたくでも粗末でもない程度)の外は用いません。
    毎日の食事は一汁二菜、これが正成の通常の食事です。

     家のつくりは、芦ぶきです。それから、馬・物具・在京
    の小袖(注:京都滞在中の武士の衣装。鎌倉時代
    以降、多く表着されるようになる)などは嗜(たしな)み
    として二通り、三通り持たないものはおりません。
    正成は、国において華奢(かしゃ=はで・ぜいたく)な
    ことをしないので、郎従も皆、そうなのです。

     今、在京の武士は幾万騎かおりますが、正成の
    郎従ほどに実に身ぎれいにしているのはおりません。
    この夏も、5百人を召し上らせて京都警護の番を
    務めております。この5百人を残る3千3百人により
    世話をして上京させております。領四十分につき、
    その一つ(=自分の所領から得る収穫の四十分の一)
    を集めて彼らの賄賂(まいない=在京のための費用)
    とします。私も領四十分につき、その一つを出すこと
    は郎従に同じです。」


    ▽ 部下の身分を向上させる

     また、義貞が述べた。

     「その当時、楠木殿は昔から代々にわたり奉公してきた
    中間(ちゅうげん=侍と小者の間の身分)、下部(下男)や
    そのほかに侍(上級武士)たちにも賞禄を与えられる
    ことがなく、しかも新たに無能・無芸の侍たちを召し
    置かれたとうかがっておりますが・・・。」

     それについて、正成が語ったことには、

     「いや、そうではなくて・・・、私はその昔には中間
    や下部まで(身分の低い者たち)5百余人を持って
    おりましたが、その下部を中間にさせ、その中間を
    侍にさせ、所領を持たない侍であれば、夫々に
    所領を与えて領主にさせました。人並みの者は
    このようにいたしました。そして、人より勝れた功績
    が有った者に限って、その功績に随って賞禄を与えたのです。

     こうしたことから、新たには中間か下部としてしか
    召し置かなかったのです。その外は、降参した人、
    縁があってやってきた侍だけでした。

     今また、河内・摂津の国を手に入れましたので、
    それなりに郎従たちにも所領を与えたのでございますぞ。
    (義貞が述べた)当時の下部とは、今の中間、中間は
    侍になっております。そのようなことから、私が
    召し使う侍は、いかにも無作法で、礼儀作法も見苦しく
    ございます。

     しかしながら、これは理にかなったことでしょう。
    主が「体」であれば、郎従は四つの「手足」であると
    さえ云われるものでございます。彼らは正成を頼り
    とし、正成は彼らを頼みとしてこそ、大君の御大事
    にも皆が一丸となって馳(は)せ参じることができたのです。

     ですから、正成が君恩を受けながら、何ゆえに
    郎従を昔の身分のままで置くことができましょうか。
    また、私が大事とするのであれば、彼らは何ゆえ
    それに背くことがありえましょうか。こうした思いから、
    このようにいたしたのでございます」

     とのことであった。

     これを聞いた義貞や(赤松)円心以下の人々は、
    それまでに無いほどの深い感銘を受けたのであった。


    (「物と人を備えるということ」終り)





    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
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    《日本兵法研究会主催イベントのご案内》

    【第20回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】

     演題 東アジア情勢と北朝鮮の動き 〜金王朝の隠された真実から〜

     日時 平成26年9月21日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 偕行の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


    【第18回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】

     演題 『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その7:湊川の戦・前段)

     日時 平成26年10月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 田安の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


     お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
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    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 13 回】千早における楠木の諜報活動

    【楠木正成の統率力第13回】 千早における楠木の諜報活動
             

               家村 和幸


     こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
     今回は、千早城の戦いで行った諜報活動についてです。

     孫子兵法では、諜報活動により、敵の実情を事前に
    察知することが「戦争の要」であると強調し、
    次のように説いています。

     戦争には莫大な出費がかさみ、敗ければ全てが
    無駄になる。それにもかかわらず、間諜(スパイ)に
    爵位、俸禄や百金を与えるのを惜しんで敵情を
    知ろうとしないのは、民衆の永い苦労を無に
    するものであり、将軍としての資格がない。

     聡明な君主や賢明な将軍が行動を起こして
    相手に勝ち、多大な成功を収めることができる
    のは、あらかじめ敵情を察知しているからである。
    その敵情は、必ず人である間諜を通じて収集
    できるのである。

     物事の本質をすぐに理解できる俊敏な
    思考力がなければ間諜を用いることができず、
    部下への深い思いやりがなければ(危険な任務
    である)間諜を使うことができず、人心の機微
    まで察知する深い洞察力と幅広い教養がなければ
    間諜が収集する複雑に錯綜した情報の中から、
    その真偽を判別し、価値ある情報を嗅ぎ分け、
    真実を把握することができない。

     (以上、孫子第十三篇「用間」より)

     楠木正成とは、こうした孫子の教えを
    骨と化すまで学び、それを完璧に実践できた武将です。

     それでは、本題に入りましょう。


    【第13回】 千早における楠木の諜報活動

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


    ▽ 楠木、大塔宮からの上洛要請に応じず

     楠木正成が和泉・河内の両国を随えて、千早城
    を構築していた頃、大塔宮からの仰せが伝えられた。

     「正成は京都に上って、先ず六波羅を攻め落とすべきではないか・・・」

     楠木は、大塔宮の御使いの者に次のように回答した。

     「仰せたれることは承知いたしました。しかしながら、
    只今関東から大勢の敵が上っているところであり、
    これらは本拠地を強化してから京都に攻め上るでしょう。
    その上、先ず和泉・河内の軍勢は1万騎に足りません。
    これにより京都の六波羅を亡ぼそうとするのは、
    至難の業です。また、西国の軍勢も摂津の地から上って
    味方を襲うかもしれません。そうであれば、今上洛しては、
    前後の敵に味方はなす術を失うことは疑いないもの
    と思われます。その上で、関東勢が上ってきたならば、
    河内へ引き返そうにも、河内に敵を防ぐだけの城が
    一つもなければ、ゆゆしき事態となりましょう。

     そこで、正成の存念を残さず申させていただきます。
    先ず、宮は吉野の城にしばらく御座をすえられ、諸国
    へ令旨(命令)をなしていただきたい。正成も河内に
    一つの城をこしらえ、鎌倉の北条高時の動きも
    見据(す)えておきたく存じます。」


    ▽ 鎌倉へ潜入させた忍びからの報告

     そこへ、正成が鎌倉に忍ばせておいた兵士24人の内、
    2人が帰参して、正成に報告した。

     「近日中に東国の軍勢は、60歳の老齢者から17歳
    の若者までを引き連れて上ってくるものと申しております。
    また、山陰・山陽・南海・西海へも皆、このように下知を
    下しているものと伺っております。東国勢は皆、
    年内に国々を出発して、道中で越年し、また『年の内
    に京都に到着しようとするのは大いに忠誠心がある
    ものである。また、国を出発するのが春になってから
    というのは忠誠心が無いものとする』と下知して
    ふれまわるので、12月初旬には、皆国々を出発
    することになったのであります。」

     そして、鎌倉にいる忍びの兵士らの指揮官である
    林藤内左衛門光勝、野崎七郎常宗、原兵衛吉覚(よしあきら)の
    3人による書状を取り出して正成に与えた。正成が開いて
    見ると、鎌倉から帰った2人の忍びが申したのと同じ内容であった。


    ▽ あくまで情報網の存在を隠した正成

     正成はこの時、仰せを伝えに来ていた大塔宮の
    御使いに、鎌倉からの情報について一切話さなかった。
    また、正成が大塔宮に直接会って、このことを話す
    こともなかった。

     鎌倉幕府側の最新の動きを大塔宮に伝えてこそ、
    吉野の城も防ぐ手だてを一層確かなものにしたであろう。
    しかし、正成が御使いにこの東国勢の上洛という
    重大事を隠したのは、この事を秘密にすべきだった
    からではない。正成が関東に兵士を潜入させている
    という事を知らせないためであった。実は、楠木の
    兵士は皆、商売人となって鎌倉に居たのであった。

     それ以降、千早では、いよいよ敵が攻め寄せること
    への用意を進めることになる。


    ▽ 山寺に妻子と別働隊を隠し置く

     正成らが千早城に籠っている間、軍勢の妻や子らは、
    賀名生(あなう=現在の奈良県五條市にある丹生川
    下流沿いの谷)の奥にある観心寺という、嶺を通る
    山伏でなければ訪れる人もいない場所に、
    軍勢1千余騎を相添えて、極秘のうちに隠し置いた。
    舎弟の和田七郎正氏、和田孫三郎、恩地左衛門、
    真貴(しぎ)、渡辺五郎らもこの地に在った。

     この軍勢の任務は、「敵の通路を遮断し、弱い陣が
    あれば後ろから攻め、夜討ちにもする。また、寄手の
    謀や作戦を聞き付けて、城の内にこれを知らせ、
    人々の妻子を十分に警護する」というものであった。
    そうであればこそ、吉野の城が落ちてから後は、
    大塔宮もこの場所を御座としたのである。


    ▽ 別働隊による情報収集

     幕府軍が千早城を囲んでいる時、観心寺に
    所在するこの軍勢から、毎日10人から20人が、
    ある時は濁酒など下部の食物を売り、あるいは陰陽師
    にまぎれ、また猿回しなどの遊び者にまぎれて敵陣
    に潜り込み、陣中の取り沙汰を一つひとつ聞きながら、
    壁に耳を付けてまで、他人が何を考えているか
    探り出そうとした。このようにして観心寺へもこれら
    を知らせ、千早城中へもこれらを報告した。

     敵は千早城を百重千重(ももえちえ)に取り囲み、
    役所(戦陣での将士の詰所)をいくつも構えていた
    にもかかわらず、正成は毎夜、この別働隊と書状で
    通じていた。敵は、自分たちの陣内で楠木勢が
    こうした情報活動を行っていることを全く知らなかった。


    ▽ 囚われた城兵と偽の商人

     ある時、夜明けの頃、城から一人の忍びが正成の
    書状を帯して出た。大仏(おさらぎ)奥州という者が、
    役所の前でこれをとがめた。とやかく弁明することを
    許さず、回状があるにちがいないぞ、と持物をつぶさに
    探して見ると、白紙が二、三十枚折られているものの
    外に墨書きされたものはなかった。

     敵の大将が、「それでは、お主が言うように、
    吉野の方の商人が道を歩き間違えたのに違い
    あるまい。誰かこの者を知っている人はおるか」と
    尋ねたところ、観心寺から偽の商人になって来て
    いた正成の忍びの兵が、この事を聞き付けて、
    心元無い様子でやって来た。そして、囚われた
    城兵に向かい、手をはたと拍(う)って、

     「いかにも、お前さんはどうしてこのようになったのだ?」

     と問うた。そこで、囚われた城兵は云った。

     「道を歩いて迷ってしまい、城の方向へとやって
    来るうちに、ここは敵の方であると思って、急いで
    引き返したところを、番兵たちに見付かってしまい、
    『怪しいやつだ』と云われて、このように取り押さえられたのです。」

     そこで、商人が敵の大将に申すには、

     「これは私の友人です。吉野の方から参った者でして、
    不審な者ではありません。二、三日ほど前に商売の
    ために参ったのですが、売ろうとして用意していた物を
    盗人に取られてしまいました。売り物は品々あったの
    ですが、もしやこの盗品を売っている者に出くわさないか
    と、我々二、三人であちらこちらを見回しながら遊行して
    おりましたが、このような盗人も売物も、未だに見つけ
    られませんでした。朝からこの男が見えないので、
    我々もまた尋ね参って見ておりました。この者は私に
    お任せください。なんら不審な者ではございません。」

     そして、囚われた城兵に向かって云った。

     「おいお前、何でそんな姿でおるのか。生まれつき
    臆病者なのだな。この辺りは不案内な場所だから、
    何事かあったのではないかと思っていたが、
    そうだったか。やはり、こうなったか。」

     そこで、囚われた城兵が、おどおどしながら、
    「恐ろしさで、わけがわからなくなったのです・・・」と云う。
    これらのやり取りを聞いていた敵の大将は、

     「実に、諸軍勢の中であれば、そうであっただろう。
    不憫(ふびん)なやつだ。その上、書状もないのだから、
    本当に商人なのであろう。このように、諸国から来る
    商人を煩わせたことは、軍勢が困窮することにもなろう」
    と云って、この囚われた者を帰したのであった。


    ▽ 秘策「白紙の書状」と忍びへの褒章

     この囚われた城兵が折って持っていた二、三十枚
    の白紙は、観心寺への文だったのである。

     その白紙を水に漬けて見れば、水の中で文字が
    浮かぶのであり、また、鍋の墨を付けて見ても
    文字が出るのであった。その一枚目には、

     「当能悟魔脳。安普羅遠土理帝覚近之(当に能く
    魔脳を悟る。安んぞ普く遠土に羅らん帝を理して覚之を近くす)」

     との難しい文が書いてあった。しかし、その本当の
    意味は、そのまま

     「とうのごまのあぶらをとりてかく(=この書状は、唐
    の胡麻の油を使って書いてある)」

     と読めばよいのであった。このような巧妙な手段を
    用いていたので、敵は一度も忍びの使いを見つけら
    れなかったのである。

     正成は、このように命懸けで活動する忍びの兵たち
    について、少しでも良い事を聞き出したならば、
    白銀・銭貨をそれぞれに与えており、観心寺に
    置いていた妻子もこれを楽しみにしていたことで、
    諸事について恨みを抱くものもなかったという。


    (「千早における楠木の諜報活動」終り)





    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
    ⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
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    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 12 回】敵将の短慮につけいる

    【楠木正成の統率力第12回】 敵将の短慮につけいる
             


               家村 和幸

    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     以前の記事(第5回掲載文)で、『太平記』に
    出てくる「数十万」や「百万」余騎といった現実
    にはありえないような軍勢の兵数について、
    その目的が「異国に誇張した兵数の情報を流す」
    ことにあったと述べました。

     千早城を包囲した鎌倉幕府の軍勢に
    つきましても、『太平記』では、「当初の軍勢が
    八十万騎であったところに、赤坂を攻めていた
    軍勢や吉野を攻めていた軍勢が駆けつけて
    加わり、百万騎を超えた」と記してあります。
    このことについて、『太平記秘伝理尽鈔』では
    以下のように解説しています。


     東山・東海二十三箇国の兵八万余騎、
    北国・山陰・山陽・西海・南海の軍勢十万三千余騎
    (合計すれば、十八万三千余騎)というのが、
    六波羅に到着する前の兵数である。それを
    八十万騎などと恐ろしく『太平記』に書いたのであった。
     (巻第六 関東の大勢上洛の事)

     諸国の軍勢は二十四万六千余騎であったと
    古い書物に記されている。それに対して昨今では
    百万と云われているのは、東国の軍勢一を以て
    七(七倍)とし、西国の軍勢一を以て三(三倍)と
    して記述していることになる。これらは以前に
    論評したとおりである。 (巻第七 千剣破城軍の事)


     つまり、『理尽鈔』によれば、千早城を囲んだ
    幕府軍は「当初の軍勢が18万3千余騎であった
    ところに、赤坂を攻めていた軍勢や吉野を攻めて
    いた軍勢が駆けつけて加わり、24万6千を超えた」
    ということになります。

     それでは、本題に入りましょう。今回は、前回の
    「千早城外での夜討ち」の続編です。


    【第12回】 敵将の短慮につけいる

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


    ▽ 夜討ちで敵の軍旗を奪い取る

     千早城を水攻めにしようとした名越の軍勢を
    夜討ちにより撃退した楠木軍は、混乱に紛れて
    名越の旗や大幕などを奪って、整然と城内に
    引き上げた。そして翌日、城壁に三本唐笠の紋
    (名越氏の家紋)が描かれた旗と大幕を広げて
    見せつけながら、叫んだ。

     「これらの物は皆、名越殿から頂いた御旗
    ですぞ。ところが、御紋が入っているので
    他の者には役に立ちませぬ。そちらの陣の
    方々、こちらに来られて、お持ち帰りくだされぬか」

     そして、声をそろえてドッと笑った。これを
    見た幕府軍の武士たちは、「ああ、これは
    名越殿の大失態であるな」と口々にせぬ者は
    無かった。名越家の人々は、この事を聞いて憤慨し、

     「我等が軍勢どもは一人残さず、城の木戸を
    枕に討ち死にせよ」

     と命じた。これにより、名越の軍勢5千余人は、
    決死の覚悟で討たれても、射られてもひるまずに、
    屍(かばね)を乗り越え乗り越え、城の逆茂木の
    一段目を破壊して、城の崖下まで攻め込んだ。
    しかし、そこには崖が高く切り立っていたので、
    くやしいが登ることもできず、なすすべもなく、
    ただ城を睨(にら)みつけるばかりで、怒りを
    抑えて荒れた息を静めていた。

     その時、楠木の城兵が、崖の上に横にして
    積み置いた大木十本ほどを繋いだ綱を切った。
    大木は急激に転がり落ちて、寄手の兵士ら4、5百人
    ほどが将棋倒しになり、圧死した。これを避けよう
    として慌てふためき、騒いでいるところに、
    四方八方の櫓から狙い定めて、ここぞとばかりに
    矢を射かけてきた。5千余人の兵士らは残り
    少なくなるまで討たれ、戦いは終わった。


    ▽ 夜討ちの日、正成は論功行賞

     夜討ちから帰ったその日、千早城では音もせず、
    城内が静まりかえっていた。それは、楠木が
    城に帰ってから時を移さずに、各人の高名
    (=活躍ぶり)などをその将に述べさせて、
    少しでも人より勝れた功績があった者は、これに
    賞し、相応の引き出物などを与えていたのであった。

     夜討ちに参加した城兵たちを前に、楠木は
    次のように語った。

     「いつも申しておるように、各々の人に勝れる
    高名は、実にあっぱれであった。そうでありながらも、
    このことは各々の高名だけではない。諸卒の誰も
    が命を惜しまず、敵陣に攻め込んで行ったこと
    によるのである。そうであれば、手柄をあげた
    六十九人の高名は、総じては三百人の高名、
    別しては六十九人の高名である。三百人の高名は、
    三人の将(湯浅六郎、北辻玄蕃、楠木三郎)の
    心構えがしっかりしていたからだ。」

     こう云って、一番に大将を呼び出して、白銀
    三十両を各々に与えた。次に六十九人を呼び
    出して、諸人から高名の次第を問い、本人にも
    語らせて、これを賞賛して、身分に随って白銀
    並びに銭貨を与えた。また、蔵の中から木綿布・綿
    などを取り出して、裏表に綿を添えて与えたのであった。

     こうして日も漸(ようや)く傾いてきた。


    ▽ すぐには名越の旗・幕を掲げなかった楠木

     このように表彰していると、北辻玄蕃が正成に
    申した。

     「なにゆえ、今朝取ってきた名越の旗・幕を敵に
    見せて、笑いものにしないのでしょうか。」

     北辻がこのように問うと、正成は次のように
    答えたのであった。

     「よくぞ言ってくれた。私も忘れていたのではない。
    今朝の寄手の騒ぎは、上を下にと大混乱に陥って
    いる。この時に名越の旗を城中に掲げて笑った
    としても、敵は動転している最中であれば、
    見つける人も在りはしなかっただろう。

     また、万が一にも寄手が誤って、『名越殿の
    軍勢だけが城中へ入って、楠木と戦っている』、
    などと一人が言い出したならば、事の由を知らない
    人は、そうかと思うであろう。そして、数万の敵軍
    が競いながら、城へ雲霞のごとく攻め上ることに
    なり、この軍勢は鬼神のごとく行動するだろう。
    そうなれば、城の守備も危うくなるものと予想
    されたので、これを思い留まっていたのである。

     明日になれば、寄手の諸卒も事情をよくよく
    聞き及んでいるだろうから、早々にあの旗を出して
    笑おうではないか。その時、敵が攻め寄せて
    来るならば、また敵を打ち倒す作戦が必要になる
    だろう。」

     こう云って、終夜(よもすがら)崖の上に大木を
    横たえ、石弓をはり直させるなどして、敵人に
    大損害を与えたのである。実に優れた謀であるものだ。


    ▽ 楠木の挑発に乗った名越の短慮

     楠木勢が名越の旗・幕を城壁に立てて笑った
    のを聞いて、名越一家の大将らが大いに怒って、
    「我が軍勢は一人も残らず城を枕にして討死せよ」
    と下知したのは、短慮(=思慮が足りないこと)である。

     先立って諸国七道の軍勢どもが、数日間攻めて
    さえも落ちなかった城を、名越一家がこれに
    代わる手立て(=作戦)も無く攻めたところでどうして
    落ちることがあろうか。その上、「良将は落とすこと
    ができる手立てを見つけ出さなければ、城を攻める
    ことはない」とさえ云われる。たとい百万騎の勢で
    攻めたとしても、今のような状態で謀(はかりごと)も
    無く攻めるならば、この城が落ちることは絶対にないのだ。

     それにもかかわらず、楠木には、寄手に腹を
    立てさせ、城を攻めさせたところを討とう、という
    企みがあったのを、笑われ、腹の立つままに攻めた
    のは、十分な配慮に欠けている将だということで
    ある。


    ▽ 腹を立てるのは愚人の為すところ

     どんな場合にも、賢い人は腹を立て、怒ることが
    ない。腹を立てるのは、愚人の為すところである。

     なぜかと云えば、人が無道をすれば、我はそれに
    与しないまでのことだからである。人が何らの過ち
    も無いのに過ちを犯したと云うのであれば、詳細
    にわたり弁明するまでのことだからである。忘れ
    難いほどに深い恨みがあれば、その人に参会しない
    までのことだからである。そして、人が危害を加えた
    なら、我も報復するまでのことだからである。
    ただ腹を立てたところで、何の効果があろうか。

     こうしたことから、道に適っている人は、怒らず
    にその事をなすのを以てよしとするのである。
    ただし、郎従・家の子などを諌(いさ)めるには、
    腹は立たなくても、怒っているふりをすることがある。

     内心から腹を立てるのは、全て物の意を弁えて
    いない人の為すことではないか。並外れて
    怒りっぽい人には、僻事(正常でない、まともで
    ない事)が多く出て来るものである。こうしたこと
    からも、仏は怒り怨むことを戒め、神は慮りが
    短いことを嫌うのである。

     特に人の上に立つべき人が腹黒ければ、
    非道に命を奪い、無意識のうちに罪を作り、
    物狂わしい事ばかりが多くなってしまう。その上、
    主将などが腹悪しければ、家臣は恐れて下々
    の訴えが上に通じない。訴えが通じなければ、
    国が乱れる。国が乱れたならば、亡ぶもので
    あるのだ。

     そうであるから、この度の名越もこうした道理を
    知っていたならば、その恥を悔いて、心を鎮めて
    謀をめぐらし、朝夕にこれを思うならば、
    日を経て、年月を経ても、どうしてこの恥を
    すすがないことがあっただろうか。

     名越は智が浅く、腹悪しき者であったがため、
    日を経ずして二度も楠木の謀に落ちたのであった。
    常に賢い者でさえ、腹悪しければ、智恵は失せる
    ものである。まして盲将で腹が悪しければ、
    どうしてよい事が起こりえようか。


    ▽ 短慮は失うものが多い

     思慮が足りなければ、過失が多くなる。

     一には、後悔が残る。
     二には、物狂おしい。
     三には、その愚が顕れる。
     四には、智ある人が親しまず。
     五には、他人に仇の思いをなす。
     六には、器量・才能をだめにしてしまう。
     七には、病が生じる。
     八には、争いが多い。
     九には、苦労が多い。
     十には、衆悪を発するということである。人たる者は十分承知しておくべきことである。

     今の名越の人々には、これらの損失が多々ある。
    人が多く死んだことへの後悔があるだろう。油断し、
    不覚にも夜討ちに遭ったことへの後悔もあるだろう。
    郎従たちに死せよと下知したのは物狂おしい。
    油断したのも、死せよと云ったのも、その愚かさ
    を露呈しているのである。定めし後悔があること
    だろう。また、死んだ郎従と親しい人々は、君主
    に従ったことで危険な目に合って死んだので
    あるから、智が有る人はこれを闇主であると
    思って親します、あるいは恨みの念をも抱くこと
    になるだろう。

     何とも浅ましいことである。


    (「敵将の短慮につけいる」終り)


    (以下次号)

    20140828

    2014年8月22日金曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第 11 回】千早城外での夜討ち

    【楠木正成の統率力第11回】千早城外での夜討ち
            


      家村 和幸


    ▽ ごあいさつ

    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

    読者の伊賀山猿さまから、メールで次のような
    ご指摘をいただきました。

    いつも楽しく拝読させていただいております。
    下記、「和泉国」は、「大和国」だと思います。

        伊賀山猿

     これは、前回の冒頭で『太平記秘伝理尽鈔』
    巻第一から『太平記』が全四十巻となった経緯
    を紹介いたしましたが、その文中で「和泉国の
    多武峰(たふのみね)」、「和泉国十市の人」と
    記したことについてのご指摘です。

     そのとおりで、私の誤りでした。正しくは、
    「大和国の多武峰(たふのみね)」、「大和国
    十市の人」でした。原文では「和州」とあった
    ので、すっかり「和泉国」と思い込んでしまった
    のです。楠木正成の所領が河内国・摂津国・
    和泉国であったことも、一つの先入観となっていました。

     以下、訂正した文面を再掲いたします。


    (引用開始)

     また、大和国の多武峰(たふのみね)において
    書かれたものが十二巻あった。その作者は
    六人である。

     教円上人、南都(奈良)の人である。

     義清法師、これは高徳入道のことである。

     寿栄法師、これは玄恵の弟子で、大和国十市の人である。

     北畠顕成、これは顕家の子で、二十六歳で
    出家して、法号を行意と号した。歌道の達者である。

     証意法眼、これは興福寺の住僧である。

     そして、日野入道蓮秀である。

     このようにして、十一の巻から以後の虚実を正し、
    次第を連ねて、虚を除き、実を加えたのであった。

     ・・・以下略

    (以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)


     それでは、本題に入りましょう。前回に引き続き、
    千早城の攻防戦からのエピソードです。

     なお、千早城の戦いにつきましては、拙著「名将
    に学ぶ世界の戦術」(ナツメ社)の178頁から185頁
    で詳しく図解しておりますので、ご興味のある方は
    こちらも是非ご一読ください。


    【第11回】千早城外での夜討ち

     (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)
    城軍の事」より)


    ▽ 十分な水を蓄えていた千早城

     1333(元弘3)年閏2月22日、千早城を
    包囲した鎌倉幕府の軍勢・百万騎(『太平記』
    による)は、わずか千人にも満たない楠木の
    軍勢を侮って千早城を攻めた。これに対して
    楠木軍は、千早の頂上から大石を落としかけ、
    矢で射たてることで、幕府軍に大打撃を与えた。

     最初の総攻撃に失敗した幕府軍は、楠木の
    城兵が渓流の水を汲んでいるものと考え、
    水攻めにしようと図った。そこで、名越越前守
    (なごええちぜんのかみ)の軍勢3千余騎に
    千早城北東の谷川の水源地を見張らせた。
    名越勢は水辺に陣を構え、城から人が下りて
    来ると思われる道々に逆茂木を設けて待ち構えた。

     しかし、楠木正成は城内に湧き水や雨水
    などで用水を確保していたので、この作戦は
    全く効果がなかった。千早城の中には、五所
    の秘水という、修行でこの山を行き来する山伏
    が密かに汲む水があった。この水は、どんなに
    日照りが続いても渇くことがなかったので、
    これを城兵たちの飲料水とした。

     消火や予備の飲料水などとしては、大きな
    木をくりぬいた舟を二、三百ほど作り、これに
    水を貯めた。また、城内の建物の軒には
    すべて雨どいを取り付けてそれをつなぎ、
    雨水を一滴たりとも残さず舟に受けた。
    それらの舟の底には赤土が沈めてあり、
    水の腐敗を防止していた。このように千早城
    は、たとえ五、六十日間雨が降らなくても、
    持ちこたえることができたのであった。


    ▽ 楠木、夜討ち(=夜間の襲撃)を決心

     そうとは知らない名越勢の兵士らは、
    城中から人が下りて来るのを今や遅しと
    待ち受けていた。最初の数日こそ気も張って
    いたが、四〜五日もするとだんだん気が緩み
    だし、敵はこの水を汲みに来ないのでは、
    とさえ思い始め、警戒心も緩んできた。

     この様子を一部始終知っていた楠木正成は、
    満を持して決心した。

     「敵も退屈しているころだ。今夜あたり、
    そろそろよかろう。・・・」


    ▽ 名越の陣に忍びを入れて情報収集

     名越勢を夜討ちするにあたり、楠木は先ず、
    七日間にわたり忍びの兵を名越の陣に遣わした
    という。それも、入れ替え入れ替え、毎日別の
    忍びの兵を遣わすことで、その口々に報告
    することの一致するものと相違するものとを
    分別し、あるいは正成の判断に合うものと
    合わないものとをよく比較して考察した。

     そして、これらの忍びの兵から勝れた者を
    選んで、相じるし(=味方を識別するもの)を
    付け、合図の言葉を定めたのであった。


    ▽ 楠木軍の陣立てと各隊の任務

     正成が、名越の敵陣を偵察すると、狭いもの
    で九町(約981m)、さらには十六町(約1744m)
    〜十七町もあった。城から名越の陣までは、
    およそ五町(約545m)と少しばかりであると
    見積もって、3百余騎を三つに分けた。

     先頭には湯浅六郎に、百余人を従えさせて、
    「水辺にて番する兵を討て」と命じた。

     二番は、北辻玄蕃宗持に、百余騎を従えさせて、
    「名越が陣を乱して騒いでいる所へ攻め込め」と
    命じるともに、宵から侍16人を敵陣内に潜入
    させておいて、「名越があわてて出て来れば、
    これと組め」と命じていた。

     三番は、楠木三郎正純(七郎の弟)に、百余騎
    を従えさせて、「城の山下の小塚に、軍の備えを
    堅くして、先頭と二番を進ませよ」と命じた。

     そして、(襲撃の)時刻を計画するのであるが、
    忍びが云うには、「名越は、夜毎に夜半過ぎまで
    は囲碁・双六・酒宴にて遊び呆けている」という
    ことなので、正成は「そうであれば」として、「卯の
    一天(午前5時〜5時半)」と定めたのである。

     また、城に残すところの兵、5百人にも物具
    (もののぐ=鎧兜)を着用させて、各人の持ち口
    と櫓に登り、もしも敵が寄せ来たならば防ぐよう
    に命じて、待機させた。


    ▽ 正成、三度の太鼓により指揮

     正成は30人ほどを連れて、城の坂半分の場所
    から敵陣を見ると、朝霧が深かった。そこで、
    正純の陣との間隔二町(約218m)ほど後ろに
    ひかえて、諸卒に向かって次のように命じた。

     (以下、千早城外における楠木正成の下知)

     この場所において私が三度の太鼓を打つ。

     一度目の引き太鼓にて、先の二百余人(注:先頭・
    湯浅と二番・北辻の軍勢)は引け。たとい大将
    名越と戦い、防ぎ止めていたとしても、太鼓を
    打ったならば、捨てて引くようにせよ。

     その理由は、大将名越を討ち取ろうなどとして
    まで、敵を痛めつける戦いではない。これまでの
    (築城や戦など)疲労の中で私に従ってくれた
    面々は、一人でも討たれることがあっては、
    私にとって大なる戦力低下であるぞ。その上、
    各々に一人でも錯誤があれば、正成は左右の
    手一つを討ち落とされてしまうようなものである。

     先の二百余人が、正成の居る場所を
    上り過ぎようとする頃に、二度目の太鼓を打つ。
    その時、正純が引け。たとい先の二百余人が
    一番目の太鼓で引かなかったとしても、
    二番目の太鼓を打ったならば、正純は引け。

     先の衆もあえて言うまでもないが、よくよく
    聞いておくこと。一番目の太鼓に遅れて引く
    ようであれば、先を捨てて正純を引かせるぞ。
    正成もこれと同時に引くようにする。のろのろと
    鈍い動きをして敵に追尾されたら、城の木戸を
    閉じて各々を捨ててしまうぞ。

     その理由は、先を捨てるのは、少ない損害
    で済む。各々を助けようとして木戸を開けば、
    敵に城を落とされることになる。そうなれば、
    君の御為・家の為に大きな損害を与えること
    になる。断じて、正成一人の命を惜しんで各々
    を捨てるのではない。

     また、正成が太鼓を打たない間は、鬼神が
    天から降ってきて敵になったとしても後へ
    引いてはならないぞ。いかにもいかにも心強く、
    どこまでも追い付けられよ。そして、その後には
    正成が居るからには、どのような状況でも安心
    して、各々は一足も早く城へ入るようにせよ。

     この度は、合戦において引く時のやり方とは
    全く違うものになるだろう。(注:合戦の時は、
    早くもなく、遅くもなく、将の下知に随って引くが、
    夜討ちの時は、とにかく早く、一挙に引く。)
    ただ、一足も急いで城へ入られるならば、
    正成も早く城に入ることができるぞ。

     三番目の太鼓は、正成が今こそ城へ入るぞ、
    という意味の太鼓であるぞ。


     (千早城外における楠木正成の下知、終わり)


    ▽ 正成、最後に城に引き上げる

     このように約束事を定めて全員に徹底していた
    楠木軍は、『太平記』に書いてあるとおり、
    水辺の敵を討ち取り、名越の陣も打ち散らして、
    数時間にわたり敵を討った。

     ある程度の時を経て、名越の近くの敵陣が、
    闇夜の中で動き叫んで、騒がしくなるのを見て、
    正成が太鼓を打つと、約束事を違えずに
    二百余人が引いて来た。

     正成が居る場所を足早に通る先の
    二百余人の兵たちに、正成は声をかけた。

     「よくやった、見事だ。さあ、急げ、急げ。」

     このように下知して、二番目の太鼓を打つと、
    楠木正純の軍勢が引いて来て城に入った。
    ちょうどその頃、数万の敵軍が名越の陣へと
    駆け付けているところであった。

     正成が三番目の太鼓を打つと、名越の陣に
    集まった幕府の軍勢は約千余りにもなっていた
    であろうか、蜘蛛の子を散らすように、四方へ
    ぱっと散ったのであった。おそらく、この太鼓
    の合図で、また楠木が攻め懸かって来るのだ
    と勘違いしたのであろう。正成は、これを見て
    にっこりと打ち笑い、快げな様子で30余人
    を前後に立てて、千早城内へと引き上げた
    のであった。

     これらのことは、非常に優れた謀である、
    と内外の人も申していたという。


    (「千早城外での夜討ち」終り)


    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
    ⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
    ⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

    『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
    ⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html

    がある。


    【過去の連載】いまでもメルマガで読めます。

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    ●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
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    2014年8月10日日曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第9回】叱るよりほめよ

    【楠木正成の統率力第9回】叱るよりほめよ


                       家村和幸

    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、それぞれの巻の作者について紹介いたします。前回は楠木正成について記した十一・十六巻や、足利尊氏の陰謀、直義の悪逆などを記した十三・十四巻などについてでした。今回は、尊氏・直義一代の悪逆などが記された二十二巻が消されたことについてです。

    (引用開始)

     数年を経て、南朝の正平の頃、備後三郎高徳入道(児島高徳)が吉野に居たときに、御村上天皇の勅により、京中の合戦と足利尊氏の敗北について記した。これが十五の巻である。その内、多々良浜の合戦については、寿栄(尊氏の右筆)がこれを記した。

     また、十二の巻は、足利直義(ただよし、尊氏の弟)が玄恵に命じてこれを記した。この時、直義は玄恵に語ったことには、「この書の十巻以後は、全て焼却すべきではないか」とのことであった。

     それに対して、玄恵は、「それはなりませぬ。後代の人もまた、焼失したことの咎(とが)を記すことになりましょう。なによりも、公の政道が正しくあること願うのみです」と言ったのであった。これにより、直義は書を焼かなかった。

     このようにして、元弘の政治が正しくなかったことを記した。十二・十七・十八・二十三の巻などがこれである。この時、高徳入道義清も、越前の合戦、脇屋義助(新田義貞の弟)の敗北、そして尊氏・直義一代の悪逆を記した。これが二十二の巻である。

     そうであるのを後に武州入道(細川頼之)が好ましくないことだと思って、天下の内を尋ね求めてこれを集め、全て焼却した。(足利幕府全盛の)当時としては、「二十二の巻とは、あきらかに読ませるべきではない書である」との判断であった。

     現代に存在するところの二十二の巻は、二十三の巻から集め出して、二十二と号したものである。

    (以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

     それでは、本題に入りましょう。


    【第9回】叱るよりほめよ



    楠木、渡辺橋の戦いで六波羅軍を撃滅

     1332(元弘2)年の暮までに千早城を完成させ、下赤坂城も奪回した楠木正成は、翌年1月中旬、約2千の兵を率いて堺付近に進出し、淀川の障害を利用して、六波羅軍5千を撃破した。これが渡辺橋の戦いである。

     楠木の軍勢を討伐するため京都から堺へやってきた六波羅軍に対し、楠木は3百の小勢により敵を誘きだして渡河させてから、橋を破壊して退路を遮断し、楠木勢主力で三方向から反撃した。六波羅軍はたちまち混乱に陥り、渡辺橋方向へと退いたが、楠木勢はこれを猛追撃して淀川南岸に圧迫し、撃滅した。

     六波羅探題の南北の長官、左近将監・北条時益と越後守・北条仲時の二人は、この報告を聞いて、事のあまりの重大さから、再び楠木勢を攻める必要があると考えた。そこで、京都警備のために関東から上洛していた、宇都宮公綱(きんつな)を呼び寄せて評定(作戦会議)を開いた。

     まず、北条仲時が述べた。

     「合戦というものは、古来から時の運が雌雄を決することである。しかしながら、この度の渡辺橋の戦で大敗したのは、何よりも指揮官の作戦がまずかったことによる。また、将校や兵士らが臆病だったからである。このため、天下の笑いものになったのだ。・・・」


    仲時の士卒への批判は正しいか

    (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)

     仲時が云うには、この度の敗因が「指揮官の作戦がまずかったことによる」とのことであるが、これは理に適(かな)っている。しかし、さらに「将校や兵士らが臆病だったからである」としたのは正しくない。

     楠木勢が皆、勇敢であるということはなく、六波羅軍が皆、臆病なのでもない。何ゆえにこのようなことを云うのであろうか。これを聞いた京都の軍勢は皆、不本意に思い、やる気をなくしたことであろう。


    郎従の過失への正成のあり方

     楠木正成が郎従を諌(いさ)めるときは、かりにもその悪しきことを云わず、無礼な悪口を吐かなかった。その郎従の過去の良かったことや、誉(ほま)れだけを指折り語ってから、最後に一言こうつけ加えたのである。

     「これゆえに、正成はそなたへ頼んだのである。今回のような過失は、それまでの良き事があればこそ、恥とされよ。気持ちを引き締めて、今後は無いようにせよ。」

     このように云って、十日、二十日、あるいは百日の間、対面しないでいれば、その者も情けの深さを思い、我が身にとって何とも恥ずかしく、また誠にかたじけないとだけ思うことから、再び過ちを犯す者は少なく、正成を恨む者もいない。

     人の上に立つ者は、皆かりそめにも、自分の腹が立ったからといって、人に恥をかかせること、無礼な悪口は言わないものである。心得ておくべし。


    八尾の別当に敗れた志貴右衛門

     また、正成は八尾の別当顕幸と数年にわたり戦っていた。(注:第7回掲載文「敵意を解いて服属させる」参照)

     ある時、楠木の家の子である志貴右衛門助と云う者が、百余騎にて一城に籠った。別当顕幸は直ちに50余騎にて、その城へ向かった。志貴は城を出て戦ったが、打ち負けて城へ入らず、郎従18騎が討たれながらも、すぐに楠木の館に来た。

     周りの人々は、これを指差し、嘲笑して云った。

     「別当顕幸と当家は、所領の争いにより、恨み合うこと数年にわたる。そうであれば、その勝負は、折によって変わるものではあれども、一城を取られるまでの事は聞いたことが無い。これは寺の坊主のいくさだて(=戦の仕方)よりも拙いということだ。これほどまで戦に負けたのは、法師にも負けるただの尼僧ではないか。正成殿に対面して、何と言い訳したのだろうか。恥をさらすよりも、いっそ死んでしまえ・・・」


    志貴を叱らなかった楠木

     正成は右衛門に対面して、戦の様子を詳しく聞いてから、これまでの右衛門の数々の戦場での忠義、勇敢な行動や、さらに賢明に判断して戦った事なども語りだしてから、

     「正成が常に申してきたのは、こうしたことであるぞ。そなたは、それほど愚かないくさだてをするような殿ではござらぬ。」

     と云い、そして

     「御身が無事で死をまぬがれたことこそ、うれしく思うぞ。死んでしまった兵は、なげいたとても帰ることは無い。そうであっても正成、この故に多くの士が討たれてしまったことは、実に不憫(ふびん)に思うぞ」と涙ぐんで、

     「この度の事、そなたの謀、いくさだての間違いは、ただ正成の天命が間違ったからでこそあろう。そなたの間違いではない・・・」

     こう云って、再三これを誉め、「馬・物具も、おそらく戦場に捨ててしまったことであろうから、これを召されて、後日の合戦をなされよ」と、馬・物具を与えた。また、討たれた兵たちの妻子を呼び寄せて、皆に米銭・金銀の類をその身分に応じて与えた。人は皆、その情け深さに感じ入ったのであった。

     その後、志貴右衛門助はずっと、このことを恥ずかしく思っていたが、謀をめぐらし、終に別当に取られた城を、半年の内に夜討ちにより取りかえし、恥をすすいだのであった。

     これとは比べるべくもないが、舌にまかせて理もなき悪態をつき、諸卒に疎(うと)まれていた仲時の心の中こそ、愚かなものである。



    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第8回】小勢をもって多勢に勝つ

    【楠木正成の統率力 第8回】小勢をもって多勢に勝つ
             


    家村 和幸


    ▽ ごあいさつ

    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の
    巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた
    経緯と、それぞれの巻の作者について紹介
    いたします。前回は十巻までについてでしたが、
    今回からは、十一巻以降についてです。

    (引用開始)

     後醍醐天皇は、題号(書の名称)が定まって
    いないということで、玄恵・智教・教円らに
    命じられた。そこで、三人の僧は、武士等に
    会って、物語の前後や虚実をそれぞれ尋ねて、
    これを再び記した。『元亨釈書』の師(虎関師錬)
    に命じて、序を書かせた。

     題号については、前に記したとおりである。(注)

     また、建武の頃、後醍醐天皇が山門に
    居られた時、大友・少弐の振る舞いや、
    五大院の右衛門の行いを後代の「嘲り」にせよ
    とのことで、山門の護正院に命じて、これを
    記させられた。正成が戦死した様子について、
    「智・仁・勇」の三徳を備えていると、お褒め
    のあまり、善智坊法印に申しつけて、これを
    記させられた。これが十一・十六の巻である。

     南岸坊の僧正顕信が、(新田)義貞の
    奏状・(足利)尊氏の陰謀、(足利)直義の
    悪逆を記した。これが十三・十四の巻である。
    この当時、義貞は鷺坂(さぎざか)・箱根の合戦
    を自ら記した。これも十四の巻である。

    (以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

    (注)『太平記』という書物の題号(名称)が
    四度改められたということ。詳しくは、本メルマガ
    記事の第四回掲載の「ごあいさつ」をご参照ください。
    http://okigunnji.com/nankoleader/category2/entry7.html

     それでは、本題に入りましょう。


    【第8回】小勢をもって多勢に勝つ

    (「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に
    出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)


    ▽ 大将が臆すれば、兵も臆する

     楠木正成は常々、家の子・郎従や将(上級指揮官)
    である者たちを諌(いさ)めて、次のように語っていたという。

     「敵軍と陣を張り、戦(いくさ)を決するときはいつでも、
    我(われ)は無勢(少ない軍勢)、敵は大勢となるであろう。
    そのような条件で、もしも敵と我の間隔が六町
    (約655メートル)もあるのに、敵から意を決して
    かかって来たとしよう。世間の将は、こちらが無勢で
    あり、敵が大勢であるのを見て、臆して我の陣まで
    敵を引き寄せて射立て、右往左往するところに
    切って出ようとするであろう。

     しかし、これは大なる過ちであるぞ。大将が臆したのに、
    どうして兵が臆さずにいることがあろうか。そうであれば、
    攻めかかる敵の軍勢を恐れて、臆した者は耐え切れず
    に備え(隊列)から脱落することになり、この臆した者
    が落ちていくのに引きずられて、少し剛である者さえ
    も落ちることになるのだぞ。

     人は勝れて剛毅であるのもまれであり、勝れて臆病
    であるのもまれであるから、残るものはいよいよ少ない
    のだぞ。


    ▽ 「居負け」とその対処法

     こちらの兵がまばらになったのを見て、敵はますます力を
    得てかかってくる。その時、敵は時の声を発して、
    我が陣へどっとかけ入るだろう。臆病になっている味方は、
    堪えきれなくなって必ず敗けるものである。これを「居負け」と云う。

     このようにして負けることは、将の不覚の最たるもの
    である。何とも口惜しいことではないか。そこで、
    このようになってしまった時は、将自らが軍の備え
    を歩き回りながら、このように下知(命令)して云うのである。

     『今日の戦には必ず勝てる方策がある。太鼓の合図
    を守って各々前進せよ。人に抜きんでた振る舞いが
    あれば、賞禄するぞ。』

     このように諸兵の気を引き締めてから、我が陣前
    に帰り、敵の攻めかかって来るのを見る。敵との間が
    六町の時は、五町(約545メートル)ほど敵が来て、
    あと一町(約109メートル)ほどの距離に近づいた
    ならば、陣太鼓を打って味方の軍を進めるのである。

     こうすることの利点は三つある。

     一つには、敵が攻めかかる時、こちらは後れを取り、
    敵はその機に乗るものである。それでも我が軍を乱さず、
    騒ぐこともなければ、敵も怪しむことであろう。
    そこでこちらから進むことによって、今度は敵が気後れし、
    我がその機に乗るのである。

     二つには、敵は五町以上の距離を前進して疲れて
    おり、我は半町(約55メートル)を行くだけなので
    疲れていない。

     三つには、敵は長い距離を前進して陣形・隊形
    などの備えが乱れており、我は乱れていない。

     敵が3千を一軍として攻めかかるのに、我が1千の
    軍であっても勝てるのは、躊躇(ちゅうちょ)せずに
    断行することにある。その理由は、敵が3千を一軍とし、
    我が千を一軍としたとしても、それは名目に過ぎない。
    互いに進んで勝負をすれば、最前列の30〜50人
    が太刀打ちして負けた方の兵は、どれ程であろうとも、
    皆敗北するものである。

     そうして、その軍勢が乱れた後は、再び備えを
    調えるのが困難になる。負けた方の兵は、
    足のままに走り逃げるばかりで、勝った兵は、
    周りの動きに自分を任せて、ただ追い行くだけである。
    こうなれば3千でも多くはなく、千でも少なくはない。


    ▽ 勇士・強弓を選りすぐる

     こうしたことから、将たる者が嗜(たしな)んで
    求めるべきことは、頑強で勇猛果敢な太刀打ち
    のため、鬼神をも欺き、命を塵(ちり)よりも軽く
    思うような兵を、正成は十人集めたが、これを二十人
    選りすぐり、これらに相応しい兵具を持たせる。
    また、勇敢な強弓の兵士を、これも正成は十人
    集めたが、二十人を自分の馬の傍らに置く。

     そして、「杉の先」陣形でかける時も、また、
    「剣の先」陣形でかける時も、「魚鱗」の陣形で
    かける時も、将が真っ先に進むのである。
    この時、敵が太刀打ちしようとかかって来るのを、
    我は太刀打ちの兵一人につき、射手を一人添えて、
    間隔を二間(約2〜3メートル)にして射るならば、
    どうして外れることがあるだろうか。

     こうして、敵の動きが少し鈍ったところへ、
    将が自ら攻めかかって突入するならば、
    たちまちにして勝つのだ。


    ▽ 武芸に練達した勇士を育てる

     このゆえに、一軍の将である者は、勇士・強弓を
    いかにしても集めるようにせよ。また、自分の
    郎従の子供などを、幼少の頃から常に身近に
    置いて、その勇気と武芸では何に器用であるか
    を知らねばならない。勇気があるならば、さらに
    近くに置いてこれを愛し、その器量に応じた武芸
    を習わせ、十分に恩を与えて、これに親しくせよ。

     この世の宝は多くとも、少なくとも、武芸に
    練達して勇気がある者は、希少な存在であるぞ。
    天下第一の貴重な宝とは、勇気があり、しかも
    武芸に練達している人物である。このことが
    肝要(極めて重要)である。・・・」


    ▽ 諸国の将の賢愚を知る

     また、正成が云うには、

     「およそ武道を心に懸けようとする者は、
    諸国の将の賢愚を知っておくことが第一である。
    これを知ろうと常に意識していれば、諸人が
    言うことから必ず知れるものである。

     諸人が言うことについても、知っておくべきこと
    がいくつかある。人の毀誉(悪口と賞賛)に依らず、
    その将の行跡(ふるまい)を聞け。誉めると云えども、
    行いが道に外れていれば、愚であると知れ。
    謗(そし)ると云えども、行いが道に適(かな)って
    いれば、賢であると知れ。人の毀誉は、おのれの
    意に合わなければ、愚人を褒め、少しでもおのれ
    の意に違えば、賢人を謗るものである。ただし、
    その毀誉する人の行いを見て、分別しなければ
    ならない。日頃から聖なるものに意を懸けている人
    の云うことは、少しは信じるべきである。

     また、その郎従が語るのを聞いて知れ。
    人の郎従とは必ず、日常では主(あるじ)を謗ること
    があっても、外の人に対しては主を誉めるものである。
    誉める種類によって、その行跡を聞け。その(郎従
    が語る)賞賛が信用できなかったり、ましてや郎従
    が主を誉めないようであれば、その将は愚であると
    知れ。ただし、その郎従の云うことから、先ずは
    敵将の意図するところを知れ。百に一つも知れない
    ということはない。

     もしも、このようにして知ることができなければ、
    戦場において、敵部隊の配備の様子を見て、
    その将の賢愚を知るものである。」

    (「小勢をもって多勢に勝つ」終り)



    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
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    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
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    『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
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    【第19回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】

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     場所 靖国会館 2階 偕行の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


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     演題『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その6:豊島河原合戦)

     日時 平成26年8月9日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 田安の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


     お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
         FAX 03-3389-6278
         件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。


    「台湾の声」【楠木正成の統率力第7回】敵意を解いて服属させる

    【楠木正成の統率力第7回】敵意を解いて服属させる
             

    家村 和幸


    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一
    から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、
    それぞれの巻の作者について紹介いたします。

    (引用開始)

     (建武御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿
    にて新田義貞を召されてから)数日を経た後、
    万里小路藤房(までのこうじふじふさ)卿が勅を
    承って、北畠の玄恵にこれを伝えた。玄恵は、
    義貞に会って、鎌倉幕府の滅亡について記した。
    次に、足利高氏・直義に会って、かの陰謀と
    六波羅の滅亡について記した。今の九・十の両巻
    がこれである。

     後醍醐天皇は、お褒めになられて、玄恵を
    三品の僧都になされた。当時、天下の武臣は
    これを伝え聞いて、元弘に功績があった者は、
    自分の功績が隠れて、この書に顕れていない
    ことを恨み、功績が無い者は、これをうらやまし
    がった。これによって、再び玄恵に命を下して、
    先ず正成の武功を記すようにさせた。

    また、玄恵は藤房卿に会って、笠置の戦い、
    後醍醐天皇から皇子・摂政の臣、下六位に至る
    まで、鎌倉幕府のために苦しまれたことを記した。
    三・四・五・六の巻がこれである。
    ここに、大塔尊雲法親王・妙法院法親王(尊澄)等
    が苦しまれた御事、中でも大塔宮が南都・吉野・
    十津川において、虎口の難を遁れられた様子を
    玄恵に命じて記させたのである。

    また、赤松の戦功についても、同じ作者である。
    ただし、律師則祐が会談した。これが、今の
    七・八の両巻である。

    初二巻は、山門(比叡山延暦寺)の来賢方印が
    玄恵と会談して、これを記した。

    全部で十巻、これまでを義貞鎌倉の物語と云い、
    あるいは高氏六波羅物語と云い、あるいは
    赤松合戦記と云う。正成一人だけはその名を
    云われることがない。

    (以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

     それでは、本題に入りましょう。


    【第7回】敵意を解いて服属させる


    ▽ 楠木、赤坂城を急襲して奪還

     元弘元(1331)年9月、赤坂城で自害して
    焼死したとみせかけ、城を落ちた楠木正成は、
    金剛山の奥にある観心寺という所に忍んでいた。
    楠木の郎従5百余人も、大和・河内・紀伊の山中
    に散らばって潜伏していた。また、笠置山を
    逃れられた大塔宮は、吉野に一城を構え、御陣を
    召されていた。

     鎌倉幕府が地頭として河内へ配置し、赤坂城
    を占領していた湯浅定仏は、楠木が死んだものと
    信じて安心しきっていた。そこへ、元弘2
    (1332)年4月、楠木正成が五百余騎を
    率いて押し寄せてきた。城中に兵糧を蓄えて
    いなかった湯浅は、あわてて自分の領地である
    紀伊国の阿瀬川から兵糧を持って来させた。
    赤坂城内に潜入させていた忍びから、このこと
    を聞きつけた楠木は、宗徒の勇士3百余人を
    紀伊と河内の境にある木目峠(現在の紀見峠)
    に派遣した。

     木目峠の楠木勢は、湯浅の兵糧運搬隊を襲撃
    して兵糧を全て奪い取り、空になった俵に武器
    などを詰め込んだ。そして、兵糧を運ぶ人夫や
    その警備兵と、これを追う軍勢に扮して、赤坂城
    の敵兵から見える場所で追ったり逃げたりの同士
    討ちを演じた。湯浅入道はこの様子を見るや、
    すぐに手勢を城内から打ち出し、この偽の兵糧
    運搬隊を城内に引き入れたのであった。

     赤坂城内に入り込んだ楠木勢は、俵の中から
    武器を取り出して武装し、閧の声を挙げた。
    これを合図に、城外に控えていた軍勢も城の木戸
    を破り、塀を乗り越えて攻め込んできた。
    こうして楠木の軍勢に取り囲まれた湯浅は、
    とても戦うことが出来ないと考えて降伏した。


    ▽ 八尾の別当を服属させた正成の智謀

    (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺
    に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)

     正成が赤坂城を奪還した後、同じ河内国の
    住人・八尾の別当顕幸(やおのべっとうあきゆき)
    を味方に引き入れようして説得すると、顕幸は
    やがて百五十騎で馳せ参じて、正成に服属した。
    この八尾の別当は、昔から正成の父・正玄(まさとお)
    と領地のことで常に争っており、楠木氏に対する
    遺恨が深かった。それが、どうしてこの時に服属
    したのかと云えば、それは正成の智謀が深かった
    からである。

     正成は赤坂城の奪還に向かう以前、大塔宮に
    次のように申し上げていた。

     「八尾の別当顕幸は、武勇の誉れある者で
    あります。彼が味方として参らなければ、
    河内の賊を退治することは難儀でありましょう。

     この男は、意思は浅くして正直な法師で
    ございます。常に官位を意識する者でございます。
    しかしながら、正成とは、とある事情から不和
    にございますれば、正成が赤坂に出向いてから
    後は、何を仰せられても、勅(=天皇のお言葉)
    に従うことはないでしょう。それゆえ、八尾の
    別当には令旨をお与えになられて、彼の気持ち
    を和らげて下さい。そうすれば、必ずや味方に
    参って、帝に忠誠を尽くして戦うことになりましょう。

     先ず、謀として八尾の別当に「権僧正」の号
    (僧正は最上位の僧官。大・正・権の三階級が
    あり、権僧正は参議に相当)をお与えになり、
    天下が安らかになった後には、恩賞を望みどおり
    与える旨を仰せになってください。」

     楠木がこのように申したならば、大塔宮は
    「彼の敵意が解けて、味方となってくれるので
    あれば・・・」と仰せられ、すぐに令旨を顕幸に下された。


    ▽ まず虚栄心を満たし、次いで気心を解く

     顕幸は、「法師であるこの私に僧正を下されよう
    との事、武士の面目もまた余りあること」と大い
    に喜び、味方となって義戦に与(くみ)しようと
    申してきた。しかし、それには次のような条件があった。

     「ただし、宿敵である楠木正成の存亡については、
    風のうわさにいろいろと聞いております。もしも
    彼が生きていて、宮方に忠誠を誓って戦うようで
    あるならば、顕幸の軍が帝に忠を尽すことは絶対
    にないものと心得て下され。」

     これは困ったことになったと思し召しになられた
    大塔宮は、この由を正成にお伝えになられた。
    正成が申すには、

     「事情はよくわかりました。それでは令旨に代えて、
    彼の気持ちが打ち解けるよう、このように申して
    いただきとうございます・・・」とのことであった。

     そこで、大塔宮は遣いの者を通じて、顕幸に
    次のように仰せられたのであった。

     「正成の存亡は全く承知していない。世間の
    うわさでは、あるいは存在し、あるいは亡き者で
    あり、実はどうなのかは何とも言い難い。しかし、
    正成が生きているのであれば、なぜ私がいる吉野山
    に参らないのであろうか。万一、楠木が存命して
    いて、河内に出没したとしても、今まで私に与せず
    して、別の企てがあったというのなら、何ほどの
    忠誠心があろうか。これでは朝敵と同じようなもの
    であろう。この後、正成が私に味方すると申し入れて
    きても、全く用いるつもりは無い。」

     これを聞いた顕幸の気心は解けて、「是非、
    宮の御味方に参りましょう」との勅答を申した。


    ▽ 実力を見せつけながら、下手に出る

     それから十日ほどして、正成は湯浅定仏が占領
    している赤坂城に攻め寄せた。これを知った顕幸が、
    大塔宮に「御存知でございますか」と尋ねると、
    大塔宮は「存じておらぬ」と仰せられた。そのため、
    顕幸は赤坂への後詰めをしなかった。

     赤坂城を攻め落として、威信が強まってから、
    正成は顕幸の元へ次のように申し伝えてきた。

     「正成は実に愚か者でありますので、この
    (赤坂城奪還という)一大事を思い立つや、帝の
    御為を思うあまり、自分が死んだことになって
    いるのをすっかり忘れておりました。これまで
    死んだふりをして、朝敵から隠れ忍んでいたなど
    と云う卑怯な行跡(ふるまい)を、世の人々も実に
    苦々しく思われていることでしょう。そして、
    貴僧が訴えられたことで、大塔宮もさぞかし正成
    を不審に思われておられるに違いありません。

     私を以て公の事を忘れるのは、人たる者のしては
    ならないことでございます。従いまして、今日以降
    は、昔からの恨みをお忘れください。そして、
    正成には全く不忠の心はございませぬことを、
    どうか大塔宮にお伝えになってください。今は
    父祖の恥を忘れて、そなたに降参いたします。
    朝敵を追罰するにあたっては、八尾の別当顕幸殿
    が万事を取り仕切っていただきたく、お願い申し上げます。

     それさえも、叶(かな)わないということであれば、
    なす術もございません。そうであれば、そなたは
    私の敵、はたまた、私の朝敵退治の支障ともなります
    れば、天下の御敵でございますから、そなたの館へ
    参って、一戦を交えましょうぞ。」


    ▽ 相手の心を討つ楠木正成の謀

     正成がこのように申したので、顕幸はあわてて
    応えたことには、

     「いやいや、楠木殿が心の底から宮の御味方で
    あられたことは、早速、御所に伝えましょう。私的な
    事で戦うようなことは、今の楠木殿には相応しく
    ありません。また、仰せられることも実にもっとも
    でござる。貴殿のような名将が降参された上は、
    これ以上の面目はございません。」

     そして、さらに申すには、

     「大塔宮が御不審に思われている事は、この顕幸が
    よき様に申しておきましょう。これから後は、宮の
    お近くで一緒になって忠節を尽しましょうぞ。」

     こうして、かつての宿敵であった八尾の別当顕幸は、
    その勢百五十騎を引き連れて赤坂に参り、正成と一手
    になったのである。こうした楠木の謀こそ、最も恐る
    べきものである。後にこのことを、正成が八尾の別当
    に語ると、顕幸は笑って、「あの時は、実にうまく
    謀られてしまいましたなあ」と云ったものである。

     この一件があってから後、和泉・河内両国に所在する
    御家人は皆、正成に随順して、その勢力が強大になって
    いったという。

    (「敵意を解いて服属させる」終り)



    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
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    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

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    著書に

    『真実の日本戦史』
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    ●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
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     日時 平成26年7月26日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 偕行の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


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     日時 平成26年8月9日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

     場所 靖国会館 2階 田安の間

     参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料


     お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
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    2014年7月14日月曜日

    2014年6月29日日曜日

    「台湾の声」【楠木正成の統率力第6回】恩賞の与え方と受け方

    【楠木正成の統率力第6回】恩賞の与え方と受け方
             


                     家村 和幸

    ▽ ごあいさつ

    こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

     『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、『太平記』
    全四十巻が書かれた経緯や、それぞれの巻の作者
    について記されています。

    それによれば、『太平記』という書物が、
    後醍醐天皇のご発意により、長い年月をかけ、
    多くの人々の手によって記されたものであること
    が分かります。その内容を今回から、数回に
    分けて紹介いたします。

    (引用開始)

     この書(注:『太平記』)は、今を去る建武
    御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて
    お遊びになられた折、諸卿・武臣が堂の上や下
    にいたが、新田義貞を召して次のような勅を下された。

    「文治から今までの数百余年、鎌倉幕府が権威
    を重くして、天下を支配した。朝廷の廃頽は
    日ごとに増していった。それゆえ代々の天皇も、
    幕府を滅ぼし、帝徳を四海に照らそうと、
    あれこれとお考えになられたが、事ならずして、
    (後鳥羽院隠岐配流のように)かえって皇居を
    遠島に遷されてしまい、または権勢も微々たる
    ものとなり、沈黙なされていたのである。
    しかし、朕(ちん:この場合は後醍醐天皇)の
    代になって、逆臣はたちまちのうちに滅亡し、
    王法(=仏教の立場から、国王の法令・政治を
    称する語)も昔のように戻った。この上は、
    後代のため、また現在の貴重な教訓ともなるで
    あろうから、義貞が鎌倉を攻めた様子や、
    (足利)尊氏が六波羅を滅ぼしたときのありさま
    を、記しておこうではないか。」

     このような仰せに対して、義貞は、
    「天皇の御徳があまねく天の下を照らすこと
    がないようでは、我ら臣下はどうして尺寸の
    (=わずかな)謀を以て、大敵の勇を砕くこと
    ができましょうか」とお答えしたのであった。

    (以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

     それでは、本題に入りましょう。


    【第6回】恩賞の与え方と受け方

    (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第三 赤坂城軍の事」より)


    ▽ 楠木が赤坂に城を築いた経緯

     元弘元(1331)年8月、六波羅探題は
    七万余騎の軍勢で、後醍醐天皇が遷幸された
    笠置山を囲んでこれを攻めた。このことを
    知った楠木正成は、笠置山の官軍と力を合わせ
    ようとして、すぐに赤坂で挙兵した。

     これは、鎌倉の武士がたいした日数も経ず
    して京都に到着するのは困難であろう。
    その間には、和泉・河内・摂津の三ヶ国
    (現在の大坂府と兵庫県)を平定して、軍勢が
    強大になっていれば、笠置の後詰めとして、
    これを包囲した六波羅軍を背後から攻めよう、
    と考えてのことであった。

     ところが、鎌倉幕府の執権・北条高時が、
    日頃の愚かさとは違って、速やかに大軍勢を
    上京させたことから、楠木の考えどおりには
    ならなかった。そこで、たいした準備時間も
    無いまま、急いで赤坂に城を築いたのであった。


    ▽ 赤坂城における楠木の防御戦法

     赤坂へ向かった鎌倉幕府の軍勢は、さほど
    堀も深くなく、わずかに一重の塀と2〜30の
    櫓が造られているだけの、二町(約220
    メートル)四方ほどに過ぎない小城を見て、
    「ああ、一日でも楠木に城を持ち堪えてもらい
    たいものだ。敵の首と武器を分捕り、手柄を
    立てて、恩賞に預かるぞ」と語っていたという。
    そこで、幕府軍の4万余騎は、一斉に攻めかかり、
    堀に飛び込んで櫓の下まで進むと、我先に
    討ち入ろうと争った。

     楠木正成は、強弓(=弓の技量に優れた射手)
    2百余人を選りすぐって城内に配置し、また弟の
    楠木七郎正季と、甥の和田五郎正遠に3百余騎
    を与えて追撃隊とし、城内に待機させておいた。
    これらの兵たちには皆、慣れ親しんだ(適切な)
    武具を持たせるよう心がけた。

     寄手(よせて=攻城軍)は、一気に目の前の城
    を攻め落そうとして、四方から切り立った城壁に
    取りついたところ、楠木軍の強弓が、櫓や狭間
    から続けざまに、狙い違わず矢を射込んできたため、
    瞬く間に負傷者や死者が続出し、千人以上にも
    なった。射立てられて大損害をこうむった寄手は
    退き、八方に逃げ散じた。

     正成が城内から敵を見ると、備えを堅くして
    いる陣は一つもない。ほとんどの敵兵は逃げ散り
    つつあった。わずかに「見苦しいぞ、引き返せ!」
    と叫ぶ声に応じて、心意気ある者が引き返したが、
    それでも、一所にて百騎さえも返すことがなかった。
    そこで、正季と和田を大将とする追撃隊・三百余騎
    が二手になって城から出撃し、敗走する敵を
    追いかけること一里(約4キロメートル)、
    討たれた者はその数を知れずとなった。


    ▽ 楠木、弓兵と追撃隊の武勇を称賛

     戦が終わってから正成が云うには、

     「今日の合戦は、ひとえに弓兵のおかげである。
    彼らの功績が無ければ、どうして敵を退けられた
    であろうか。また、城中から討って出た兵が、
    敵を滅ぼしたのも戦功がなかったと言うのではない。
    義によって命を捨て、大勢の中に無勢で懸け入った
    のは、神妙である。その上、敵が反撃してきたの
    を撃退したのは、もちろん高名(手柄)である」

     とのことであった。その時、傍らで追撃隊に
    いた兵たちが、

     「兎にも角にも、兵は弓を射るべきであるなあ。
    なにせ、城の内にいながら、遠くまで敵を退けて、
    一番の高名となったのだから。我らは城から出て
    骨を折り、太刀・長刀で敵を打ち倒し、突き倒して、
    自ら数箇所を負傷したにもかかわらず、高名は
    弓兵の次である・・・」

     と語り合っていた。


    ▽ 高名とは時と場合によるもの

     これを聞いた正成は、彼らに諭すように語った。

     「つたないことを言うものではない。時により、
    事によって、高名には優劣があってしかるべき
    なのだ。この度は、あまりにも敵が弱かったので、
    城の塀のきわまでも来なかったのであるから、
    弓の高名となったのである。敵が塀を超えて、
    さらに近くまで来るような時は、太刀・長刀の勝負
    である。さらに近くして、取っ組み合うような時は、
    刀となる。このようなわけで、大昔から武具には
    数々の種類があるのだ。であるから、この先もお前達
    に高名がないなどということがありえるだろうか・・・。」

     このように言われて、初めに愚痴を言った者は、
    自らを恥ずかしく思ったのであった。


    ▽ 赤坂城に残った四人の脱出

     楠木勢が赤坂城を落ちるにあたり、正成は、
    勝多左衛門直幸、和田新五宗景、田原次郎正忠、
    生地兵衛為祐の四人を城内に残した。勝多・田原は、
    正成の家の子(血縁の家臣)、他の二人は郎従である。
    これらは皆、勇士の誉れがあった。

     城に火をかけたならば、寄手は四方から鬨(とき)の声
    を挙げて近づいてきた。四人の兵は、二人は西へ出て、
    二人は北へ出た。何れも戦死した城兵の首を両手に
    取り提げ、大声で「敵は未だに本丸にいるぞ。急げ、
    急げ」と叫んだ。

     これを聞いた数万の敵軍は、「こしゃくな兵どもだ」
    と云いながら、急いで城の奥へと駆け入った。
    こうして、西と北から数万騎の敵が城内に入ったが、
    夜のことであり、急なことでもあって、味方の目印
    さえも定めていなかった。そのため、数時間にわたり
    同士討ちとなって、兵二百余人が死んだ。


    ▽ 正しい恩賞の受け方とは

     四人は無事に正成が居る金剛山の奥に帰り、
    然々(しかじか)と語った。虎口の死を遁れる勇才も、
    また多くの敵勢の中に四人だけ留まったのも、
    正しい道のために死する覚悟があればこそであった。
    正成は、この四人の兵を「義があって忠もある。
    また勇もある」と褒めて、各々に太刀(たち)を
    与えようとした。

     四人が云うには、「弓矢取る身(武士)が
    君主の為に命を捨てることは、常にやるべきこと
    です。どうして我らに限ったことでありましょう。
    殿の土地で喰わせていただき、妻子に糧を与える
    こと数年、身命ともに殿の物であります。
    引出物(君主からの贈物)は、以前にも数年前に
    いただいております。それも、まだ最近のこと
    ですので・・・」と云って、受け取ろうとしなかった。

     正成は三度にわたってこれを与えようとした。
    そしてついには各々が受け取ったのであった。

     こうした場合には、二度目に与えようとされた
    時点で受けるべきである。一度目は、その他の兵で
    このことを知り、自分にも恩賞を得るだけの十分な
    働きがあったと自負しているのに、正成がこの兵
    に引出物をしようと考えていなかったならば、
    その兵は恨みを抱くことになる。(一度は辞退しながら、
    二度目に受けるというのは)このように思わせない
    ためであり、最もよろしい。

     三度目は無礼である。太刀を与えるということ
    は、正成のためには死を快くせよということである。
    また、君主の命令を辞退することであり、礼に背く
    ことにもなるのだ。

    (「恩賞の与え方と受け方」終り)



    (以下次号)


    (いえむら・かずゆき)

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    ● 著者略歴

    家村和幸 (いえむら かずゆき)
    1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
    昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
    昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
    まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
    国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
    情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
    その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
    戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
    幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
    訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

    現在、日本兵法研究会会長。

    http://heiho-ken.sakura.ne.jp/


    著書に

    『真実の日本戦史』
    ⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

    『名将に学ぶ 世界の戦術』
    ⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

    『真実の「日本戦史」戦国武将編』
    ⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

    『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
    ⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

    『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
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