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  • 2011年8月14日日曜日

    「台湾の声」【宗像隆幸】米国、中国との冷戦に突入(5−9章)

    米国、中国との冷戦に突入(5−9章)〔2011.8.19校正〕

    国名を台湾共和国に改めて、台湾が国際社会の承認を得る絶好機到来 2011年 6月  宗像隆幸

    http://www.wufi.org.tw/jpninit.html

     5、ニクソン大統領、「中国封じ込め政策」を180度転換   1950年6月25日、ソビエト連邦の援助で軍事力を増強した北朝鮮は、韓国の併合を目指して戦争を開始した。韓国軍は殆ど抵抗する力がなく、南方に敗走した。6月27日、国際連合は韓国を支援して北朝鮮軍を撃退する勧告を採択した。ソビエト連邦は、前年10月1日に建国した中華人民共和国を安保理常任理事国として国連に加盟させ、中華民国を国連から追放する提案が否決されたことに抗議して、国連代表を欠席させていたために、この韓国支援案に対して拒否権を行使できなかったのである。米軍を主力とする国連軍が朝鮮半島に上陸すると、今度は北朝鮮軍が敗走して、中国との国境近くまで追いつめられた。10月25日、北朝鮮軍を助けるために中国軍が参戦し、国連軍と中国・北朝鮮軍の戦争は熾烈をきわめたが、1953年7月23日に休戦協定が成立した。

     朝鮮戦争で中国軍と戦って多数の戦死傷者を出した米国は、「中国封じ込め政策」を採用し、中国の国連加盟を阻止するために、中華民国の国連安全保障理事会常任理事国の地位を擁護した。国連軍と戦った中国を安保理常任理事国として国連に加盟させることには反対も多かったが、中国大陸の寸土も支配していない中華民国が国連で中国を代表する地位を占めているのは明らかに異常であった。

     1960年代の後半になると、米国はベトナム戦争の泥沼にはまり込んでおり、米国の世論はベトナムからの撤退を強く要求していた。1969年1月、ベトナム戦争からの撤退を公約して当選したリチャード・ニクソンが米大統領に就任した。ベトナムに派遣された米軍は増強を重ね、当時は549、500人に達していた。ニクソン大統領は米軍を次第に撤退させたが、全米軍を南ベトナムから撤退させてしまうと、すぐに首都サイゴンまで北ベトナム軍に占領されてしまい、「米軍は負けて逃げた」と嘲笑されることになる。米国の名誉を守って米軍を撤退させるためには、北ベトナムとの休戦協定が必要であった。しかし、勝利を目前にしている北ベトナムが、休戦協定に応じる訳はない。そこでニクソン大統領が考えたのは、中国の力を借りることであった。ベトナムの制海権も制空権も米軍が握っていたから、社会主義諸国からの援助は殆ど中国を通じて陸路で運ばれており、この援助なしには北ベトナムは戦争を続けられなかったからである。中国の協力を得られるように米中関係を改善するためには、「中国封じ込め政策」を転換する事が必要であった。この政策の大転換を決意したニクソン大統領は、ヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を中国に派遣したのである。

      6、まことに不思議な周恩来とキッシンジャーの外交交渉

     1971年7月9日、極秘に訪中したキッシンジャーは、7月11日までに中国の周恩来総理と4回会談を行なった。この会談は、どのような状況下で行なわれたのであろうか。

     当時の世界は、米国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦を中心とする社会主義陣営の冷戦が、第2次世界大戦直後から続いていた。建国直後の中国はソ連邦を兄貴分と仰いでいたが、その後次第に両国の対立が深まり、1969年には国境地帯で中国軍とソ連軍が戦争まで行なっている。世界の2超大国であった米国とソ連の双方を敵にまわした中国は、非常に苦しい情況に置かれていたのである。そればかりではない。毛沢東が1966年に始めた文化大革命によって、中国は内乱状態であった。毛沢東の後継者と定められていた林彪元帥は、毛沢東との対立が深まり、1971年9月13日に軍用機で国外に逃亡する途中、モンゴルの砂漠で墜死した。キッシンジャーは1971年10月20日から29日まで2回目の訪中を行ったが、この事件が起きたのはキッシンジャーの1回目と2回目の訪中の間のことであった。まさしく中国は、存亡の危機に立たされていたのである。

     中国がこのような苦しい情況におかれていた時、米国の方から中国に接近してきたのだから、毛沢東も周恩来も救われた思いであったろう。しかし、本音を隠して交渉することが巧妙な彼等は、決してキッシンジャーにそのような様子を見せなかった。周恩来とキッシンジャーの会談録は、2001年に機密解除され、その日本語訳は『周恩来・キッシンジャー機密会談録』と題して2004年に東京の岩波書店から出版されているので、この本によって2人の交渉を見ることにしよう。

     1971年7月9日に行なわれた最初の会談で、キッシンジャーが「遠くない将来、大統領自身が北京を訪れる事を熱烈に待ち望んでおります」と言ったのを、周恩来は「そのご希望は私たちが意見を交換することによって実現されるだろうと信じています」と、軽く受け流した。そして周恩来は、「第1の問題は台湾問題です」と前置きして、米国が「台湾の地位は未定」という立場をとっていることを非難し、「もし、この肝心な問題が解決されなければ、すべての問題は解決困難になるでしょう」と、米国に従来の方針を転換することを迫った。この年の4月28日にも米国務省のスポークスマンが「台湾の法的地位は未定である」と語ったばかりであったが、キッシンジャーは「今後、米国は台湾の地位未定に言及しない」ことを約束した。この後の会談でも周恩来は、米国が「台湾の地位未定」に言及せぬよう繰り返し念を押している。この約束が、中華民国を国連から追放することになり、台湾を国際社会から孤立させて、今だに台湾問題を未解決のままで放置する原因になったのである。

     初日の会談で周恩来が次に問題にしたのは、台湾独立運動と米国政府の関係であった。「台湾人のですね。我々はこれを支持しません」と、キッシンジャーは台湾人の独立運動を支持しないと言明したが、周恩来は米国政府の一部が台湾独立運動を支持しているのではないかと疑い、「蒋介石が、彭明敏を台湾から逃がしたのはCIAだと大いに文句を言っているのを御存知ありませんか?」と訊ねた。

     台湾大学教授であった彭明敏博士は、1964年に2人の教え子と秘密裏に「台湾自救宣言」を書いて印刷したために叛乱罪で投獄された。しかし、国際的な圧力で仮釈放されて自宅軟禁下におかれていた彭明敏博士は、1970年1月3日、秘密裏に台湾を脱出してスウェーデンに亡命し、9月には米国への入国を認められて、ミシガン大学の客員教授に就任していた。米国でも蒋介石政権の恐怖政治は批判されていたので、米国政府の一部が台湾に民主的政権を樹立しようと策し、そのリーダーとするために彭明敏博士をCIA(米中央情報局)が逃亡させたのではないか、と蒋介石も周恩来も疑ったのである。

     2回目の会談で周恩来は、中国の米国に対する要求を次々に並べた。そして周恩来は、「私たちの間にある問題はとにかく台湾問題です。ほかの問題もありますが、台湾が両者の間の唯一の問題です」と言って、キッシンジャーに回答を要求した。

    キッシンジャーは、彼の要求を次の5項目に整理した。

    ①中華人民共和国を中国の唯一の正当な政府として認めること。②台湾が中国に属することを認めること。③我々が「2つの中国」や「1つの中国、1つの台湾」を支持しないという前提を受け入れること。④台湾独立運動を支持しないこと。⑤今後は決して「台湾の法的地位は未定だ」と言わないこと。

     そしてキッシンジャーは、①はニクソン大統領の再選を待たねばならないが、他の4つは近い将来に実現できると思うと答えて、「台湾は中国の領土であるということですが、他の3点から自ずから出てくることでしょう」と説明した。キッシンジャーは周恩来の要求を丸呑みにしたのであり、これでは「台湾を中国に売り渡す」と言ったに等しい。

    キッシンジャーの周恩来に対する要求は、北ベトナムに休戦協定を受け入れさせることだけである。休戦協定が成立すれば、米軍は一応「名誉ある撤退」を実現できるが、米軍が南ベトナムから引き揚げてしまえば、北ベトナムが何時まで休戦協定を守るか、なんの保障もなかった。米国にとって、米ソ冷戦の中で中国を米国側に引き入れる利点はあったが、2超大国を敵にまわして窮地に立たされていた中国にとって、米国と和解できる利益の方がはるかに大きい。しかも当時の中国は、大量の餓死者を出すほど、経済的に貧窮していたのである。

     一般に外交は、軍事力を中心とする国力と国際情勢を背景に行なわれるから、米国は中国より段違いに有利な立場で外交ができたはずである。しかし、周恩来とキッシンジャーの交渉では、周恩来が非常に有利な立場に立って交渉したかのように見える。まるで立場が逆転しているのである。このようなキッシンジャーが「バランス・オブ・パワーを重視する合理主義者」と評価されたことは、まことに不思議に思われる。

      7、ニクソン政権の大失敗で、台湾問題を解決する絶好機が失われた

     1971年7月15日、米国政府の公告で、キッシンジャー大統領特別補佐官が訪中して中国の周恩来総理と会談を行なった事と、1972年5月以前にニクソン大統領が訪中して両国関係の正常化などについて協議する事が発表された。

     朝鮮戦争以来、20年間も続けられてきた米国の「中国封じ込め政策」が180度転換されたのである。この突然の発表に、世界が大衝撃を受けた。「ニクソン・ショック」である。最大のショックを受けたのは、台湾の蒋介石政権であった。米国の政策転換によって、この秋の国連総会で中国の国連加盟が実現することは明白になった。前年11月に国連総会は、「中華民国に代わって中華人民共和国を安全保障理事会常任理事国として国連に加盟させ、中華民国は国連から追放する」アルバニア決議案を、賛成51票、反対49票、棄権25票で決議した。初めてアルバニア決議案が国連総会で多数を獲得したのであるが、その前にこの決議案を「重要事項」に指定する決議案が過半数で可決されていた。「重要事項」に指定された決議案の可決には3分の2の多数が必要なので、アルバニア決案は否決されたのである。しかし、ニクソン・ショックによって、今秋の国連総会で「重要事項」指定案を通すことは不可能となり、アルバニア決議案が可決されることは明らかであった。

     この決議案はアルバニアが中心になって国連に提出したので、「アルバニア決議案」と呼ばれたが、実際は中国の周恩来総理が執筆したもので、中華人民共和国の加盟と同時に中華民国を国連から追放する事を目的としていた。

     このアルバニア決議案には、「中華人民共和国の代表が、国際連合における中国の唯一の合法的代表であり、蒋介石の代表を国際連合および全ての国際連合関係機関から即時追放する」と書かれていた。国連憲章で「中華民国は安全保障理事会の常任理事国である」と規定されており、国連加盟国の除名には安全保障理事会の勧告が必要である。「中華民国を除名する」と書けば、当事国の中華民国は採決に参加できないが、米国が安保理で拒否権を行使すれば、この決議案は葬られてしまう。だから周恩来は、「蒋介石の代表を追放する」と書いたのである。各国の国連代表の多くは、中国代表権問題をもっぱら「中国を代表するのは中華民国か中華人民共和国か」としか考えず、台湾の代表権がどうなるのかということまでは考えていなかった。

     「蒋介石の代表を追放する」という文章には、「中華民国は中国大陸の領土を失った時点で滅亡したのであり、台湾の法的地位は未定である」という意味が含まれていた。なぜなら、もし台湾が中華民国の領土であれば、中華民国は主権独立国家に必要な領土と人民と政府を持っていることになる。しかし、台湾は中華民国の領土ではないから、中華民国と称しているのは蒋介石を首領とする亡命集団に過ぎないという意味である。

     キッシンジャーが2回目に訪中した時、1971年10月21日の会談で周恩来は、「この決議案の下では、台湾の地位に関する条項を挿入することは不可能です。もしこれが通れば、台湾の地位は未定ということになります。もちろん、アルバニア決議案を支持する国々は、このような側面について考えたことはないでしょう」と語っている。「台湾の地位に関する条項を挿入することは不可能」というのは、もし「台湾は中華人民共和国の領土である」と書けば、台湾の帰属が問題にされて、台湾の地位は未定であることが明らかになってしまうからである。だからこそ周恩来は、「台湾の地位未定」に言及しないことを米国に固く約束させたのだ。続いて中国は、日本など、「台湾の地位未定」を、主張しそうな国々にも同じ約束をさせたのである。国連総会では、「台湾の地位未定」を主張した国はなかったので、周恩来が予想したとおり、殆どの国連代表は「台湾の地位未定」に気づかなかった。

    キッシンジャーは、周恩来の「2つの中国」や「1つの中国、1つの台湾」を支持するなと言う要求を受け入れて、中華民国の国連からの追放に協力したが、1971年8月2日に米国のロジャーズ国務長官は「中国が安保理常任理事国として国連に加盟することは支持するが、中華民国は一般議席に残す」という米国の新しい方針を発表した。大統領特別補佐官と国務省の立場が対立したのである。米国政府は20年間も中華民国の安保理常任理事国の地位を擁護してきたのだから、国務省としては中華民国を一般議席からまで追放することには賛成できなかったのであろう。しかし、米国政府の内部で対立が起きていたのだから、中華民国を国連に残すために十分な努力が行なわれたとは思えない。ロジャーズ国務長官の発言の翌8月3日、蒋介石政権はこの米国の新方針に賛成する旨を国務省に伝えたと言われている。

     蒋介石政権の周書楷外相は、国連総会に出席するために台湾を出発する前の9月13日、蒋政権の幹部たちを集めた会合で、政府の新しい方針を説明して、「国連総会に残ることが重要であり、総会に残れば、北京は入って来ないかもしれないし、例え北京が国連に加盟したとしても、我々は総会にとどまる事が必要だ」と語った。9月14日の台湾の新聞『中国時報』は、社説で「安全保障理事会の議席の得失は、絶対に重要と言うものではない。重要な事は、我々が国連の議席を剥奪されないことだ」と書いた。同じく『聯合報』は、9月15日の社説で「国連は我々にとって非常に重要な財産であり、固守するに値する陣地である。例え、国連を軽々しく脱退したところで、第2の国連を探し出すことはできないのである」と書いた。台湾のマスコミは完全に蒋政権の支配下におかれていたから、これらは蒋政権の意志を代弁したものである。

    もし、米国の国連代表が、「台湾の法的地位は未定だから、中華人民共和国は国連で台湾を代表することはできない。台湾は中華民国の領土ではないが、蒋介石政権は台湾を統治しているのだから、台湾代表として中華民国を一般議席に残すべきである」と主張していたら、国連代表の多数の支持を得られたことであろう。しかし、米国政府は「台湾の法的地位未定」について言及しないと約束していたから、やむを得ず、中華民国の追放を「重要事項」に指定する決議案を出した。しかし、蒋介石政権は中国を追われた後も一貫して「中国大陸は中華民国の領土であり、中国の正当な代表は中華民国である」と主張してきたし、この国連総会でも蒋政権の代表は「中華民国は台湾代表として国連の一般議席に残りたい」と言わなかったので、中華民国を一般議席に残す重要性を理解していない国連代表が多かった。その結果、1971年10月25日、米国が提出した中華民国の追放を「重要事項」に指定する提案は、賛成55票、反対59票、棄権15票で否決された。これでアルバニア決議案が可決されることは確実になったので、蒋政権の代表は退場して、「中華民国は国連から脱退する」と語った。米国の「重要事項」指定案が否決されたのに続いてアルバニア決議案が票決され、賛成76票、反対35票、棄権17票で可決された。周恩来の目的は達成されたのだ。そのために、台湾は国際社会で孤立し、中国は「武力を用いても台湾を統一する」と公然と主張し続けることになり、大戦を招きかねない重大問題として台湾問題が残存することになったのである。

     もし、中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟し、中華民国が一般議席に残っていたら、中国と台湾は別の国家であることが国際社会で公認されたことになり、この時に台湾問題は解決されていたのである。しかも、それは決して困難なことではなかった。

     ニクソン政権が真剣に台湾問題の解決を考えていたら、中国に対して「台湾の地位未定」に言及しないと約束することはなかったであろうし、キッシンジャーを国連総会後に訪中させても良かったのだ。そして米国代表が国連総会で「中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟する事を支持する。しかし、台湾の法的地位は未定であり、中華人民共和国は台湾を代表できないから、現実に台湾を統治している中華民国が一般議席に残る事を支持する」と述べていれば、文句なしに大多数の国連代表の支持を得られたことであろう。

       8、ニクソン大統領が台湾を犠牲にして得たベトナム和平協定は、二年間で破棄された

     1972年2月、ニクソン大統領はキッシンジャーを伴なって訪中し、毛沢東主席と会見した後、周恩来総理と5回会談を行なった。2月28日に発表された米中共同声明には、次のように書かれている。

       中国側は、次のように自己の立場を重ねて明らかにした。台湾問題は、中米両国関係の正常化を妨げているカギとなる問題である。中華人民共和国政府は、中国の唯一の合法政府である。台湾は中国の1つの省であり、早くから祖国に返還されている。

          台湾の解放は中国の内政問題であって、他国には干渉する権利がない。米国のすべての武装力と軍事施設は、台湾から撤去されなければならない。中国政府は、「1つの中国、1つの台湾」、「1つの中国、2つの政府」、「2つの中国」、「台湾独立」を作ること、「台湾帰属未定」を鼓吹することを目的とするいかなる活動にも断固反対する。

       米国側は、次のことを声明した。米国は、台湾海峡両岸のすべての中国人が皆、中国はただ1つであり、台湾は中国の1部であると考えていることを認識した。米国政府は、この立場に異議を申し立てない。米国政府は、中国人自身による台湾問題の平和的解決に対する米国政府の関心を重ねて明らかにする。

    この展望に立って、米国政府は、台湾からすべての米国の武装力と軍事施設を撤去する最終目的を確認する。

     蒋介石政権は、「中国大陸は中華民国の領土であり、台湾はその1部である」と主張していたから、米国政府の「認識」は誤りとはいえないが、それは蒋政権と一緒に台湾に逃がれてきた中国人の立場であり、台湾の人口の87パーセントを占める台湾人の立場はここに書かれていない。しかし、その事実を知らない世界の人々は、「台湾住民はみな台湾は中国の1部であると考えている」と誤解したであろう。4か月前の国連決議に加えて、この米中共同声明が発表されたことで、世界の人々はますます「台湾は中国の1部である」と信じるようになったのである。

    ニクソン大統領の訪中で、遠からずベトナム休戦が実現すると予想されるようになったこともあり、1972年11月の大統領選挙では、ニクソンが大差で再選された。「米国と和平協定を締結せよ」という中国の圧力に、北ベトナムは「溺れかかっている敵に浮き袋を投げてやるようなものだ」と不満を言いながらも、1973年1月27日に和平協定が成立した。ニクソン大統領は、ベトナム戦争の終結を宣言して、残っていた米軍部隊を南ベトナムから撤退させた。しかし、1975年3月、北ベトナムは和平協定を破って南ベトナムに大攻勢をかけ、4月30日に南ベトナム政府は無条件降伏した。ニクソン政権が中国に大きな代償を払って得た和平協定であったが、北ベトナムによる南ベトナムの占領は、わずか2年間延期されただけに過ぎなかったのである。

       9、中華民国の国連からの追放は、台湾独立運動にも大打撃を与えた

     米国が突然、「中国封じ込め政策」から親中国政策に転換した結果、中華人民共和国が安保理常任理事国として国連に加盟したばかりか、中華民国は国連の一般議席まで失なってしまった。これまで米国に同調して中華民国を承認していた国々は、次々と中華人民共和国と国交を結び、中華民国と断交した。国際社会では主権独立国家と見なされなくなって孤立した蒋介石政権は、国内では権力を守るために恐怖政治を強化した。蒋政権は、国際社会では全く通用しない「中華民国は中国を代表する国家である」という虚構を国民に押しつけ、政府に対して批判的な人々を弾圧した。

     これまでよりいっそう苦しい立場に立たされたのは、台湾で民主化運動を行なっている人々だけでなく、海外で台湾独立運動を行なっている人々も同じであった。台湾独立運動の目的は、中国国民党による1党独裁制度である中華民国体制を倒して、台湾に自由で民主的な台湾共和国を創建することだから、台湾独立運動も民主化運動である。

     台湾独立運動者は、次のような理由により、短期間で目的を達成できると考えていた。台湾しか支配していない中華民国が国連で中国を代表している異常事態は長続きするはずがない。中華人民共和国が中国代表として国連に加盟する時、中華民国は一般議席に残されるであろうから、蒋介石政権といえども、台湾の政権であることを認めざるを得なくなる。そうなると、蒋政権と一緒に中国から台湾へ逃れてきた国会議員(立法委員と国民大会代表)を、中国の選挙区を回復するまで改選を延期すると言う理由を押し通す事はできなくなり、台湾で国会議員の全面改選を行なわざるを得なくなる。その結果、人口の13パーセントしか占めていない中国人が、87パーセントの台湾人を支配する中華民国体制は崩壊して、台湾の民主化を実現できる。

     台湾独立運動を短期勝負と考えていた証拠として、日本の台湾青年独立聯盟(1960年に台湾青年社として発足、現在の台湾独立建国聯盟日本本部)の執行委員会が、「まだ結婚していない者は、台湾独立を達成するまで結婚せず、子供も作らない。独立運動に割く時間を奪われるような職業にも就かない」という申し合わせをしたことが挙げられる。 1968年3月、連盟の執行委員だった柳文卿が「留学生として認められた日本滞在期限が切れた」という名目で台湾に強制送還された時、彼と同棲していた女性と幼児までいたことがわかったのだ。柳文卿は執行委員会の申し合わせがあったために、親友にさえこの事を話せなかったのである。

     1960年代に日本、米国、西欧、カナダなどで台湾人留学生によって台湾独立運動が組織された。当時の台湾人留学生の多くは、一般的な留学生のイメージとほど遠い。留学生に対する台湾の家族などからの送金は一切禁止されていた。だから、留学を希望する台湾の若者はあらゆる自由主義諸国の大学の奨学金を申請した。大学か専門学校を卒業して、男性の場合は兵役をすませ、留学試験に合格した者に留学資格が与えられたが、大多数は大学卒だったので、彼等は大学院に留学し、奨学金を得られなかった者は、皿洗いなどのアルバイトをしながら、修士号や博士号を取得したのである。若い知識人の場合、何時、どんな理由で政治犯として投獄されるかわからなかったで、「格子なき牢獄」と言われた台湾から脱出するため、留学に殺到したのだ。蒋政権から留学費用や生活費まで貰って留学した者もいたが、彼等は台湾独立運動など反蒋政権活動を行なう留学生を監視し、特務機関に報告することを義務づけられていたので、「特務留学生」と呼ばれていた。

         日本の台湾青年会(台湾青年独立連盟と改称する前の名称)にも、特務留学生がもぐり込んでいたことがある。1964年7月、その特務を訊問したことが監禁強要罪に問われて、黄昭堂委員長以下7人の幹部が警視庁に逮捕され、26日間拘留されたが、執行猶予つきの軽い刑ですんだ。

     1967年8月、台湾青年独立連盟の幹部2人が「留学生としての滞在期間が切れた」という理由で、入国管理局に収容されて台湾への強制退去処分を命じられたことがある。この時は東京地方裁判所が「強制送還の執行停止」を命じたので、2人は釈放された。蒋介石政権と日本の法務省との取り引きによって、こんな事件が起きたのである。台湾から日本に麻薬を持ち込んで逮捕された者たちは、刑期を終えた後も蒋政権が引き取らなかったので、法務省は困っていた。蒋政権は「もし、台湾独立運動者を強制送還するなら、麻薬犯も引き取る」という条件を出したのだ。そこで法務省は2人を強制送還しようとしたが、裁判所に強制送還を停止されたので、柳文卿の場合は裁判所に介入する時間を与えないために、夕方に拘置した柳文卿を翌朝9時30分発の中華航空機で台湾へ強制送還したのである。この時は裁判所がすぐ強制送還の執行停止命令を出すことがわかっていたので、その時間を稼ぐために黄昭堂委員長以下10人が羽田空港の滑走路に入り、柳文卿を中華航空機に乗せることを阻止しようとしたが、10人とも空港警察に逮捕されてしまった。この時は、法務省のやり方に対する世論の批判が強く、10人は3日間で釈放された。この強制送還は、その後の裁判で「政治犯不引き渡しの原則」を犯す重大な国際法違反であることが問題になったこともあり、その後、日本で台湾独立運動者が強制送還されることはなかった。

     1971年に中華民国が国連から追放された後は、台湾独立運動者たちは独立運動が長期戦になったと判断して、体勢を立て直したのである。

    (続く)

      

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