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  • 2011年8月17日水曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(16−最終章)

    米国、中国との冷戦に突入(16−最終章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

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      16、台湾のことを知れば、世界は台湾共和国の創建を支持する

     人民自決の権利が最も基本的な人権であることは、すでに確立された国際法によって承認されている。しかも、台湾人民が自決権を行使して台湾共和国を創建することは、世界の利益と一致しているのである。世界の国々から承認される台湾共和国の誕生は、台湾人民が自分たち自身の主権独立国家を持つことであり、台湾の平和と安全も保障されることになるのだ。これだけ良いことばかりなのに、なぜそれができないのであろうか。

     その最大の原因は、国際社会であまりにも台湾に関する事実が知られていないことである。基本的な台湾の過去と現状を知るだけで、世界の国々は台湾共和国の創建を支持するであろう。しかし、知らないことは支持できない。

     世界で知られている台湾問題と言えば、台湾が大戦の起こり得る危険地帯であると言うことであろう。中国は「台湾は自国の領土であり、台湾を統一するためには武力行使も辞さない」と主張しており、米国は台湾防衛に協力することを公約しているから、米中戦争が起こり得ると思われているのである。このように認識している人々であっても、台湾の国名が中華民国であることさえ知らない人が多い。もし、彼等が次のような説明を聞いたら、どう考えるであろうか。

      台湾の国名は中華民国(Republic of CHINA)である。国連憲章には「中華民国は安全保障理事会の常任理事国である」と書かれており、中華人民共和国の名称は国連憲章のどこにも書かれていないのに、中華民国に代わって中華人民共和国が安保理常任理事国の地位についている。これは、中華民国は滅亡して、その権利は中華人民共和国に継承された、と国連が断定しているからである。それでも台湾の世論の圧倒的多数は、「現状維持」すなわち国名のCHINAを守ることを支持している。これは、台湾人民が中国との統一を希望している証拠だ。中華民国の大統領(=総統)は、「中国大陸も中華民国の領土である」と主張している。中華民国は亡命政権に過ぎないのに、その大統領がこんな発言をしているのだから、中国が「台湾に対する武力行使を辞さない」と言うのは無理もなかろう。

     台湾の実情を知らない人がこのような説明を聞いたら、それを真実と信じてしまうのではなかろうか。台湾と関係の深い米国の国務次官補であったウインストン・ロードでさえ、1995年に「台湾は『1つの中国政策』を堅持して、自由な国になることを自ら拒否している。台湾の政府は、台湾が中国と分離した国家である事を希望していない」と語ったのである。あれから16年も経っているのに、台湾は今なお中華民国の国名を守り、「1つの中国政策」を堅持しているのだ。民主進歩党でさえ、「中華民国は主権独立国家である」と、国際社会では全く通用しない事を主張している。国際社会で承認されてこそ、本物の主権独立国家である。国際法から見ても、台湾の法的地位は未定であり、台湾は中華民国の領土ではないから、中華民国に主権独立国家の資格はないのだ。

     台湾人民の大多数が希望している「現状維持」は、台湾が中国に支配されない独立国家として存在している「現状」であって、台湾が国際社会で孤立している「現状」ではなかろう。民進党でさえ、台湾人民の多数意志を代表していないのである。大戦後、中国から台湾に来た占領政権の支配が長く続いたことが原因で、中国から来た人々とその子孫は台湾の人口の13パーセントに過ぎないのに、いまだに大きな力を持っている。現在、中国国民党を支配している彼等は、中国との「統一」を主張している。しかし、「統一」を希望している人々は台湾の人口の6パーセントもないのだから、彼等はごく少数の人々を代表しているに過ぎない。このような少数派が統治権を掌握している台湾は、民主主義国家と言えるのであろうか。

     台湾では、中華民国の国名を変えたら、中国が攻撃してくる、と恐れている人が多い。しかし、中華民国を承認していない中国が、中華民国の国名変更を理由に武力を行使することは、全く筋が通らない。そんなことをしたら、中国は国際社会の厳しい批判と制裁を受けることになろう。他国の国名変更を戦争の理由にすることなど、国際社会が認めるはずがないのである。しかも、現在の軍事力では、まだ米国が中国を圧倒している。中国の武力による威嚇は、中国が台湾を支配下に置く日が来るまで、台湾に中華民国の国名を守らせることが目的であろう。

     米国も台湾に「現状維持」を要求しているから、国名変更は難しいと言う人も多い。しかし、なぜ国名変更が必要なのか、米国に十分な説明もしないで、そのようなことを言うのは、言い逃れに過ぎない。米国は、どこの国の民主化にも反対できない国なのだ。中華民国憲法は、中国で中国人によって制定された中国憲法である。民主主義の基本原則は、国民が自ら制定した法か、自分たちが選出した国会議員によって制定された法に従う事である。現在の台湾は、法的には全く非民主的な国家なのだ。台湾を民主化するためには、台湾人自身による台湾共和国憲法の制定が必要不可欠であることを説明すれば、米国政府は反対できないであろう。しかも台湾共和国の創建は、台湾を国際社会に承認される国家にすることだから、米国の国益とも完全に一致する。現在の米国は台湾関係法に基づいて一方的に台湾の防衛に協力しているので、「米国は中国の内政問題に干渉している」と誤解している人々も少なくない。台湾共和国が成立すれば、米国は台湾を承認して安全保障条約を締結する事も可能になるのである。

     なぜ台湾には、台湾共和国の創建に躊躇している人々が多いのであろうか。そのような人々は、ぜひ鄭南榕のことを思い出して欲しい。まだ台湾独立を主張することが違法とされていた1987年に、鄭南榕は公開の場で「台湾は独立建国すべきである」と演説した。1988年末、鄭南榕は自分で編集・発行していた『自由時代』誌に、台湾独立建国聯盟主席であった許世楷が執筆した「台湾共和国憲法草案」を掲載した。台湾の高等検察庁は鄭南榕を叛乱罪容疑で召喚したが、彼は出頭を拒否して、1989年4月7日に壮烈な焼身自殺を遂げた。鄭南榕は、台湾人民に台湾共和国を創建する勇気を与えるために自決したのである。

     鄭南榕が自決したのは、李登輝総統がまだ「ロボット総統」と呼ばれている時代であった。その後、次第に実権を掌握した李登輝総統は、強力な世論の支持と民進党の協力を背景に台湾の民主化を推進した。しかし、国民党の長老達の力がまだかなり強く、台湾憲法を制定できる状況ではなかったので、中華民国憲法の修正によって民主化を推進した。しかし、憲法修正では本当の民主化が不可能だった事を、後に李登輝も認めている。

     2003年8月23日、台北市で李登輝を代表者とする「正名運動」の決起大会が開かれた。台湾の国家機関や公営企業の名称に付いている「中国」や「中華」を「台湾」に変えることも「正名運動」の目的であるが、その最大の目的は「中華民国」を「台湾共和国」に変えることである。この決起大会で李登輝は、「中華民国はすでに存在していない。私は12年間、中華民国の総統であった。しかし、中華民国はどこにあるのかと探したが、どこにも見当たらなかった。中華民国はとっくに中華人民共和国にとって代わられていた。台湾という正しい名称を名乗るのが、台湾国を正常化する道である」と語った。わずか3年前まで中華民国総統であった人物も、鄭南榕の主張が正しいことを認めたのである。台湾の独立と自由を守るためには、中華民国を廃棄する以外に道がないことを理解すれば、大多数の台湾人民も台湾共和国の創建に賛成するであろう。台湾に関する基本的な事実を知れば、世界の人々も台湾共和国の創建を支持することになる。大多数の台湾人民が理解できるように、台湾共和国の創建の必要性を説明すると同時に、世界の人々に台湾に関する基本的な事実を知らせることが、現在の急務である。

       17、こうすれば、台湾共和国を創建できる

     いかにして台湾共和国を創建するかは、そのために努力している台湾の人々が意見を出し合い、協議して決定すべきことであろう。1961年以来、私は台湾独立建国聯盟の1メンバーとして、台湾共和国の創建を目的として活動してきたので、皆様の参考になればと願い、以下に私の案を述べる次第である。

     世界の国々が台湾共和国の創建を支持するようになるためには、少なくとも次のようなことを知って貰う必要があると思う。

    台湾簡史

     数千年来、南方系の人々が台湾に渡って来て住み着いた。彼等は台湾へ来た時期も部族も言葉も違い、部族ごとに台湾の各地に居住して、国家を形成しなかった。最初に台湾を支配した国家はオランダである。1624年に台湾に上陸したオランダ軍は、台湾南部を中心に37年間にわたって台湾を支配した。1644年に満州人の清朝は、明朝を滅ぼして中国を支配下に置いた。清朝に抵抗していた1部の中国人が、1661年にオランダ人を台湾から駆逐して、台湾を占領した。彼等は台湾を拠点として清朝に抵抗したが、1683年に清朝が台湾を占領した。1895年、日本との戦争に敗れた清朝は、台湾を日本に割譲した。1945年、第2次世界大戦で日本が敗北すると、マッカーサー連合国最高司令官は、蒋介石・中華民国総統に台湾の占領を命じた。台湾を占領した蒋介石は、一方的に台湾は中華民国の領土になったと宣言した。1949年、中国共産党は蒋介石を総司令とする中国国民党軍を敗北させて、中華人民共和国を創建した。中国国民党は、中国を追われたが、台湾の支配権は維持した。1951年、日本と戦った米国を中心とする連合国の大部分と日本の間でサンフランシスコ平和条約が締結され、日本は台湾に対する一切の権利を放棄したが、台湾の帰属は決定されなかったので、「台湾の法的地位は未定である」というのが、これらの国々の見解である。中華民国は中国の統治権を失なった後も、国際連合では安全保障理事会の常任理事国であったが、1971年に中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟した時、中華民国は国連から追放された。それまで中華民国を承認していた国々も、次々に中華人民共和国と国交を結び、中華民国と断交した。その結果、台湾は国際社会で孤立して、現在にいたっている。

    台湾人民の願望は、自由で民主的な自分達自身の国家を創建する事である

     1945年に中国国民党に占領されて以来、台湾人民は自由と民主主義を求めて国民党政権の専制独裁に抵抗した。国民党政権は、戒厳令を敷いて政府を批判する人々を弾圧し、政党の結成も禁じた。しかし、台湾人民は何万人もの犠牲者を出しながら民主化闘争を続け、1986年に民主進歩党を結成し、翌年には国民党政権も戒厳令を解除せざるを得なかった。1947年12月に施行された中華民国憲法は、半年後に施行を停止されたが、1991年にその凍結を解除する形で民主化が推進された。1992年には国会議員の総選挙が行われ、1996年には国民の直接選挙で総統が選出された。しかし、中華民国憲法は中国で中国人によって制定された中国憲法であり、この憲法を台湾に適用するのは民主主義の基本原則に反している。台湾人民の大多数は、台湾共和国憲法を制定して、自分達自身の自由で民主的な国家を創建することを熱望している。しかし、中国の威嚇と米国の「現状を変えるな」という圧力によって、台湾人民は中華民国憲法を維持させられてきた。国連がすでに滅亡したと認定している中華民国の国名と憲法を用いているために、台湾は世界の国々の承認を得ることができず、国際社会で孤立している。少なくとも民主主義国家は、台湾共和国を創建することによって、台湾の法的民主化を完成することに反対すべきではなかろう。台湾人民は、台湾共和国を創建することによって、世界の自由民主主義国家と連帯し、自由民主主義の防衛と拡大に尽力したいと願っている。

    台湾共和国を創建するために、台湾では次のような運動を展開すべきではなかろうか。

    人民自決運動

     人民自決権は、国際法で全人類に保障された権利である。第2次世界大戦が終結した時、68か国しか存在しなかった主権独立国家が、今日では193か国に増えている。増加した125か国は、全て人民自決権の行使によって建国されたのである。台湾の場合、人民自決権を冒頭に掲げる国際人権規約が国内法化されたので、台湾人民はこの国内法でも自決権の行使を保障されている。2009年12月に国際人権規約が国内法になった時、馬英九総統は「台湾の国民1人1人がこの法律を引用できるようになった。この法律は、他の法律よりも優先的に適用される」と述べた。本来なら、国際人権規約の国内法化に賛成した馬総統も立法委員も、人民自決権を行使する公民投票には賛成しなければならないはずである。しかし、この公民投票を実現するためには、強力な世論の圧力が必要であろう。

     公民投票を要求する署名運動を行なうのは、いかがであろうか。2004年2月28日台湾の人口の1割近い人々が、「人間の鎖」を作って「台湾イエス、中国ノー」を叫び、中国との統一に反対である意志表示を行なった。一定の時間に一定の場所に220万人もの人々が集まったのだから、いざという時の台湾人の団結力が証明されたのである。自分達自身の主権国家を創建するための署名運動だから、あの時の何倍もの人々の署名を期待できるのではなかろうか。

    1日も早く国名変更を

     中国は、東アジア(東南アジアを含む)から西太平洋までを覇権下に置くことを目標として、海空軍力を増強し、近隣諸国を脅かしている。南シナ海の大部分を自国の領海であると主張する中国は、南シナ海を「中国の核心的利益」と位置づけて、南シナ海の周辺諸国を武力で威圧している。東アジア・西太平洋諸国にとって、南シナ海を通るシーレーンは命綱あり、中国は南シナ海を支配することで、これらの国々を覇権下に収めようとしているのである。

    中東の2つの戦争にエネルギーを奪われて、東アジアを等閑視していた米国が、やっとその危機に気づいて東アジアに戻ってきた。中国を「潜在敵国」と規定した米国は、中国の周辺諸国と軍事的協力関係を緊密化して、中国包囲網を形成しつつある。東南アジア諸国はいずれも軍事力を増強しているが、特に中国の隣国で南シナ海を通らなければ外国にも行けないベトナムは、2011年の軍事予算を前年比70パーセントも増額した。米国は、これらの国々に軍事援助を与え、共同軍事演習を繰り返している。

     南シナ海の航行の自由を守るために、台湾は死活的に重要な地政学的地位を占めている。もし、中国が台湾を支配下におけば、南シナ海の出入口を支配できるからだ。台湾にとって、主権独立国家としての地位を獲得する絶好機である。台湾共和国を創建すれば、米国と南シナ海のシーレーンを命綱とする国々は、喜んで台湾を仲間に受け入れるであろう。台湾共和国の創建は、1日も早い方が望ましい。国際社会が台湾を主権独立国家として承認できないのは、台湾が中華民国を国名にしているからであって、世界の国々は台湾の憲法の内容にまで配慮している訳ではない。台湾共和国憲法の制定には時間を要すると思われるので、公民投票にかけるのは、次のような内容で良いのではなかろうか。 

    「台湾の国名を台湾共和国として、中華民国の国名を廃棄する。中華民国憲法の文章の中で『中華民国』と書かれている所は『台湾共和国』に改め、『台湾共和国』と矛盾する条項は凍結して、可能な限り早く台湾共和国憲法を制定する」

    (完)

    2011年8月16日火曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(13−15章)

    米国、中国との冷戦に突入(13−15章)〔2011.9.4校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

    13、米国政府も「台湾が『1つの中国政策を放棄』すれば、国交を結べる」と言明

     1971年に中華民国が国連から追放された後、それまで中華民国を承認していた国々も、次々に中華人民共和国を承認して、中華民国と断交した。その後、国民党も民進党も、台湾が国際社会から承認されるために必要な対策を取ったことはない。逆に、台湾は国際社会への復帰を希望していない、と誤解される行動をとった。それは、国民党政権時代の1993年から民進党政権になった後も2006年まで、中華民国の国名で国連加盟を申請し続けたことである。

     1995年7月13日、クリントン米政権のウインストン・ロード国務次官補(東アジア・太平洋担当、元駐中国米国大使)は、「台湾は我が国と公式な関係を構築する意図を持っていない。なぜなら、台湾は『1つの中国政策』を堅持しているからだ」と語った。さらに翌日、ロード国務次官補はこの発言を補足して、「台湾は『1つの中国政策』を堅持して、自由な国になることを自ら拒否している。台湾の政府は、台湾が中国と分離した国家であることを希望していない」と述べた。台湾がCHINA(中華)のつく国名を改めて、領土も中華人民共和国と全く別の国家であることを明確にすれば、台湾は主権独立国家であることが国際社会で認められて、米国と国交を結ぶ事も可能である、とロード国務次官補は言明したのである。2期目のクリントン政権が中国一辺倒になってしまったのは、台湾の政府にも大きな責任があるのだ。

     台湾に関心を持つ何人もの外国の大統領や首相などが、「台湾が中国とは別の国家であることを明確にすれば、台湾を承認できる」と話したことがある。2000年になってもなお、チェコのハベル(Havel)大統領は、「国名が中華民国ではなく、台湾であれば、承認できる」と語っている。この年、民進党は総統選挙で勝って政権の座についたにもかかわらず、国民に対して「国名を変更すれば、台湾は他の国々と同じく世界の平等な1員として承認される事」を、わかりやすく説明することさえしなかった。

     中華民国の国名を使用している限り、国際社会が台湾を主権独立国家として承認できないことは、国連憲章を一見するだけでわかることである。国連憲章のどこにも「中華人民共和国」の国名は書かれておらず、「中華民国は国連安全保障理事会の常任理事国である」と書かれたままなのに、中華人民共和国がその地位を占めているのだ。このことが、「中華民国は滅亡して、その権利は中華人民共和国に継承された事」を意味しているのは明白ではないか。

     陳水扁がまだ総統であった2007年、台湾政府は初めて「台湾」の名称で国連加盟を申請した。この時、潘基文・国連事務総長は、「台湾は中国の1部である」として、この申請書の受理を拒否した。台湾の国名が中華民国のままだから、国連事務総長までがこんな誤解をしたのである。この時、米国や日本などは「台湾は中国の1部であるという潘事務総長の解釈は誤りである」と指摘した。その誤りの根拠として、米国も日本も「台湾は日本がサンフランシスコ平和条約で放棄したが、その帰属は決定されていないから、台湾の法的地位は未定である事」を説明したと思われるが、そのことは公表されていない。米国も日本も、1971年の国連総会の前に、中国に対して「台湾の法的地位未定については公言しない」と約束したことを、今なお守っているのである。40年間も「台湾の法的地位未定」が公言されない事態が続いていることも、「台湾は中国の1部である」と国際社会に誤解される一因になっている。

     民主進歩党の基本綱領には、「台湾主権の現実に立って独立建国し、新憲法を制定することによって、法と政治の体系を台湾社会の現実に合わせると共に、国際法の原則に依拠して再び国際社会に復帰する」「国民主権の原理に基づいて、自主自立した主権を持つ台湾共和国を樹立する事と、新しい憲法を制定するとの主張を全台湾住民による公民投票によって決定すべきである」と、明確に書かれている。

     人民自決の権利は、国際法で確立された全人類の権利である。しかし、ある国の支配下に置かれている地域が、人民自決の権利を行使して新しい独立国家を創建する場合には、いろいろと困難が伴う。ところが台湾の場合、いかなる外部の国家にも支配されていない事実上の独立国家だから、国民投票で「台湾は我々台湾人民の主権独立国家であり、領土も中華人民共和国とは全く異なる国家である」事を確認するだけで、「台湾の法的地位未定」は解消して、台湾は国際社会に承認される資格を持つ主権独立国家になるのである。民進党は、2000年から2008年まで政権の座にあったにもかかわらず、基本綱領に定められた台湾共和国を樹立するために、国民に対して十分な説明さえ行なわなかった。そればかりか、民進党は「中華民国は主権独立国家である」と、全く国際社会で認められていない主張を行なうようになったのである。台湾には、中華民国と国交を締結している国が23か国存在することを、中華民国が主権独立国家であることの証拠として挙げる人々もいる。この23か国のGDP総額は、台湾のGDPの半額に過ぎない。もし、中国がその政治力と資金力を用いて、これらの国々を台湾と断交させようとすれば、簡単にできることであろう。しかし、中華民国を承認する国がなくなる事によって、台湾が国名を台湾共和国に改めてしまったら、中国の「台湾統一」の名分は失なわれ、それは侵略行為であることが明白になるので、中国はそのような手段を取らないだけのことだ。これらの23か国が中華民国を承認していても、台湾が国際社会で孤立している現状に変わりはないから、中国にとっては痛くも痒くもないのである。

      14、人民自決の権利は、全人類に認められた基本的人権である

    現在、世界で主権独立国家として承認されている193か国のうち、3分の2近くは第2次世界大戦後に独立した国々であり、その多くは台湾と同じように先進国の植民地であった。大戦後、植民地の独立は世界的な潮流となり、殆どの旧植民地が独立した。台湾は文化的にも経済的にも最も進歩した植民地の1つであったにもかかわらず、中華民国に占領されたために、台湾だけがこの大潮流から取り残されてしまったのである。

     1960年に国連総会が決議した植民地独立付与宣言は、第2項〔自決権〕を次のように定めている。 「全ての人民は、自決の権利を有する。この権利によって、全ての人民は、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する」

     1966年に国連総会が決議した国際人権規約は、第1条〔人民の自決の権利〕の第1項に、植民地独立付与宣言の〔自決権〕をそっくりそのまま採用している。人民の自決権は全人類の最も基本的な人権であることが、国際法によって規定されたのである。

     この国際人権規約は、台湾の立法院が決議し、馬英九総統が署名したことによって、2009年12月10日の国際人権デーに台湾の国内法となった。その2日後に馬英九総統は、「台湾の国民1人1人がこの法律を引用できるようになった。この法律は、他の法律よりも優先的に適用される」と述べた。

     台湾国民は、国際法だけでなく、国内法によっても、人民自決権を行使する権利を保障されたのだ。台湾国民がこの権利を行使して公民投票を行い、台湾共和国を創建して中華民国を廃棄することを決議すれば、台湾の人民自決は達成されるのである。

       15、台湾共和国の創建は、世界の利益と一致している

     人民の自決権は全人類に保障されるべき最も基本的な人権であるが、それが国際社会の利益に反する場合、その実現は容易でない。台湾の人民が自決権を行使して台湾共和国を創建することは、国際社会の利益と一致するのであろうか。

     人類にとって最大の災いは、大規模な戦争であろう。東アジアで戦争が起こり得る危険地帯として常に挙げられるのは、朝鮮半島と台湾海峡である。

     朝鮮半島が危険地帯とされるのは、「北朝鮮は何をしでかすかわからない不可解な国である」と思われているからであろう。北朝鮮は、韓国に対する非常識な攻撃を繰り返してきた。昨年(2010年)も、3月に北朝鮮の攻撃と思われる事件で韓国の哨戒艇が沈没して46人の死者を出したし、11月に北朝鮮は韓国の延坪島を砲撃した。もし、北朝鮮がソウルを砲撃したら、ソウルは壊滅すると言われており、核ミサイルで日本を攻撃する可能性も取り沙汰されている。しかし、北朝鮮の人口は韓国の2分の1で、北朝鮮の国内総生産(GDP)は韓国の40分の1もないと見られている。中国からオイルや食糧の援助がなければ、存続さえできない北朝鮮に大規模な戦争を続ける能力はない。しかし、「北朝鮮は何をやるかわからない」と恐れられており、「その暴発を阻止できるのは中国だけだ」と思われていることは、中国にとって好都合である。中国にとって北朝鮮は利用価値があり、しかも中国の唯一の属国であることを考えれば、中国が北朝鮮を大事に扱うことも理解できる。

     しかし、朝鮮半島と違って、台湾問題は間違いなく世界の重大問題である。もし、中国が台湾を支配下に置き、3千メートル級の高峰が連なる台湾の中央山脈に多数のミサイルを配置すれば、いかに強力な米国艦隊といえども南シナ海に出入りする自由を失い、南シナ海は完全に中国の内海にされてしまう。そうなれば、南シナ海に面した東南アジア諸国が中国の支配下に置かれるだけでなく、南シナ海のシーレーンを命綱とする日本など多くの東アジア・西太平洋の国々は、中国の実質的な属国にされる可能性が大きい。台湾を奪取すれば、中国は東アジア・西太平洋の覇者になり得るのである。従って、中国の台湾に対する武力行使の可能性は否定できない。もし、中国が東アジア・西太平洋の覇権を握れば、中国は世界で群を抜く超大国となり、米国の独立さえ脅かされることになる。そのような悲劇を避けるために、中国が台湾を攻撃した場合、米国と東アジア・西太平洋の国々は中国と戦わざるを得ないのである。

     では、どうすれば、台湾海峡の平和を守れるのであろうか。中国は「台湾は中国の領土であり、台湾が統一に応じなければ、武力行使も辞さない」と公言している。普通の国家に対してこのような威嚇を行なえば、侵略行為として世界から非難され、制裁を受けるであろう。中国のこのような非行が国際社会で黙認されているのは、台湾が主権独立国家として承認されず、国際社会で孤立しているからであり、また台湾を中国の領土と誤解している国が少なくないからである。台湾が他の国々と同じように世界の国々から承認されたら、台湾に対する武力行使は世界を敵にまわすことになるので、中国はそのような行動を取れなくなるであろう。台湾共和国の創建は、世界平和にも、東アジア・西太平洋の国々の独立維持にも、貢献することになるのだ。台湾共和国の創建は、中国を除く世界の国々と利益が一致しているのである。

     (続く)

      

    2011年8月15日月曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(10−12章)

    米国、中国との冷戦に突入(10−12章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

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       10、断交後の米国と台湾の関係を規定した台湾関係法

     ニクソン大統領は、緊密な米中関係を構築した。正式な米中国交の締結は大統領に再選された後で行なう予定であったが、ニクソン大統領はウォーターゲート事件で1974年に辞任したので、この目的は果たせなかった。中国と正式に国交を締結したのは、ジミーカーター大統領である。1979年1月1日、米中国交が樹立され、米国は中華民国と断交して、米華防衛条約も1年後に失効することになった。

     カーター政権は、断交後の台湾との関係についてあまり配慮していなかった。その後の米台関係を規定したのは、米議会が制定した台湾関係法である。蒋経国政権は、突然米中国交を宣言したカーター政権の裏切りを非難するだけであったが、米上下両院の有力議員たちと数人の在米台湾独立運動の指導者たちの協力によって、台湾関係法が制定されたのである。この台湾関係法は、1979年4月に制定されたが、1月1日にさかのぼって施行された。

     台湾関係法によってそれまで台湾に適用されていた米国の法律は、従来どおり適用されることが定められた。台湾関係法には、次のような条項が含まれている。

     「同地域の平和と安定は、合衆国の政治、安全保障および経済的利益に合致し、国際的な関心事でもあることを宣言する」  「平和手段以外によって台湾の将来を決定しようとする試みは、ボイコット、封鎖を含むいかなるものであれ、西太平洋地域の平和と安全に対する脅威であり、合衆国の重大関心事と考える」  「防衛的な性格の兵器を台湾に供給する」  「台湾人民の安全または社会、経済に危害を与えるいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗し得る合衆国の能力を維持する」  「本法律に含まれるいかなる条項も、人権、特に約1、800万人の台湾全住民の人権に対する合衆国の利益に反してはならない。台湾のすべての人民の人権の維持と向上が、合衆国の目標であることを、ここに改めて宣言する」

    この台湾関係法によって、米華防衛条約失効後も従来どおり、米国が台湾防衛に協力することが明確に規定された。「台湾人民の人権の維持と向上」が強調されているのは、台湾独立運動者の希望が受け入れられたからである。

     台湾関係法は、澎湖島を含む台湾に適用されるのであって、もともと中国の領土である金門・馬祖には適用されないことが明記されている。台湾関係法は、台湾統治当局(中華民国政府のこと)とその継承者にも適用されると規定されている。この「継承者」というのは、台湾共和国が創建された時のことを想定しているのだ。もちろん、これも独立運動者の希望によって加えられた条項である。

       11、蒋政権による最後の大弾圧

     1970年代になると、台湾の商人は台湾製品を売り込むために世界中を飛びまわっていた。輸出品の製造で急成長を遂げつつあった台湾企業は、必要な機材と部品の輸入や技術面での協力を求めて、外国企業、特に日本企業との関係を深めた。会社の出張の名目で、海外観光旅行に出かける台湾人も少なくなかった。よほどのことがなければ、出国できなかった時代とは様変わりである

     米国に断交されたショックをやわらげる意味もあったのか、蒋政権は1979年1月1日に国民の海外旅行を自由化した。台湾の民主化運動の指導者たちは、アメリカや日本などを訪れて、台湾独立運動の指導者たちとの関係を深めた。自由で民主的な国々の実情を見た台湾民主化運動の指導者たちは、蒋政権の独裁政治の異常さを肌で感じとり、台湾の民主化運動を強化することを決意した。

     1979年9月、台湾各地の有力な民主化運動の指導者たちが集まって、美麗島雑誌社を創設し、月刊『美麗島』誌を創刊した。自由と民主主義、法治の確立と人権尊重を要求する同誌は、創刊号から大反響を呼び、参加者が急増して台湾各地に美麗島支社が設立された。

     民主化運動の急速な高まりに脅威を感じた蒋経国は、大弾圧を決意する。1979年12月10日、美麗島雑誌社は高雄市で国際人権デー記念集会を開催しようとした。蒋政権は、暴動鎮圧隊と憲兵隊を動員して、この集会に集まってきた人々を追い散らし、その直後に美麗島社のメンバーを中心に151人を逮捕した。その中で最も重要な人物と見なされた8人は、軍事裁判にかけられて、懲役12年から無期の判決を受けた。

     蒋政権によって3万人とも言われる台湾人が殺戮された2・28事件の33周年に当たる1980年2月28日、美麗島事件で逮捕されて軍事裁判にかけられていた林義雄弁護士の自宅で、彼の母親と6歳の双子の女児の3人が刃物で殺害され、9歳の長女もめった斬りにされて瀕死の重傷を負った。特務機関の厳重な監視下にあった重要政治犯の自宅で行なわれた犯行あり、しかも2・28事件記念日にこの残忍な殺人が行なわれたのだから、民主化運動に対する警告であることは明白であった。もちろん、この種の犯行がそうであったように、この犯人も不明ということにされた。

     続いて4月24日、早くから台湾の民主化を主張してきた台湾キリスト長老教会の総幹事、高俊明牧師以下10人が逮捕された。外国からの批判を恐れて、国際的な宗教団体である長老教会の弾圧を躊躇してきた蒋経国が,遂に長老教会の弾圧に踏み切ったのである。高牧師らも軍事裁判にかけられて、判決は懲役2年から7年で、高牧師は7年だった。

      蒋経国は、これだけの大弾圧を行なえば、2・28事件の後のように、台湾人はおとなしくなると思ったのであろう。しかし、今回は違った。国際的な批判も強く、普通は秘密裁判の軍事裁判を公開せざるを得なかった。外国人記者なども見守る中で、被告たちは堂々と自分たちの正当性を主張し、蒋政権の独裁政治を批判した。彼等を弁護した弁護士を初めとして、多くの台湾人が民主化運動に参加し、民主化運動はむしろ加速した。

     21年後の2000年、民主的な選挙によって、総統・副総統に民主進歩党の陳水扁と呂秀蓮が選出されたが、陳水扁は美麗島事件裁判の弁護士の1人であり、呂秀蓮は同事件で懲役12年の判決を受けた被告であった。大弾圧が民主化運動を鎮静化するどころか、逆に民主化運動を促進する結果を招いたので、蒋政権による大弾圧はこれが最後になったのである。

       12、李登輝総統時代の台湾の民主化

    1986年9月28日、台湾各地の民主化運動の指導者たち135人が発起人となって、民主進歩党が結成された。戒厳令下で新しい政党の結成は禁止されていたから、発起人たちは逮捕されることを覚悟して民進党を結成したのである。しかし、彼等を逮捕すれば、台湾全土で抗議運動が起こり、政権が危機に立たされることは目に見えていたから、蒋経国は弾圧に踏み切れなかった。

     この年の5月20日には、米国のエドワード・ケネディー、クレイボン・ペルなど有力な上下議員5人が台湾民主化促進委員会を結成して、蒋政権に対して①戒厳令の解除 ②国会の全面改選 ③総統を国民の直接選挙で選出すること、を要求した。6月25日には、米下院の委員会が、①新党結成の容認 ②検閲の廃止、言論・出版・集会の自由の保障③議会民主制を実現すること、を要求する「台湾民主化決議案」を採択した。

     このような米国からの圧力があり、民主進歩党の結成で戒厳令が無視されたこともあったので、蒋経国は1987年7月15日に38年間施行されてきた戒厳令を解除した。その半年後の1988年1月13日、蒋経国総統は心臓病で急死し、副総統だった李登輝が総統に昇格した。台湾の歴史で初めて台湾人が政治のトップの座についたのだから、台湾人は大喜びであった。しかし、李登輝総統には何の権力もなかった。蒋経国の後を継ぐ独裁者はいなかったが、中国人の実力者たちが権力を分担したのである。だから李登輝総統は、「ロボット総統」と呼ばれていた。

     2006年に李登輝元総統と対談を行なった時、私は当時のことを聞いた。李先生の回答は次のようなものだった。

     「蒋経国が死んで副総統だった私が後を継いだが、本当にロボット総統だった。私は何ひとつ権力を持っていなかったんだ。自分が座っている椅子にさえ、しっかり座れないんだ」と言って、李先生は椅子の上で体をゆらせて見せた。そして、李先生はこう続けられた。「蒋経国が死んで以来、国民党の元老たちが、政治の実権を握っていた。どうやって、彼等と一緒にやって行くか、軍隊や情報機関(=特務機関)、警察にどう対処するか。1990年3月に総統に選出されるまでの2年2か月は、もっぱらそういうことに時間を費やしたよ」

     この対談は、2006年に東京の自由社で発行された『存亡の危機に瀕した台湾──中国は台湾を併合すれば、日本を属国にする』(中文訳は台北市の前衛出版刊『瀕臨危急存亡的台湾』)に掲載されているで、詳しく知りたい人は、それを読んでいただきたい。

      蒋経国の後を継いだ李登輝総統の任期は1990年5月に切れるので、その前に次の総統を決定しなければならなかった。蒋介石、蒋経国の時代は、国民党中央委員会が蒋介石、蒋経国を総統候補に決め、国民大会が彼等を総統に選出する形式がとられていた。

     しかし、1990年の総統選挙では、国民党指導部の意見が割れた。李総統に対する台湾人の熱烈な支持を無視することはできず、2月11日に中国国民党中央委員会は、李登輝総統を次期総統候補に決定した。しかし、752人の国民代表のうち中国で選出された万年議員が大多数を占める国民大会では、中国人を総統に選出しようとする動きがあった。

     このことを知った国立台湾大学の学生たちは、3月14日に「国民大会が総統を選出することに反対する運動」を始めた。2・28事件以後、台湾で初めての学生運動であった。民進党も、国民大会が勝手な決定を行なうことに反対し、李登輝総統を支持する集会の開催を呼びかけた。3月18日には総統府に近い中正記念堂広場に、2万人を超える学生や市民が集まり、夜も5千人ほどの学生などが泊まり込みで活動を続けた。この集会で彼等は、次の3項目を要求することを決定した。

    ①国民大会の廃止 ②憲法の施行を実質的に停止している動員戡乱時期臨時条款の廃止 ③政治の民主化改革を検討するための国是会議の開催。

     動員戡乱時期臨時条款というのは、中国共産党の叛乱を鎮圧するまで、中華民国憲法の施行を実質的に停止するために決定された臨時条例である。中華民国憲法は民主的な憲法であり、1947年12月25日に施行されたが、1948年5月10日にこの臨時条款が決定されたので、この憲法によって行なわれたのは国民大会代表と立法委員の選挙ぐらいのものであった。それも内戦下の中国で、国民党の支配地域だけで行なわれた選挙だから、国民党中心の選挙であった。

    国民大会の廃止を要求する大集会が連日開かれているのを見て、国民大会は李総統に反対できなくなり、3月31日に李登輝総統を次期総統に選出した。5月20日、李登輝総統は再び総統(任期6年)に就任した。国民党によって選出された総統であったが、台湾人の圧倒的な支持を背景にして選出されたので、李登輝総統は総統らしい力をかなり発揮できるようになった。

     李登輝総統は、各界から選抜したメンバーを招集して、6月28日から7月4日まで国是会議を開催した。1,455人が参加したこの国是会議で、万年議員を廃止して、国民の選挙で総統と立法委員、国民大会代表を選出することや、動員戡乱時期臨時条款を廃止して、憲法を条文通り施行することなど、民主改革の方針が決定された。3月に学生たちが始めた大衆集会の要求は、全て受け入れられたのである。

     この後も、いろいろ民主化を要求する大衆運動が次々に展開された。言論・出版・集会などが自由になり、民主化を要求しただけで投獄された時代の反動もあって、デモや集会に驚くほど多数の人々が集まった。このような国民の要求を背景に、李登輝総統は次々に民主化改革を断行した。

     1991年5月に動員戡乱時期臨時条款が廃止され、12月に万年議員(立法委員80人、国民大会代表469人)は総退職させられて、国民の投票で国民大会代表が選出された。当選者は、国民党254人、民進党66人であった。

     1992年5月、台湾独立を主張するだけで叛乱罪に該当すると定めた刑法100条が改正されて、台湾独立を主張する自由が認められた。この刑法改正によって、投獄されていた台湾独立建国聯盟の幹部などはただちに釈放された。

     1992年12月、立法院の総選挙が行われ、国民党員102人、民進党員50人、その他9人が当選した。

     1996年3月、国民の直接選挙で総統(任期4年)が選出された。立候補したのは4人であったが、得票率は、国民党の李登輝が54パーセント、台湾独立聯盟の主席を務めたこともある民進党の彭明敏21.1パーセント、国民党を脱党して無所属で立候補した林洋港14.9パーセント、無所属の陳履安10パーセントであった。

    李登輝総統は、国民党主席でもあったが、「中華民国政府は中国の正統政府である」という虚構を放棄して、中華民国の台湾化を推進したので、国民は彼を「台湾独立派」と見ていた。それで、彭明敏の得票を合わせて「台湾独立派が75パーセントを得票した」と言われたのである。

     総統(大統領)と国会議員が民主的な国民の直接選挙で選出されたのを見て、国際社会は「台湾は民主主義国家になった」と評価するようなった。2000年の総統選挙では、李登輝総統が立候補しなかったので、国民党は副総統だった連戦を総統候補に立てたが、国民党の実力者だった宋楚瑜が脱党して無所属で立候補したために、民進党の陳水扁が39.3パーセントの得票率で総統に当選、宋楚瑜は36.8パーセントの得票で2位、連戦は23.1パーセントで3位に終わった。

     1945年に日本の敗戦で蒋介石政権が台湾を占領して以来、55年ぶりで中国国民党は台湾の支配権を失なったのである。連戦・国民党主席は、李登輝を国民党から除名し、民進党と協力して台湾の民主化を推進してきた李登輝派の国会議員を国民党の指導部から排除した。

    (続く)

      

    2011年8月14日日曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(5−9章)

    米国、中国との冷戦に突入(5−9章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

     5、ニクソン大統領、「中国封じ込め政策」を180度転換   1950年6月25日、ソビエト連邦の援助で軍事力を増強した北朝鮮は、韓国の併合を目指して戦争を開始した。韓国軍は殆ど抵抗する力がなく、南方に敗走した。6月27日、国際連合は韓国を支援して北朝鮮軍を撃退する勧告を採択した。ソビエト連邦は、前年10月1日に建国した中華人民共和国を安保理常任理事国として国連に加盟させ、中華民国を国連から追放する提案が否決されたことに抗議して、国連代表を欠席させていたために、この韓国支援案に対して拒否権を行使できなかったのである。米軍を主力とする国連軍が朝鮮半島に上陸すると、今度は北朝鮮軍が敗走して、中国との国境近くまで追いつめられた。10月25日、北朝鮮軍を助けるために中国軍が参戦し、国連軍と中国・北朝鮮軍の戦争は熾烈をきわめたが、1953年7月23日に休戦協定が成立した。

     朝鮮戦争で中国軍と戦って多数の戦死傷者を出した米国は、「中国封じ込め政策」を採用し、中国の国連加盟を阻止するために、中華民国の国連安全保障理事会常任理事国の地位を擁護した。国連軍と戦った中国を安保理常任理事国として国連に加盟させることには反対も多かったが、中国大陸の寸土も支配していない中華民国が国連で中国を代表する地位を占めているのは明らかに異常であった。

     1960年代の後半になると、米国はベトナム戦争の泥沼にはまり込んでおり、米国の世論はベトナムからの撤退を強く要求していた。1969年1月、ベトナム戦争からの撤退を公約して当選したリチャード・ニクソンが米大統領に就任した。ベトナムに派遣された米軍は増強を重ね、当時は549、500人に達していた。ニクソン大統領は米軍を次第に撤退させたが、全米軍を南ベトナムから撤退させてしまうと、すぐに首都サイゴンまで北ベトナム軍に占領されてしまい、「米軍は負けて逃げた」と嘲笑されることになる。米国の名誉を守って米軍を撤退させるためには、北ベトナムとの休戦協定が必要であった。しかし、勝利を目前にしている北ベトナムが、休戦協定に応じる訳はない。そこでニクソン大統領が考えたのは、中国の力を借りることであった。ベトナムの制海権も制空権も米軍が握っていたから、社会主義諸国からの援助は殆ど中国を通じて陸路で運ばれており、この援助なしには北ベトナムは戦争を続けられなかったからである。中国の協力を得られるように米中関係を改善するためには、「中国封じ込め政策」を転換する事が必要であった。この政策の大転換を決意したニクソン大統領は、ヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を中国に派遣したのである。

      6、まことに不思議な周恩来とキッシンジャーの外交交渉

     1971年7月9日、極秘に訪中したキッシンジャーは、7月11日までに中国の周恩来総理と4回会談を行なった。この会談は、どのような状況下で行なわれたのであろうか。

     当時の世界は、米国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦を中心とする社会主義陣営の冷戦が、第2次世界大戦直後から続いていた。建国直後の中国はソ連邦を兄貴分と仰いでいたが、その後次第に両国の対立が深まり、1969年には国境地帯で中国軍とソ連軍が戦争まで行なっている。世界の2超大国であった米国とソ連の双方を敵にまわした中国は、非常に苦しい情況に置かれていたのである。そればかりではない。毛沢東が1966年に始めた文化大革命によって、中国は内乱状態であった。毛沢東の後継者と定められていた林彪元帥は、毛沢東との対立が深まり、1971年9月13日に軍用機で国外に逃亡する途中、モンゴルの砂漠で墜死した。キッシンジャーは1971年10月20日から29日まで2回目の訪中を行ったが、この事件が起きたのはキッシンジャーの1回目と2回目の訪中の間のことであった。まさしく中国は、存亡の危機に立たされていたのである。

     中国がこのような苦しい情況におかれていた時、米国の方から中国に接近してきたのだから、毛沢東も周恩来も救われた思いであったろう。しかし、本音を隠して交渉することが巧妙な彼等は、決してキッシンジャーにそのような様子を見せなかった。周恩来とキッシンジャーの会談録は、2001年に機密解除され、その日本語訳は『周恩来・キッシンジャー機密会談録』と題して2004年に東京の岩波書店から出版されているので、この本によって2人の交渉を見ることにしよう。

     1971年7月9日に行なわれた最初の会談で、キッシンジャーが「遠くない将来、大統領自身が北京を訪れる事を熱烈に待ち望んでおります」と言ったのを、周恩来は「そのご希望は私たちが意見を交換することによって実現されるだろうと信じています」と、軽く受け流した。そして周恩来は、「第1の問題は台湾問題です」と前置きして、米国が「台湾の地位は未定」という立場をとっていることを非難し、「もし、この肝心な問題が解決されなければ、すべての問題は解決困難になるでしょう」と、米国に従来の方針を転換することを迫った。この年の4月28日にも米国務省のスポークスマンが「台湾の法的地位は未定である」と語ったばかりであったが、キッシンジャーは「今後、米国は台湾の地位未定に言及しない」ことを約束した。この後の会談でも周恩来は、米国が「台湾の地位未定」に言及せぬよう繰り返し念を押している。この約束が、中華民国を国連から追放することになり、台湾を国際社会から孤立させて、今だに台湾問題を未解決のままで放置する原因になったのである。

     初日の会談で周恩来が次に問題にしたのは、台湾独立運動と米国政府の関係であった。「台湾人のですね。我々はこれを支持しません」と、キッシンジャーは台湾人の独立運動を支持しないと言明したが、周恩来は米国政府の一部が台湾独立運動を支持しているのではないかと疑い、「蒋介石が、彭明敏を台湾から逃がしたのはCIAだと大いに文句を言っているのを御存知ありませんか?」と訊ねた。

     台湾大学教授であった彭明敏博士は、1964年に2人の教え子と秘密裏に「台湾自救宣言」を書いて印刷したために叛乱罪で投獄された。しかし、国際的な圧力で仮釈放されて自宅軟禁下におかれていた彭明敏博士は、1970年1月3日、秘密裏に台湾を脱出してスウェーデンに亡命し、9月には米国への入国を認められて、ミシガン大学の客員教授に就任していた。米国でも蒋介石政権の恐怖政治は批判されていたので、米国政府の一部が台湾に民主的政権を樹立しようと策し、そのリーダーとするために彭明敏博士をCIA(米中央情報局)が逃亡させたのではないか、と蒋介石も周恩来も疑ったのである。

     2回目の会談で周恩来は、中国の米国に対する要求を次々に並べた。そして周恩来は、「私たちの間にある問題はとにかく台湾問題です。ほかの問題もありますが、台湾が両者の間の唯一の問題です」と言って、キッシンジャーに回答を要求した。

    キッシンジャーは、彼の要求を次の5項目に整理した。

    ①中華人民共和国を中国の唯一の正当な政府として認めること。②台湾が中国に属することを認めること。③我々が「2つの中国」や「1つの中国、1つの台湾」を支持しないという前提を受け入れること。④台湾独立運動を支持しないこと。⑤今後は決して「台湾の法的地位は未定だ」と言わないこと。

     そしてキッシンジャーは、①はニクソン大統領の再選を待たねばならないが、他の4つは近い将来に実現できると思うと答えて、「台湾は中国の領土であるということですが、他の3点から自ずから出てくることでしょう」と説明した。キッシンジャーは周恩来の要求を丸呑みにしたのであり、これでは「台湾を中国に売り渡す」と言ったに等しい。

    キッシンジャーの周恩来に対する要求は、北ベトナムに休戦協定を受け入れさせることだけである。休戦協定が成立すれば、米軍は一応「名誉ある撤退」を実現できるが、米軍が南ベトナムから引き揚げてしまえば、北ベトナムが何時まで休戦協定を守るか、なんの保障もなかった。米国にとって、米ソ冷戦の中で中国を米国側に引き入れる利点はあったが、2超大国を敵にまわして窮地に立たされていた中国にとって、米国と和解できる利益の方がはるかに大きい。しかも当時の中国は、大量の餓死者を出すほど、経済的に貧窮していたのである。

     一般に外交は、軍事力を中心とする国力と国際情勢を背景に行なわれるから、米国は中国より段違いに有利な立場で外交ができたはずである。しかし、周恩来とキッシンジャーの交渉では、周恩来が非常に有利な立場に立って交渉したかのように見える。まるで立場が逆転しているのである。このようなキッシンジャーが「バランス・オブ・パワーを重視する合理主義者」と評価されたことは、まことに不思議に思われる。

      7、ニクソン政権の大失敗で、台湾問題を解決する絶好機が失われた

     1971年7月15日、米国政府の公告で、キッシンジャー大統領特別補佐官が訪中して中国の周恩来総理と会談を行なった事と、1972年5月以前にニクソン大統領が訪中して両国関係の正常化などについて協議する事が発表された。

     朝鮮戦争以来、20年間も続けられてきた米国の「中国封じ込め政策」が180度転換されたのである。この突然の発表に、世界が大衝撃を受けた。「ニクソン・ショック」である。最大のショックを受けたのは、台湾の蒋介石政権であった。米国の政策転換によって、この秋の国連総会で中国の国連加盟が実現することは明白になった。前年11月に国連総会は、「中華民国に代わって中華人民共和国を安全保障理事会常任理事国として国連に加盟させ、中華民国は国連から追放する」アルバニア決議案を、賛成51票、反対49票、棄権25票で決議した。初めてアルバニア決議案が国連総会で多数を獲得したのであるが、その前にこの決議案を「重要事項」に指定する決議案が過半数で可決されていた。「重要事項」に指定された決議案の可決には3分の2の多数が必要なので、アルバニア決案は否決されたのである。しかし、ニクソン・ショックによって、今秋の国連総会で「重要事項」指定案を通すことは不可能となり、アルバニア決議案が可決されることは明らかであった。

     この決議案はアルバニアが中心になって国連に提出したので、「アルバニア決議案」と呼ばれたが、実際は中国の周恩来総理が執筆したもので、中華人民共和国の加盟と同時に中華民国を国連から追放する事を目的としていた。

     このアルバニア決議案には、「中華人民共和国の代表が、国際連合における中国の唯一の合法的代表であり、蒋介石の代表を国際連合および全ての国際連合関係機関から即時追放する」と書かれていた。国連憲章で「中華民国は安全保障理事会の常任理事国である」と規定されており、国連加盟国の除名には安全保障理事会の勧告が必要である。「中華民国を除名する」と書けば、当事国の中華民国は採決に参加できないが、米国が安保理で拒否権を行使すれば、この決議案は葬られてしまう。だから周恩来は、「蒋介石の代表を追放する」と書いたのである。各国の国連代表の多くは、中国代表権問題をもっぱら「中国を代表するのは中華民国か中華人民共和国か」としか考えず、台湾の代表権がどうなるのかということまでは考えていなかった。

     「蒋介石の代表を追放する」という文章には、「中華民国は中国大陸の領土を失った時点で滅亡したのであり、台湾の法的地位は未定である」という意味が含まれていた。なぜなら、もし台湾が中華民国の領土であれば、中華民国は主権独立国家に必要な領土と人民と政府を持っていることになる。しかし、台湾は中華民国の領土ではないから、中華民国と称しているのは蒋介石を首領とする亡命集団に過ぎないという意味である。

     キッシンジャーが2回目に訪中した時、1971年10月21日の会談で周恩来は、「この決議案の下では、台湾の地位に関する条項を挿入することは不可能です。もしこれが通れば、台湾の地位は未定ということになります。もちろん、アルバニア決議案を支持する国々は、このような側面について考えたことはないでしょう」と語っている。「台湾の地位に関する条項を挿入することは不可能」というのは、もし「台湾は中華人民共和国の領土である」と書けば、台湾の帰属が問題にされて、台湾の地位は未定であることが明らかになってしまうからである。だからこそ周恩来は、「台湾の地位未定」に言及しないことを米国に固く約束させたのだ。続いて中国は、日本など、「台湾の地位未定」を、主張しそうな国々にも同じ約束をさせたのである。国連総会では、「台湾の地位未定」を主張した国はなかったので、周恩来が予想したとおり、殆どの国連代表は「台湾の地位未定」に気づかなかった。

    キッシンジャーは、周恩来の「2つの中国」や「1つの中国、1つの台湾」を支持するなと言う要求を受け入れて、中華民国の国連からの追放に協力したが、1971年8月2日に米国のロジャーズ国務長官は「中国が安保理常任理事国として国連に加盟することは支持するが、中華民国は一般議席に残す」という米国の新しい方針を発表した。大統領特別補佐官と国務省の立場が対立したのである。米国政府は20年間も中華民国の安保理常任理事国の地位を擁護してきたのだから、国務省としては中華民国を一般議席からまで追放することには賛成できなかったのであろう。しかし、米国政府の内部で対立が起きていたのだから、中華民国を国連に残すために十分な努力が行なわれたとは思えない。ロジャーズ国務長官の発言の翌8月3日、蒋介石政権はこの米国の新方針に賛成する旨を国務省に伝えたと言われている。

     蒋介石政権の周書楷外相は、国連総会に出席するために台湾を出発する前の9月13日、蒋政権の幹部たちを集めた会合で、政府の新しい方針を説明して、「国連総会に残ることが重要であり、総会に残れば、北京は入って来ないかもしれないし、例え北京が国連に加盟したとしても、我々は総会にとどまる事が必要だ」と語った。9月14日の台湾の新聞『中国時報』は、社説で「安全保障理事会の議席の得失は、絶対に重要と言うものではない。重要な事は、我々が国連の議席を剥奪されないことだ」と書いた。同じく『聯合報』は、9月15日の社説で「国連は我々にとって非常に重要な財産であり、固守するに値する陣地である。例え、国連を軽々しく脱退したところで、第2の国連を探し出すことはできないのである」と書いた。台湾のマスコミは完全に蒋政権の支配下におかれていたから、これらは蒋政権の意志を代弁したものである。

    もし、米国の国連代表が、「台湾の法的地位は未定だから、中華人民共和国は国連で台湾を代表することはできない。台湾は中華民国の領土ではないが、蒋介石政権は台湾を統治しているのだから、台湾代表として中華民国を一般議席に残すべきである」と主張していたら、国連代表の多数の支持を得られたことであろう。しかし、米国政府は「台湾の法的地位未定」について言及しないと約束していたから、やむを得ず、中華民国の追放を「重要事項」に指定する決議案を出した。しかし、蒋介石政権は中国を追われた後も一貫して「中国大陸は中華民国の領土であり、中国の正当な代表は中華民国である」と主張してきたし、この国連総会でも蒋政権の代表は「中華民国は台湾代表として国連の一般議席に残りたい」と言わなかったので、中華民国を一般議席に残す重要性を理解していない国連代表が多かった。その結果、1971年10月25日、米国が提出した中華民国の追放を「重要事項」に指定する提案は、賛成55票、反対59票、棄権15票で否決された。これでアルバニア決議案が可決されることは確実になったので、蒋政権の代表は退場して、「中華民国は国連から脱退する」と語った。米国の「重要事項」指定案が否決されたのに続いてアルバニア決議案が票決され、賛成76票、反対35票、棄権17票で可決された。周恩来の目的は達成されたのだ。そのために、台湾は国際社会で孤立し、中国は「武力を用いても台湾を統一する」と公然と主張し続けることになり、大戦を招きかねない重大問題として台湾問題が残存することになったのである。

     もし、中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟し、中華民国が一般議席に残っていたら、中国と台湾は別の国家であることが国際社会で公認されたことになり、この時に台湾問題は解決されていたのである。しかも、それは決して困難なことではなかった。

     ニクソン政権が真剣に台湾問題の解決を考えていたら、中国に対して「台湾の地位未定」に言及しないと約束することはなかったであろうし、キッシンジャーを国連総会後に訪中させても良かったのだ。そして米国代表が国連総会で「中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟する事を支持する。しかし、台湾の法的地位は未定であり、中華人民共和国は台湾を代表できないから、現実に台湾を統治している中華民国が一般議席に残る事を支持する」と述べていれば、文句なしに大多数の国連代表の支持を得られたことであろう。

       8、ニクソン大統領が台湾を犠牲にして得たベトナム和平協定は、二年間で破棄された

     1972年2月、ニクソン大統領はキッシンジャーを伴なって訪中し、毛沢東主席と会見した後、周恩来総理と5回会談を行なった。2月28日に発表された米中共同声明には、次のように書かれている。

       中国側は、次のように自己の立場を重ねて明らかにした。台湾問題は、中米両国関係の正常化を妨げているカギとなる問題である。中華人民共和国政府は、中国の唯一の合法政府である。台湾は中国の1つの省であり、早くから祖国に返還されている。

          台湾の解放は中国の内政問題であって、他国には干渉する権利がない。米国のすべての武装力と軍事施設は、台湾から撤去されなければならない。中国政府は、「1つの中国、1つの台湾」、「1つの中国、2つの政府」、「2つの中国」、「台湾独立」を作ること、「台湾帰属未定」を鼓吹することを目的とするいかなる活動にも断固反対する。

       米国側は、次のことを声明した。米国は、台湾海峡両岸のすべての中国人が皆、中国はただ1つであり、台湾は中国の1部であると考えていることを認識した。米国政府は、この立場に異議を申し立てない。米国政府は、中国人自身による台湾問題の平和的解決に対する米国政府の関心を重ねて明らかにする。

    この展望に立って、米国政府は、台湾からすべての米国の武装力と軍事施設を撤去する最終目的を確認する。

     蒋介石政権は、「中国大陸は中華民国の領土であり、台湾はその1部である」と主張していたから、米国政府の「認識」は誤りとはいえないが、それは蒋政権と一緒に台湾に逃がれてきた中国人の立場であり、台湾の人口の87パーセントを占める台湾人の立場はここに書かれていない。しかし、その事実を知らない世界の人々は、「台湾住民はみな台湾は中国の1部であると考えている」と誤解したであろう。4か月前の国連決議に加えて、この米中共同声明が発表されたことで、世界の人々はますます「台湾は中国の1部である」と信じるようになったのである。

    ニクソン大統領の訪中で、遠からずベトナム休戦が実現すると予想されるようになったこともあり、1972年11月の大統領選挙では、ニクソンが大差で再選された。「米国と和平協定を締結せよ」という中国の圧力に、北ベトナムは「溺れかかっている敵に浮き袋を投げてやるようなものだ」と不満を言いながらも、1973年1月27日に和平協定が成立した。ニクソン大統領は、ベトナム戦争の終結を宣言して、残っていた米軍部隊を南ベトナムから撤退させた。しかし、1975年3月、北ベトナムは和平協定を破って南ベトナムに大攻勢をかけ、4月30日に南ベトナム政府は無条件降伏した。ニクソン政権が中国に大きな代償を払って得た和平協定であったが、北ベトナムによる南ベトナムの占領は、わずか2年間延期されただけに過ぎなかったのである。

       9、中華民国の国連からの追放は、台湾独立運動にも大打撃を与えた

     米国が突然、「中国封じ込め政策」から親中国政策に転換した結果、中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟したばかりか、中華民国は国連の一般議席まで失なってしまった。これまで米国に同調して中華民国を承認していた国々は、次々と中華人民共和国と国交を結び、中華民国と断交した。国際社会では主権独立国家と見なされなくなって孤立した蒋介石政権は、国内では権力を守るために恐怖政治を強化した。蒋政権は、国際社会では全く通用しない「中華民国は中国を代表する国家である」という虚構を国民に押しつけ、政府に対して批判的な人々を弾圧した。

     これまでよりいっそう苦しい立場に立たされたのは、台湾で民主化運動を行なっている人々だけでなく、海外で台湾独立運動を行なっている人々も同じであった。台湾独立運動の目的は、中国国民党による1党独裁制度である中華民国体制を倒して、台湾に自由で民主的な台湾共和国を創建することだから、台湾独立運動も民主化運動である。

     台湾独立運動者は、次のような理由により、短期間で目的を達成できると考えていた。台湾しか支配していない中華民国が国連で中国を代表している異常事態は長続きするはずがない。中華人民共和国が中国代表として国連に加盟する時、中華民国は一般議席に残されるであろうから、蒋介石政権といえども、台湾の政権であることを認めざるを得なくなる。そうなると、蒋政権と一緒に中国から台湾へ逃れてきた国会議員(立法委員と国民大会代表)を、中国の選挙区を回復するまで改選を延期すると言う理由を押し通す事はできなくなり、台湾で国会議員の全面改選を行なわざるを得なくなる。その結果、人口の13パーセントしか占めていない中国人が、87パーセントの台湾人を支配する中華民国体制は崩壊して、台湾の民主化を実現できる。

     台湾独立運動を短期勝負と考えていた証拠として、日本の台湾青年独立聯盟(1960年に台湾青年社として発足、現在の台湾独立建国聯盟日本本部)の執行委員会が、「まだ結婚していない者は、台湾独立を達成するまで結婚せず、子供も作らない。独立運動に割く時間を奪われるような職業にも就かない」という申し合わせをしたことが挙げられる。 1968年3月、連盟の執行委員だった柳文卿が「留学生として認められた日本滞在期限が切れた」という名目で台湾に強制送還された時、彼と同棲していた女性と幼児までいたことがわかったのだ。柳文卿は執行委員会の申し合わせがあったために、親友にさえこの事を話せなかったのである。

     1960年代に日本、米国、西欧、カナダなどで台湾人留学生によって台湾独立運動が組織された。当時の台湾人留学生の多くは、一般的な留学生のイメージとほど遠い。留学生に対する台湾の家族などからの送金は一切禁止されていた。だから、留学を希望する台湾の若者はあらゆる自由主義諸国の大学の奨学金を申請した。大学か専門学校を卒業して、男性の場合は兵役をすませ、留学試験に合格した者に留学資格が与えられたが、大多数は大学卒だったので、彼等は大学院に留学し、奨学金を得られなかった者は、皿洗いなどのアルバイトをしながら、修士号や博士号を取得したのである。若い知識人の場合、何時、どんな理由で政治犯として投獄されるかわからなかったで、「格子なき牢獄」と言われた台湾から脱出するため、留学に殺到したのだ。蒋政権から留学費用や生活費まで貰って留学した者もいたが、彼等は台湾独立運動など反蒋政権活動を行なう留学生を監視し、特務機関に報告することを義務づけられていたので、「特務留学生」と呼ばれていた。

         日本の台湾青年会(台湾青年独立連盟と改称する前の名称)にも、特務留学生がもぐり込んでいたことがある。1964年7月、その特務を訊問したことが監禁強要罪に問われて、黄昭堂委員長以下7人の幹部が警視庁に逮捕され、26日間拘留されたが、執行猶予つきの軽い刑ですんだ。

     1967年8月、台湾青年独立連盟の幹部2人が「留学生としての滞在期間が切れた」という理由で、入国管理局に収容されて台湾への強制退去処分を命じられたことがある。この時は東京地方裁判所が「強制送還の執行停止」を命じたので、2人は釈放された。蒋介石政権と日本の法務省との取り引きによって、こんな事件が起きたのである。台湾から日本に麻薬を持ち込んで逮捕された者たちは、刑期を終えた後も蒋政権が引き取らなかったので、法務省は困っていた。蒋政権は「もし、台湾独立運動者を強制送還するなら、麻薬犯も引き取る」という条件を出したのだ。そこで法務省は2人を強制送還しようとしたが、裁判所に強制送還を停止されたので、柳文卿の場合は裁判所に介入する時間を与えないために、夕方に拘置した柳文卿を翌朝9時30分発の中華航空機で台湾へ強制送還したのである。この時は裁判所がすぐ強制送還の執行停止命令を出すことがわかっていたので、その時間を稼ぐために黄昭堂委員長以下10人が羽田空港の滑走路に入り、柳文卿を中華航空機に乗せることを阻止しようとしたが、10人とも空港警察に逮捕されてしまった。この時は、法務省のやり方に対する世論の批判が強く、10人は3日間で釈放された。この強制送還は、その後の裁判で「政治犯不引き渡しの原則」を犯す重大な国際法違反であることが問題になったこともあり、その後、日本で台湾独立運動者が強制送還されることはなかった。

     1971年に中華民国が国連から追放された後は、台湾独立運動者たちは独立運動が長期戦になったと判断して、体勢を立て直したのである。

    (続く)

      

    2011年8月13日土曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(3−4章)

    米国、中国との冷戦に突入(3−4章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

      3、台湾の国際的孤立は、世界最大の異常事態

    台湾はいかなる外国にも支配されていない独立国家であるにもかかわらず、台湾はすでに40年間も国際社会で孤立している。国際社会で主権独立国家として認められている国は193か国あるが、これらの国々は相互に国交を結んで条約を締結したり、主権独立国家であることを加盟資格とする種々の国際組織にも加盟している。自ら加盟を希望していないローマ教皇のバチカン市国を除く192か国は、国際連合にも加盟している。台湾だけが外国と条約を締結できず、重要な国際組織にも加盟できず、国際社会から疎外されているのは、現代世界で最も異常な事態であろう。この異常事態を正常化しようとする動きが、国際社会にも台湾にもないのは、この異常事態があまりにも長く続いたために、それを異常と感じなくなっているからであろう。

     台湾は決して小国ではない。台湾の面積は36,000平方キロメートルで世界134位であるが、面積の少ない32か国の総面積よりも広い。台湾の人口は約2,300万人で、オーストラリアやルーマニアより多く、世界48位であるが、人口の少ない49か国の人口総計にほぼ等しい。2010年の台湾の国内総生産(GDP)は約4、300億米ドルで、デンマークやアルゼンチンより多く、スウェーデンに次いで世界21位であり、台湾は経済先進国である。

     台湾以外に国際社会で主権独立国家として承認されていない国としてパレスチナが存在する。1996年にパレスチナ暫定自治政府が成立、ヨルダン川西岸とガザ地区を合わせた領土面積は約6,000平方キロメートル、人口は約390万人、GDPは約30億米ドルである。台湾と較べると、領土は6分の1、人口も6分の1、GDPは140分の1だ。このパレスチナでさえ、数年以内に国連加盟が実現すると見られているのに、台湾の国連加盟は見通しさえ立っていない。

       台湾が国際社会で孤立しているために、アジア・太平洋、ひいては世界の平和が脅かされているのだ。中国が武力を行使しても台湾を「統一する」と主張しているからである。台湾が世界の他の国々と同じように、国際社会の平等な一員として認められたら、台湾を武力で攻撃することは侵略行為であることが明白になり、中国が台湾を攻撃することは困難になるであろう。そうなれば、台湾防衛に協力している米国の立場も、今よりずっと楽になるはずだ。台湾の国際的孤立という異常事態を正常化することは、台湾だけでなく、世界のために必要なのである。

     台湾の国際社会への参加を実現するには、どうしてこのような異常事態が生じたのかを知る事が必要であろう。そのためには、第2次世界の終結にまでさかのぼらなくてはならない。

       4、蒋介石による占領から台湾の不運が始まった   1945年に第2次世界大戦が終結し、敗北した国々は全ての植民地を放棄させられた。間もなく、世界的に人民自決の気運が高まって、戦勝国も植民地を放棄せざるを得なくなり、アジア、アフリカ、太平洋などで旧植民地は続々と独立した。

     しかし、日本の植民地であった台湾は、蒋介石を総司令官とする中国国民党軍に占領されたことによって、世界的な独立の気運から取り残されてしまった。台湾と同じように日本の植民地であった朝鮮半島は、米国が南部を占領し、ソビエト連邦が北部を占領したが、1948年に南部は大韓民国として、北部は朝鮮民主主義人民共和国として独立した。

     1945年9月2日、日本の降伏文書が日本と連合国の代表によって調印されると、マッカーサー連合国最高司令官はただちに1般命令第1号を発令し、日本本土と日本の植民地および占領地の日本軍に対して、それぞれ降伏すべき相手を指定した。台湾の日本軍は降伏相手として蒋介石総司令官を指定されたので、中国国民党軍が台湾を占領したのである。

    マッカーサーはトルーマン米大統領の指令に従ってこの命令を発したのであるが、トルーマンがこう指令した原因はカイロ宣言にある。カイロ宣言と呼ばれているは、1943年11月にローズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統の3人がエジプトのカイロで会議を行った後に発表された声明であり、これは報道陣用のニュース・リリースに過ぎず、条約でも協定でもなく、3人の署名もない。カイロ宣言には「満州、台湾および澎湖島のような日本国が清国人から盗取した全ての地域を中華民国に返還する」と書かれており、ポツダム宣言には「カイロ宣言の条項は履行されるべきである」と書かれている。ローズベルトがこのような条項をカイロ宣言に加えたのは、日本軍によって中国の奥地にまで追いつめられていた蒋介石を激励するためであった。しかし、台湾は米国の領土ではなかったから、米国の大統領に台湾を譲渡する権利はない。ポツダム宣言は日本に対する降伏勧告であり、戦争に伴う領土変更は平和条約によって行われるのが原則だから、平和条約による裏付けがない限り、降伏勧告によって領土変更を行なうことはできない。

     1951年、日本と戦った連合国の大多数を占める48か国が、サンフランシスコで日本と平和条約を締結した。日本と合併する以前は独立国であった朝鮮半島は、1948年に独立しているが、この平和条約で「日本国は朝鮮の独立を承認する」として追認された。台湾と澎湖島は日本がサンフランシスコ平和条約で放棄したが、その帰属については何も規定がないので、台湾と澎湖島の国際法上の地位は未定なのである。1952年に日本が蒋介石政権の中華民国と日華平和条約を結んだ時、蒋介石は「台湾と澎湖島が中華民国の領土になったことを認めよ」と執拗に要求したが、日本は「放棄した領土について日本はいかなる権利も持っていない」と主張した結果、サンフランシスコ平和条約での決定を追認するだけに終わった。蒋介石も、台湾と澎湖島の国際法上の地位は未定であることを認めたのである。

     台湾を占領した蒋政権は、日本国と日本人が台湾に所有していた全ての土地と企業、殆どの個人財産も没収した。これらの厖大な資産の多くは、中華民国と中国国民党の資産にされた。これによって中華民国の資産は急増し、中国国民党は世界一の金持ち政党になった。台湾を占領した国民党の有力者たちが私有財産にしてしまった旧日本資産も少なくなかった。中国では内戦でも敵地を占領した将兵が略奪を行なうのは慣習化されていたから、台湾でも略奪が行なわれ、被害を被った台湾人も少なくなかった。

     米軍の中にもこのような惨状を予想して、「台湾を蒋政権の管理下におけば、搾取されるだけだから、台湾は国際管理下におくべきである」という意見書を提出した人物がいた。日本との戦争が始まって間もなく、米軍は台湾を占領することによって南方に展開している日本軍を孤立させる戦略を立てた。米軍は占領後の台湾を統治するために、台湾調査班を設置した。その責任者に任命されたのは、日本で研究活動を行った後に、台湾の高等学校で教師をした経験があるジョージ・カー(George H.Kerr)であった。

    カーは蒋政権に台湾を管理させるべきではない理由として、2項目をあげた。①中国には台湾のように発達した複雑な経済社会を管理できる行政官や技術者が存在しない。②「中国の呪い」と言われている宋子文一族、孔祥熙一族、蒋介石一族を初め、中国軍部と国民党幹部によって、台湾は思う存分利用され搾取される危険が非常に大きい。

     マッカーサー連合国最高司令官の意見がローズベルト大統領に認められたことによって、米軍は台湾ではなく、フィリピンを攻撃して占領した。日本との戦争が始まって間もなく、日本軍はフィリピンを攻撃したが、フィリピン駐在米軍の司令官だったマッカーサーは部下を残して潜水艦でオーストラリアに逃亡した。この時の屈辱を晴らすために、マッカーサーはフィリピンに固執したのであろう。フィリピンを占領した米軍は、台湾を飛ばして沖縄を占領した。もし、当初の予定通り、米軍が台湾を占領していたら、その後の台湾の歴史は大きく変わったことであろう。

     ジョージ・カーは、戦後すぐ台湾に駐在したので、台湾を占領した蒋政権による搾取や略奪、2・28事件の大虐殺などを目撃した。台湾の惨状は、彼が予想した以上であった。

       ジョージ・カーは、これらの経験を中心に書いた『FORMOSA BETRAYED』を1965年に発行した。この本は蕭成美氏による日本語訳が、2006年に『裏切られた台湾』として東京の同時代社から出版されている。

     1949年、中国共産党との戦いに敗れた蒋政権は、台湾に戒厳令を敷いて、台湾へ逃げた。蒋政権は、政権に対して批判的と思われる台湾人を逮捕して、一方的な軍事裁判で厳罰に処した。台湾人は、このような恐怖政治を「白色テロ」と呼んだ。この「テロ」というのは恐怖政治のことであるが、「白色」を付したのは、中国共産党の「赤色テロ」に対する極右政権のテロという意味だとか、深夜に「政治犯」を逮捕に来る憲兵が白いヘルメットをかぶっていたからだと言われている。戒厳令は、蒋経国が死ぬ半年前の1987年7月まで38年間も続いたのである。

       (続く)

      

    2011年8月12日金曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(1−2章)【差し替え版】

    米国、中国との冷戦に突入(1−2章)【差し替え版】〔2011.9.4校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

         米国政府は、遂に中国を「潜在敵国」と規定し、中国の覇権拡大を阻止するために、アジア・太平洋諸国と提携して、中国包囲網を形成しつつある。最大の争点は、南シナ海だ。もし、中国が南シナ海を支配下に置けば、中国は南シナ海のシーレーンを生命線としている国々を覇権下に収める事ができるからである。台湾は、南シナ海の出入り口を扼する地政学的要衛に位置している。台湾が主権独立国家として国際社会の承認を獲得し、南シナ海を防衛する国々の一員に加われば、南シナ海の航行の自由は守られるのである。

     台湾が、国名を台湾共和国に改めて、世界の国々と国交を結ぶ絶好の機会が到来したのである。台湾が国際社会で孤立したのは、1971年に米国が「中国封じ込め政策」を転換し、中国が安全保障理事会の常任理事国として国際連合に加盟した時、中国代表として安保理常任理事国の地位を占めていた中華民国は、国連の一般議席からも追放され、世界の国々から断交されたからである。それ以来40年ぶりに、米国は対中国政策を大転換したのだ。米国は、中国との冷戦に突入したのである。かつての米国を中心とする国々とソビエト連邦を中心とする国々の冷戦は、経済的にもそれぞれブロックを形成して対峙した。しかし、現在は米国も他のアジア・太平洋諸国も、経済的には中国との関係が深い。新しい冷戦は、中国との経済関係を維持しながら、中国の覇権拡大を封じるものである。

        目      次  1 2つの中東戦争で余力を失なった米国は、中国の横暴を容認した  2 オバマ大統領、対中国政策を180度転換  3 台湾の国際的孤立は、世界最大の異常事態  4 蒋介石による占領から台湾の不運が始まった  5 ニクソン大統領、「中国封じ込め政策」を180度転換  6 まことに不思議な周恩来とキッシンジャーの外交交渉  7 ニクソン政権の大失敗で、台湾問題を解決する絶好機が失われた  8 ニクソン大統領が台湾を犠牲にして得たベトナム和平協定は、2年間で破棄された  9 中華民国の国連からの追放は、台湾独立運動にも大打撃を与えた 10 断交後の米国と台湾の関係を規定した台湾関係法 11 蒋政権による最後の大弾圧 12 李登輝総統時代の台湾の民主化 13 米国政府も「台湾が『1つの中国政策』を放棄すれば、国交を結べる」と言明 14 人民自決の権利は、全人類に認められた基本的人権である 15 台湾共和国の創建は、世界の利益と一致している 16 台湾のことを知れば、世界は台湾共和国の創建を支持する 17 こうすれば、台湾共和国を創建できる

         1、2つの中東戦争で余力を失った米国は、中国の横暴を容認した

     2000年3月、台湾で行なわれた2回目の国民の直接投票による総統選挙で、民主進歩党の陳水扁が当選した時、米国政府は中国が台湾を武力で攻撃して戦争になるのではないかと恐れた。米国は台湾関係法によって台湾の防衛を公約しており、中国が台湾を攻撃すると、米国との戦争に発展する可能性が大きかったからである。民進党(民主進歩党)は、党綱領に台湾の独立を掲げており、中国は「台湾が独立しようとしたら戦争だ」と威嚇していたから、民進党政権の誕生が戦争の原因になるのではないか、と米国政府は恐れたのだ。日本が第2次世界大戦に敗北した1945年以来、中国国民党が台湾を支配してきたから、これは台湾で初めての政権交代であった。

     台湾の独立と言うのは、中国からの独立ではない。台湾は、中国とは異なる独立国家として存在している。民進党の目標は、国民投票で国名の中華民国を台湾共和国に改める事によって、この現実を法制化する事である。そうなってしまえば、中国は台湾を「統一」する名分を失うから、「戦争になる」と脅す事によって、米クリントン政権に台湾へ圧力をかけさせたのである。

     この米国の圧力によって、陳水扁は総統就任演説で、「中共(中国共産党)が台湾に対して武力を発動する意図を持たない限りにおいて」という前提つきだったが、「私は在任中に独立を宣言せず、国名を変更せず、統一か独立かといった現状変更に関する国民投票を行なわない」と言わざるを得なかった。

     2001年1月、このようなクリントン大統領の中国に対する屈從的な態度を批判していたジョージ・ブッシュが、米大統領に就任した。ブッシュ大統領が中国と台湾に対していかなる政策を打ち出すか注目されたのであるが、アメリカで起きた同時多発テロが状況を一変させた。9月11日、テロリストにハイジャックされた旅客機2機が、ニューヨークに並び立つワールド・トレード・センタービル2棟に激突、ビルは炎に包まれて倒壊、続いてもう1機がワシントンの国防総省(ペンタゴン)に激突した。このテロは世界を驚かせたが、特に米国人に与えたショックは深刻だった。ブッシュ大統領は、この日の日記に「今日、21世紀のパールハーバー攻撃が勃発した」と書いたと言う。このテロを実行したのは、ウサマ・ビンラーディンを指導者とするアルカーイダであった。アフガニスタンを支配している狂信的なイスラム教組織のタリバンが、アルカーイダと提携して多数のテロリストを訓練していることは、米国政府もよく知っていた。

     ブッシュ大統領は、タリバン政権に「ビンラーディンとその一味を引き渡せ。さもなくば、攻撃する」と警告したが、タリバンは拒否した。9・11事件から1か月もたたない10月7日、ブッシュ大統領の命令によって、米軍はタリバン攻撃を開始した。大統領選挙で大接戦の末に当選したブッシュ大統領の人気は50パーセントぐらいしかなかったが、この素早い攻撃によって、彼の人気は90パーセント近くまで上昇した。それは、テロとの戦いを断固支持する米国民の意志の表れであった。しかし、10月31日のニューヨーク・タイムズが「アフガニスタンの戦争は、ベトナム戦争の再現にならないだろうか」という記事を掲載したように、アフガニスタンの泥沼にはまる事を心配する人々もいた。

     1979年にソビエト連邦は、弱体な親ソ連政権を擁護するために、アフガニスタンの内戦に介入したが、10年後には撤兵せざるを得なかった。この無益な戦いが、ソビエト連邦の崩壊を早めたのである。1881年にアフガニスタンを保護領にした英国は、反英闘争に手を焼いて、1919年にアフガニスタンの独立を認めて撤退した。ソ連や英国の二の舞をせぬためには、短期間でタリバンとアルカーイダに大打撃を与えて、タリバンにはテロリストを支援する事の不利益を悟らせ、米軍はアフガニスタンから撤退すべきであった。しかし、タリバンとアルカーイダが辺境に逃亡して、12月に親米政権がアフガニスタンに成立すると、ブッシュ大統領はイラク戦争の準備を始めた。イラクのサダム・フセイン政権が、テロリストを支援し、大量破壊兵器を密造しているという情報があったからである。

     2002年1月、ブッシュ大統領は「イラクとイラン、北朝鮮は悪の枢軸である」と演説した。しかし、クウェートを侵略したサダム・フセイン政権に対して、ブッシュ大統領の父のブッシュ大統領が1991年に行なった湾岸戦争で、イラク軍は壊滅的な損害を受け、核兵器開発施設は完全に破壊された。湾岸戦争は国連安保理事会の決議に基づいて、米軍を中心とする多国籍軍が行なったので、戦後もイラクに対する経済制裁が行なわれ、国連監視団もイラクが大量破壊兵器を開発している証拠はないと言明していた。イラクを攻撃すべきかどうか、米国でも1年数か月にわたって論議が行なわれた。当時、上院議員だったオバマ大統領は、「国益にそぐわない愚かな戦争だ」と言ってイラク攻撃に反対した。冷静に現実を直視すれば、これは当然の判断であったろう。

     2003年3月20日、ブッシュ大統領は「イラクの自由作戦」が開始されたと宣言し、 目的は大量破壊兵器の開発阻止とイラク国民を圧制から解放して民主化を支援することであると説明した。米軍を中心とする有志連合軍は、たちまちイラク軍を壊滅させて、サダム・フセインを捕虜にした。しかし、大量破壊兵器を開発していた形跡はなかった。フセイン政権の崩壊でイラクは内乱状態となり、米軍は撤退する機会を失なってしまった。米国はイラクの泥沼にはまり込んでしまったのである。米軍がイラク戦争に重点をおいている間に、アフガニスタンではタリバンが勢力を盛り返し、米国はアフガニスタンでも泥沼にはまってしまったのだ。

     米国が2つの中東戦争で苦闘しているのは、中国にとって勢力を拡大する絶好のチャンスだった。急速な軍備拡張を推進しながら、中国は周囲の国々への圧力を強化した。台湾との軍事バランスも、中国に有利に傾いた。台湾海峡で戦争が起こる事を恐れるブッシュ政権は、中国の要求に従って、実に細かなことにまで台湾に圧力をかけた。

     例えば、台湾の駐日大使館に相当する代表所の名称は「台北駐日経済文化代表処」とまるで台北市の機関のようであるが、それを「台湾駐日代表処」のように「台湾」を付した名称に変更してはならない、と米国務省は言った。台湾の公営企業である中国石油や中国造船の名称を台湾石油や台湾造船に変えてもいけない、と米国務省はこんなことにまで台湾に圧力をかけたのである。パウエル米国務長官は、北京で中国政府におもねて「台湾は主権を享受していない。台湾は独立国家ではない」と述べた。台湾は主権を享受していないが、独立国家である事実は否定できない。これは、台湾は中国の一部であると誤解されかねない発言であった。

     また、ブッシュ大統領は、「悪の枢軸」の1国と呼んだ北朝鮮の核兵器開発阻止を中国に委ねてしまった。北朝鮮は中国が与える石油や食料でやっと生き延びている国だから、中国が容認しなければ、核兵器の開発を行なえる訳はない。中国にとって、北朝鮮は唯一の属国である。利用価値があるからこそ、中国は北朝鮮の核開発を容認したのだ。北朝鮮は2006年10月に地下核兵器実験を行なって、日本や韓国を威嚇した。このように日本や韓国を威嚇するのに利用できるのである。

     2008年10月には日本が反対したにもかかわらず、ブッシュ大統領は北朝鮮のテロ支援国家指定まで解除したのだ。

       2、オバマ大統領、対中国政策を180度転換

     2009年1月、圧倒的な大差で大統領に当選したバラク・オバマが米大統領に就任した。中国に対しては、オバマ大統領はブッシュ路線を継承して、大変低姿勢であった。

     7月27日、米国政府と中国政府の会議で、オバマ大統領は「米中関係は世界のどの2国関係より重要である」と断言した。9月23日、国連総会でオバマ大統領は「米国と中国は相互の利益と尊敬に基づくエンゲージメント(関与)の時代に入った」と、中国を重視するスピーチを行なった。

     このような米国の中国重視の結果、「米中G2論」がさかんに言われるようになった。米国と中国の2国が中心になって、国際問題、特にアジア・太平洋地域の問題を解決して行く、と言う考えである。

     ところが2010年になると、米国の対中国政策は大きく変化する。経済的には米中関係は緊密であり、いろいろな面で両国が協力することも多い。しかし、政治面で米国の対中国政策を注意して見ると、オバマ大統領が対中国政策を大転換した事が明らかになってくる。

     2010年1月、米国が台湾に対して防衛用の兵器を売却することを発表すると、中国は激怒した。1979年に中国と正式に国交を結ぶまで、米国は台湾の中華民国を承認して相互防衛条約を締結していた。中華民国と断交した米国は、台湾関係法を制定して、台湾の防衛に協力し、兵器の供給も続けてきた。米国の台湾に対する兵器売却は、今さら中国が激怒するような事ではないのである。

     中国が怒ったのは、オバマ大統領が「中国との関係は世界のどの2国関係よりも重要である」と言ったからには、建国以来の中国の念願である「台湾統一」を妨害することはないと期待していたからであろう。中国の指導者たちの中には、台湾併合を突破口としてアジア・太平洋で覇権を確立しようと考えている者が少なくない。例えば、2005年4月の中央軍事委員会拡大会議で、中央軍事委員会副主席と国防相を兼任したことのある中国軍の長老、遅浩田は次のような内容の激烈きわまる演説を行っている。

     遅浩田は、「現代は戦国時代である」と規定して、「覇権を持つ国だけが大国であり、覇権を持たなければ、他国に支配されることになる」「台湾海峡での戦いは必ず勝たねばならない。もし負けたら、甲午戦争(日清戦争)の敗北より、もっと悲惨な結果になる」「日本を全面的に破滅させ、米国を不具にしなければならない。核戦争だけがこの任務に堪え得るのである」と述べている。毛沢東も「核戦争は恐れるに足りない」と言ったが、遅浩田は「核戦争で日本を破滅させて日清戦争の仇を取り、米国にも大損害を与える」と言ったのだ。まさしく、1世紀遅れてやってきた帝国主義国家の軍指導者として面目躍如である。現役時代の遅浩田は、空母の建造や軍の近代化を強く主張した。遅浩田が主張したとおり、中国軍は空母の建設を推進するなど、軍近代化の道をまっしぐらに進んできた。この遅浩田の演説以後、劉亜州や朱成虎など中国軍の有力な指導者たちは、「太平洋を東西に分割して、その西側を中国の支配圏として、東側を米国の支配圏にしよう」と公然と語るようになったのである。

     2010年5月の米国との戦略対話以来、中国は「南シナ海は、中国の核心的利益である」と主張するようになった。中国はチベットや台湾に対して「核心的利益」という言葉を使ってきたが、これらの問題では決して譲歩できないと言う意味である。1970年代から、中国は南シナ海の島々を占領し始めた。南シナ海には台湾、フィリピン、べトナム、マレーシアなどの周辺諸国が領有権を主張している島々が存在する。中国は、1988年3月にベトナムと海戦を行なってまで、南沙諸島のいくつかの島を占領したように、かなり強引に多数の島々を占拠した。これらの島々を根拠にして、中国は1992年に制定した領海法で南シナ海の大部分を自国の領海と定めた。尖閣諸島を含む東シナ海の大部分を中国の領海と定めたのも、この領海法である。

     アジア・太平洋の多くの国々にとって、南シナ海を通るシーレーンは生命線なのだ。南シナ海を通らなければ、他国と交易できない国々もある。東アジアや東南アジアの多くの国は、南シナ海からマラッカ海峡を通ってインド洋の国々と交易し、さらには中東から原油を輸入している。日本など東アジア・西太平洋の国々から南シナ海に入る航路は、台湾海峡と台湾・フィリピン間の海峡があるが、台湾海峡は浅く、フィリピン寄りのルソン海峡も浅瀬が多いので、大型船舶は台湾寄りのバシー海峡を通っている。もし、中国が台湾を占領すれば、3、000メートル級の山々が嶺をつらねる台湾の中央山脈に多数の短距離ミサイルを配置するだけで、中国はバシー海峡を支配できるのである。従って、中国は台湾を支配下に置けば、東アジアから東南アジア、西太平洋の国々も覇権下において、これらの国々の資本や技術、資源などを利用しやすくなるのだ。

    そうなれば、中国は東欧諸国を覇権下において冷戦を戦った時代のソビエト連邦よりはるかに強大な力を持つ事になり、米国でさえ存亡の危機に追いつめられる事になる。中国が東アジア・西太平洋を覇権下に置く事を防ぐためには、関係諸国の緊密な連帯が必要なのである。

      2010年7月、ベトナムで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)を中心とする会議で、ヒラリー・クリントン米国務長官は、「南シナ海の航行の自由には、米国の国益がかかっている」と強調し、「南シナ海の島々をめぐるASEAN諸国と中国の対立は、米国も関与して多国間協議で解決すべきだ」と述べた。中国に威圧されてきた南シナ海の沿岸諸国にとって、強力な味方が現われたのである。早くも同年8月には、米海軍はベトナム海軍と南シナ海で合同演習まで行ったのだ。

     同年9月7日には東シナ海の尖閣諸島の近くにいた中国の漁船に対して、日本の海上保安庁の巡視船が領海侵犯だと警告して近づいたところ、中国漁船は巡視船に衝突して逃走し、それを追跡したもう一隻の巡視船にも衝突した。巡視船は中国漁船を捕獲して、船長を公務執行妨害で逮捕した。中国政府は、駐中国日本大使を何度も呼びつけて、尖閣諸島のある東シナ海は中国の領海であり、不当逮捕だと抗議した。9月13日に日本側は、船長以外の漁船員14人を帰国させ、漁船も返却したが、中国は船長も釈放させるために、全く無関係な在中国日本企業の社員を逮捕したりして圧力をかけた。漁船を巡視船に体当たりさせるようなことは普通の漁船長がやる事ではないので、これは日本政府の反応を見るために行なった中国側の作為的な事件と見られている。米国務省は、「米日同盟はアジアの平和と安定にとって要石である。尖閣諸島は米日安保条約の適用対象である」と、日本の後押しをしてくれたが、もともと中国に対して屈従的な態度をとってきた民主党政権は、中国の圧力に屈して、9月24日に中国人船長を処分保留で釈放させた。

    同年10月8日、ノルウェーのノーベル賞委員会は、中国の民主化を要求する「08憲章」を起草したために国家政権転覆扇動罪で懲役11年の刑に服している劉暁波にノーベル平和賞を授与することを発表した。中国外交部は、ただちに駐中国ノルウェー大使を呼びつけて抗議し、ノルウェーに圧力をかけ始めた。中国政府は、劉暁波夫人を自宅軟禁下に置き、劉氏の親族がノーベル平和賞の授賞式に参加することも禁じた。中国の圧力でASEANのメンバーであるベトナム、フィリピン、インドネシアなどの駐ノルウェー大使も、授賞式に出席しなかった。

     12月10日にオスロで開かれた授賞式では、劉氏が座るべき椅子は空席とし、近くに彼の大きな顔写真が掲げられた。ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長は、「受賞者がここにいないことを残念に思う。彼は今、中国の監獄で1人、孤独に耐えている。夫人や近親者もここに出席できなかった。この事実だけでも、授賞が必要であり、適切だったことをしめしている」とスピーチした。このことは授賞式の写真と共に広く報道され、中国は民主化を要求しただけで重刑を科す専制独裁国家であることを国際社会に強く印象づけたのである。

     同年11月、オバマ大統領はインド、インドネシア、韓国、日本を訪問した。彼の韓国、日本訪問は同盟関係を強化するためであったが、インドとインドネシアを訪問したのは中国に対する防衛問題で協力関係を構築するためであった。

     特にインドは、これを米国の対中国政策の戦略的大転換であるとして、大いに歓迎した。中国は陸の国境線でインドに軍事的圧力をかけ続けてきただけでなく、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーに中国海軍が利用できる軍港を構築して、海上からインドを包囲している。中国の人口は約13億5千万人、インドは約12億人で、両国は世界でずば抜けた人口大国であり、経済成長も著しい。中国が「真珠の首飾り」と言われるインド包囲網を築いたのは、東アジア・西太平洋だけでなく、インド洋まで中国の覇権下におくことを目指しているからであろう。米国が「G2」と呼ばれるほど親中国的な政策をとっている事で、苦しい立場に置かれていたインドは、米国の戦略転換を喜んで積極的に対応し、米国との協力関係の構築を推進している。

     2011年1月14日、ヒラリー・クリントン米国務長官は、「G2というものは存在しない。米国には日本、韓国、タイ、オーストラリア、フィリピンという強固な同盟国が存在する」と語った。この4日後に中国の胡錦濤国家主席が訪米することを意識して、クリントン長官はこのような中国を牽制する発言を行なったのであろう。米国と日本の強固な同盟関係は、その2か月後に発生した東日本大震災によって完全に証明された。

     東日本大震災が起きた日、ワシントンDCで3月11日の早朝にオバマ大統領は、「米国と日本の友情と同盟は揺るぎない。米国は日本の救援に全力を尽くす」と述べて、米軍に救援活動を命じた。この命令によって、米軍はオペレーション・トモダチ(友達作戦)をただちに発動した。仙台空港と周囲の道路は津波による泥と瓦礫に埋もれて、空港を復旧するメドがたっていなかったが、3月16日に沖縄の米軍基地から来た特殊戦術飛行中隊は隊員と建設機材をパラシュートで降下させ、わずか数時間で大型輸送機が離着陸できるように滑走路を修復し、援助物資の輸送を始めた。米軍がトモダチ作戦に投入した兵員は18,000人、艦船は空母ロナルド・レーガン以下19隻、航空機140機であった。米軍は長期にわたって自衛隊と共に救援活動を行ない、死者の捜索まで行なった。このような米軍の活動は、いかなる条約や約束よりも、日米同盟の強固さを証明した。

     同年2月8日、米軍のトップに立つ軍人であるマレン統合参謀本部議長は、「国家軍事戦略」を発表し、中国の軍備拡張を注視すると同時に、東アジアにおける米軍の戦力を今後数十年間にわたって維持して行くと強調した。2010年2月に米国防総省は安全保障戦略の基本方針である「4年ごとの国防計画見直し=QDR」を発表したが、このQDRに基づいて決定された「国家軍事戦略」は、米国の軍事戦略の大転換を明らかにしたのである。

     この「国家軍事戦略」は、日本の自衛隊の海外での活動能力の向上に協力することや東南アジア諸国連合(ASEAN)との関係強化、台湾の自衛力維持への協力なども定めている。この米国の新しい軍事戦略に呼応して、ベトナムは潜水艦の増加など軍事力を増強する方針を打ち出し、米軍と協力して南シナ海における自国の権利と航行の自由を守るために、米艦がカムラン湾など自国の港を利用することも認めた。フィリピンは、南沙諸島のパガサ島の滑走路を拡張し、フィリピンが支配している9つの島に防空レーダーを設置したり、高速巡視船を配備したりして、米軍との戦略的協力関係を強化する方針を打ち出した。

     中国の覇権拡張を阻止するために、東アジアでの防衛体制を強化するには、米国はイラクとアフガニスタンの泥沼から脱出しなければならない。オバマ大統領は、2011年末までに米軍をイラクから完全撤退させ、アフガニスタンの米軍も2011年7月に撤退を開始し、2014年にはアフガニスタン政府に治安権限を移譲して全米軍を撤退させる方針である。

    2011年5月2日、米海軍特殊部隊はパキスタンの首都近郊に潜伏していたアルカーイダの指導者、ウサマ・ビンラーディンの殺害に成功した。最大のテロ組織の指導者を倒したことは、米国の対テロ戦争における大きな勝利であり、米軍のアフガニスタンからの撤退を援けることにもなろう。

     同年3月19日、米国と英国、フランスなどの空軍が、国民を武力で弾圧しているリビアの独裁者、カダフィ大佐の軍隊に攻撃を開始したが、3月末に米軍は指揮権を北大西洋条約機構(NATO)に引き渡した。やっとイラクとアフガニスタンの泥沼から脱出しようとしている米国が、アフリカで新たな泥沼にはまり込んではならない、とオバマ大統領は考えたのであろう。

     同年5月7日、8日にインドネシアのジャカルタで東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議が開かれ、閉会後の8日に発表された議長声明には、南シナ海の領有権問題について「2国間または関係国の間で取り扱うのが最良」と書かれていた。「2国間交渉」を主張する中国に配慮した結果であるが、ベトナムなどが反発して、11日に再発表された議長声明ではこの部分が削除され、新たに「加盟国が共同して協議に臨む」と書き加えられていた。ASEAN加盟国が共同で中国と交渉すると言っても、中国の圧力に非常に弱い国もあり、足並みを揃えるのは容易でないが、中国が嫌うこのような方針が議長声明に取り入れられたのは、米国の支援を期待しての事であろう。

     同年6月4日、米国のゲーツ国防長官は、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で、中国の南シナ海などにおける覇権主義的な行動を抑制するために、この地域における米国の軍事力の優位を維持し、同盟国などとの関係を強化する方針を強調した。ゲーツ長官は、シンガポールに米海軍の「新型沿海域戦闘艦」を配備することを明らかにしたが、「南シナ海は、中国の核心的利益である」と主張する中国に、南シナ海における航行の自由を妨害させないためである事は明白である。また彼は、東日本大震災で米軍が行なった「トモダチ作戦」によって「日米同盟はより強力になった」と語ったが、この作戦は単なる同盟国に対する救援活動ではなく、日米安保体制の強化も目的の1つであった事を示している。さらにゲーツ長官は、「米国の国防予算は削減されたが、米国はアジア・太平洋地域で同盟国との関係を強化して行く。確固とした軍事力を維持し、同盟国と共に潜在的な敵国と戦う」と述べた。この「潜在的な敵国」が中国を指していることは、言うまでもない。

         ゲーツ米国防長官に「潜在的な敵国」とまで言われた中国の梁光烈国防相は、「中国軍の近代化は国防が目的であり、中国は覇権を追求しない。南シナ海の状況は安定しており、航行の自由に問題はない」と弁明した。しかし、米国とロシアに次ぐ強大な核戦力と世界最大の陸軍を擁する中国を侵略する国はあり得ないから、世界で突出した中国の軍事力増強を国防目的であると言っても、信じる人はなかろう。南シナ海における漁業や調査活動を絶えず中国に妨害されているベトナムのフン・クアン・タイン国防相は、中国の梁光烈国防相に対して、南シナ海に関する発言を「実際の行動で示して貰いたい」と注文をつけた。フィリピンのガズミン国防相も、中国の南沙諸島での新建造物は「ASEANと中国の合意に違反している」と批判した。中国の軍事的・経済的威圧を受けているASEAN諸国は、中国を正面から批判するようなことはめったになかったが、米国の強力な支援があったからこそ、これだけの発言ができたのであろう。

     これまで述べてきたように、米国を中心として中国の覇権拡張を阻止する中国包囲網が、急速に形成されつつあることは明白である。

    (続く)