台湾の声バックナンバーを検索(先頭に検索語を付け加えてください)

説明

  • このブログでは2007.9.22より2015.3.21までの、『台湾の声』のバックナンバー等を掲載しています。バックナンバー一覧(発刊から2009/05/19まで分)は: http://www.geocities.jp/taigu_jp/koe/
  • 「台湾の声」は2017年10月よりリニューアルしました。リニューアル後のバックナンバーは: http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=TrlFhDwwumiKWlHAS2yhQRrq7yOcIJChunR1b71wquMICI9PZP/pPrAFxTfD3BT7

  • 2017年10月のリニューアル後の登録/解除はこちらのリンクから: http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=QZfFYkaqP/+i82p5y2M6KRrq7yOcIPChunR1b71wquMICI9PZP95PrAFxTfD3BT7

  • 2017年10月のリニューアルにあわせ、Facebookページを取得しました: http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=wI9//qmdrkOIIFQ2b6bEEhrq7yOcICChunR1b71wquMICI9PZP+JPrAFxTfD3BT7
  • 2017年10月のリニューアルにあわせ、Twitterアカウントを取得しました: http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=pYeGDPO05UWPiscVReTyaxrq7yOcIBChunR1b71wquMICI9PZP+ZPrAFxTfD3BT7
  • 2011年8月15日月曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(10−12章)

    米国、中国との冷戦に突入(10−12章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

       10、断交後の米国と台湾の関係を規定した台湾関係法

     ニクソン大統領は、緊密な米中関係を構築した。正式な米中国交の締結は大統領に再選された後で行なう予定であったが、ニクソン大統領はウォーターゲート事件で1974年に辞任したので、この目的は果たせなかった。中国と正式に国交を締結したのは、ジミーカーター大統領である。1979年1月1日、米中国交が樹立され、米国は中華民国と断交して、米華防衛条約も1年後に失効することになった。

     カーター政権は、断交後の台湾との関係についてあまり配慮していなかった。その後の米台関係を規定したのは、米議会が制定した台湾関係法である。蒋経国政権は、突然米中国交を宣言したカーター政権の裏切りを非難するだけであったが、米上下両院の有力議員たちと数人の在米台湾独立運動の指導者たちの協力によって、台湾関係法が制定されたのである。この台湾関係法は、1979年4月に制定されたが、1月1日にさかのぼって施行された。

     台湾関係法によってそれまで台湾に適用されていた米国の法律は、従来どおり適用されることが定められた。台湾関係法には、次のような条項が含まれている。

     「同地域の平和と安定は、合衆国の政治、安全保障および経済的利益に合致し、国際的な関心事でもあることを宣言する」  「平和手段以外によって台湾の将来を決定しようとする試みは、ボイコット、封鎖を含むいかなるものであれ、西太平洋地域の平和と安全に対する脅威であり、合衆国の重大関心事と考える」  「防衛的な性格の兵器を台湾に供給する」  「台湾人民の安全または社会、経済に危害を与えるいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗し得る合衆国の能力を維持する」  「本法律に含まれるいかなる条項も、人権、特に約1、800万人の台湾全住民の人権に対する合衆国の利益に反してはならない。台湾のすべての人民の人権の維持と向上が、合衆国の目標であることを、ここに改めて宣言する」

    この台湾関係法によって、米華防衛条約失効後も従来どおり、米国が台湾防衛に協力することが明確に規定された。「台湾人民の人権の維持と向上」が強調されているのは、台湾独立運動者の希望が受け入れられたからである。

     台湾関係法は、澎湖島を含む台湾に適用されるのであって、もともと中国の領土である金門・馬祖には適用されないことが明記されている。台湾関係法は、台湾統治当局(中華民国政府のこと)とその継承者にも適用されると規定されている。この「継承者」というのは、台湾共和国が創建された時のことを想定しているのだ。もちろん、これも独立運動者の希望によって加えられた条項である。

       11、蒋政権による最後の大弾圧

     1970年代になると、台湾の商人は台湾製品を売り込むために世界中を飛びまわっていた。輸出品の製造で急成長を遂げつつあった台湾企業は、必要な機材と部品の輸入や技術面での協力を求めて、外国企業、特に日本企業との関係を深めた。会社の出張の名目で、海外観光旅行に出かける台湾人も少なくなかった。よほどのことがなければ、出国できなかった時代とは様変わりである

     米国に断交されたショックをやわらげる意味もあったのか、蒋政権は1979年1月1日に国民の海外旅行を自由化した。台湾の民主化運動の指導者たちは、アメリカや日本などを訪れて、台湾独立運動の指導者たちとの関係を深めた。自由で民主的な国々の実情を見た台湾民主化運動の指導者たちは、蒋政権の独裁政治の異常さを肌で感じとり、台湾の民主化運動を強化することを決意した。

     1979年9月、台湾各地の有力な民主化運動の指導者たちが集まって、美麗島雑誌社を創設し、月刊『美麗島』誌を創刊した。自由と民主主義、法治の確立と人権尊重を要求する同誌は、創刊号から大反響を呼び、参加者が急増して台湾各地に美麗島支社が設立された。

     民主化運動の急速な高まりに脅威を感じた蒋経国は、大弾圧を決意する。1979年12月10日、美麗島雑誌社は高雄市で国際人権デー記念集会を開催しようとした。蒋政権は、暴動鎮圧隊と憲兵隊を動員して、この集会に集まってきた人々を追い散らし、その直後に美麗島社のメンバーを中心に151人を逮捕した。その中で最も重要な人物と見なされた8人は、軍事裁判にかけられて、懲役12年から無期の判決を受けた。

     蒋政権によって3万人とも言われる台湾人が殺戮された2・28事件の33周年に当たる1980年2月28日、美麗島事件で逮捕されて軍事裁判にかけられていた林義雄弁護士の自宅で、彼の母親と6歳の双子の女児の3人が刃物で殺害され、9歳の長女もめった斬りにされて瀕死の重傷を負った。特務機関の厳重な監視下にあった重要政治犯の自宅で行なわれた犯行あり、しかも2・28事件記念日にこの残忍な殺人が行なわれたのだから、民主化運動に対する警告であることは明白であった。もちろん、この種の犯行がそうであったように、この犯人も不明ということにされた。

     続いて4月24日、早くから台湾の民主化を主張してきた台湾キリスト長老教会の総幹事、高俊明牧師以下10人が逮捕された。外国からの批判を恐れて、国際的な宗教団体である長老教会の弾圧を躊躇してきた蒋経国が,遂に長老教会の弾圧に踏み切ったのである。高牧師らも軍事裁判にかけられて、判決は懲役2年から7年で、高牧師は7年だった。

      蒋経国は、これだけの大弾圧を行なえば、2・28事件の後のように、台湾人はおとなしくなると思ったのであろう。しかし、今回は違った。国際的な批判も強く、普通は秘密裁判の軍事裁判を公開せざるを得なかった。外国人記者なども見守る中で、被告たちは堂々と自分たちの正当性を主張し、蒋政権の独裁政治を批判した。彼等を弁護した弁護士を初めとして、多くの台湾人が民主化運動に参加し、民主化運動はむしろ加速した。

     21年後の2000年、民主的な選挙によって、総統・副総統に民主進歩党の陳水扁と呂秀蓮が選出されたが、陳水扁は美麗島事件裁判の弁護士の1人であり、呂秀蓮は同事件で懲役12年の判決を受けた被告であった。大弾圧が民主化運動を鎮静化するどころか、逆に民主化運動を促進する結果を招いたので、蒋政権による大弾圧はこれが最後になったのである。

       12、李登輝総統時代の台湾の民主化

    1986年9月28日、台湾各地の民主化運動の指導者たち135人が発起人となって、民主進歩党が結成された。戒厳令下で新しい政党の結成は禁止されていたから、発起人たちは逮捕されることを覚悟して民進党を結成したのである。しかし、彼等を逮捕すれば、台湾全土で抗議運動が起こり、政権が危機に立たされることは目に見えていたから、蒋経国は弾圧に踏み切れなかった。

     この年の5月20日には、米国のエドワード・ケネディー、クレイボン・ペルなど有力な上下議員5人が台湾民主化促進委員会を結成して、蒋政権に対して①戒厳令の解除 ②国会の全面改選 ③総統を国民の直接選挙で選出すること、を要求した。6月25日には、米下院の委員会が、①新党結成の容認 ②検閲の廃止、言論・出版・集会の自由の保障③議会民主制を実現すること、を要求する「台湾民主化決議案」を採択した。

     このような米国からの圧力があり、民主進歩党の結成で戒厳令が無視されたこともあったので、蒋経国は1987年7月15日に38年間施行されてきた戒厳令を解除した。その半年後の1988年1月13日、蒋経国総統は心臓病で急死し、副総統だった李登輝が総統に昇格した。台湾の歴史で初めて台湾人が政治のトップの座についたのだから、台湾人は大喜びであった。しかし、李登輝総統には何の権力もなかった。蒋経国の後を継ぐ独裁者はいなかったが、中国人の実力者たちが権力を分担したのである。だから李登輝総統は、「ロボット総統」と呼ばれていた。

     2006年に李登輝元総統と対談を行なった時、私は当時のことを聞いた。李先生の回答は次のようなものだった。

     「蒋経国が死んで副総統だった私が後を継いだが、本当にロボット総統だった。私は何ひとつ権力を持っていなかったんだ。自分が座っている椅子にさえ、しっかり座れないんだ」と言って、李先生は椅子の上で体をゆらせて見せた。そして、李先生はこう続けられた。「蒋経国が死んで以来、国民党の元老たちが、政治の実権を握っていた。どうやって、彼等と一緒にやって行くか、軍隊や情報機関(=特務機関)、警察にどう対処するか。1990年3月に総統に選出されるまでの2年2か月は、もっぱらそういうことに時間を費やしたよ」

     この対談は、2006年に東京の自由社で発行された『存亡の危機に瀕した台湾──中国は台湾を併合すれば、日本を属国にする』(中文訳は台北市の前衛出版刊『瀕臨危急存亡的台湾』)に掲載されているで、詳しく知りたい人は、それを読んでいただきたい。

      蒋経国の後を継いだ李登輝総統の任期は1990年5月に切れるので、その前に次の総統を決定しなければならなかった。蒋介石、蒋経国の時代は、国民党中央委員会が蒋介石、蒋経国を総統候補に決め、国民大会が彼等を総統に選出する形式がとられていた。

     しかし、1990年の総統選挙では、国民党指導部の意見が割れた。李総統に対する台湾人の熱烈な支持を無視することはできず、2月11日に中国国民党中央委員会は、李登輝総統を次期総統候補に決定した。しかし、752人の国民代表のうち中国で選出された万年議員が大多数を占める国民大会では、中国人を総統に選出しようとする動きがあった。

     このことを知った国立台湾大学の学生たちは、3月14日に「国民大会が総統を選出することに反対する運動」を始めた。2・28事件以後、台湾で初めての学生運動であった。民進党も、国民大会が勝手な決定を行なうことに反対し、李登輝総統を支持する集会の開催を呼びかけた。3月18日には総統府に近い中正記念堂広場に、2万人を超える学生や市民が集まり、夜も5千人ほどの学生などが泊まり込みで活動を続けた。この集会で彼等は、次の3項目を要求することを決定した。

    ①国民大会の廃止 ②憲法の施行を実質的に停止している動員戡乱時期臨時条款の廃止 ③政治の民主化改革を検討するための国是会議の開催。

     動員戡乱時期臨時条款というのは、中国共産党の叛乱を鎮圧するまで、中華民国憲法の施行を実質的に停止するために決定された臨時条例である。中華民国憲法は民主的な憲法であり、1947年12月25日に施行されたが、1948年5月10日にこの臨時条款が決定されたので、この憲法によって行なわれたのは国民大会代表と立法委員の選挙ぐらいのものであった。それも内戦下の中国で、国民党の支配地域だけで行なわれた選挙だから、国民党中心の選挙であった。

    国民大会の廃止を要求する大集会が連日開かれているのを見て、国民大会は李総統に反対できなくなり、3月31日に李登輝総統を次期総統に選出した。5月20日、李登輝総統は再び総統(任期6年)に就任した。国民党によって選出された総統であったが、台湾人の圧倒的な支持を背景にして選出されたので、李登輝総統は総統らしい力をかなり発揮できるようになった。

     李登輝総統は、各界から選抜したメンバーを招集して、6月28日から7月4日まで国是会議を開催した。1,455人が参加したこの国是会議で、万年議員を廃止して、国民の選挙で総統と立法委員、国民大会代表を選出することや、動員戡乱時期臨時条款を廃止して、憲法を条文通り施行することなど、民主改革の方針が決定された。3月に学生たちが始めた大衆集会の要求は、全て受け入れられたのである。

     この後も、いろいろ民主化を要求する大衆運動が次々に展開された。言論・出版・集会などが自由になり、民主化を要求しただけで投獄された時代の反動もあって、デモや集会に驚くほど多数の人々が集まった。このような国民の要求を背景に、李登輝総統は次々に民主化改革を断行した。

     1991年5月に動員戡乱時期臨時条款が廃止され、12月に万年議員(立法委員80人、国民大会代表469人)は総退職させられて、国民の投票で国民大会代表が選出された。当選者は、国民党254人、民進党66人であった。

     1992年5月、台湾独立を主張するだけで叛乱罪に該当すると定めた刑法100条が改正されて、台湾独立を主張する自由が認められた。この刑法改正によって、投獄されていた台湾独立建国聯盟の幹部などはただちに釈放された。

     1992年12月、立法院の総選挙が行われ、国民党員102人、民進党員50人、その他9人が当選した。

     1996年3月、国民の直接選挙で総統(任期4年)が選出された。立候補したのは4人であったが、得票率は、国民党の李登輝が54パーセント、台湾独立聯盟の主席を務めたこともある民進党の彭明敏21.1パーセント、国民党を脱党して無所属で立候補した林洋港14.9パーセント、無所属の陳履安10パーセントであった。

    李登輝総統は、国民党主席でもあったが、「中華民国政府は中国の正統政府である」という虚構を放棄して、中華民国の台湾化を推進したので、国民は彼を「台湾独立派」と見ていた。それで、彭明敏の得票を合わせて「台湾独立派が75パーセントを得票した」と言われたのである。

     総統(大統領)と国会議員が民主的な国民の直接選挙で選出されたのを見て、国際社会は「台湾は民主主義国家になった」と評価するようなった。2000年の総統選挙では、李登輝総統が立候補しなかったので、国民党は副総統だった連戦を総統候補に立てたが、国民党の実力者だった宋楚瑜が脱党して無所属で立候補したために、民進党の陳水扁が39.3パーセントの得票率で総統に当選、宋楚瑜は36.8パーセントの得票で2位、連戦は23.1パーセントで3位に終わった。

     1945年に日本の敗戦で蒋介石政権が台湾を占領して以来、55年ぶりで中国国民党は台湾の支配権を失なったのである。連戦・国民党主席は、李登輝を国民党から除名し、民進党と協力して台湾の民主化を推進してきた李登輝派の国会議員を国民党の指導部から排除した。

    (続く)

      

    0 件のコメント: