「台湾の声」【読者来信】「フェスティバル/トーキョー」で王育徳博士を紹介
「フェスティバル/トーキョー」という催しが一昨日から12月8日まで池袋を中心に行われています。
http://festival-tokyo.jp/
その中の一つのプログラム「東京ヘテロトピア」で王育徳博士のことを取り上げているので、お知らせします。
ツアー形式の劇で、ちょっと変わったイベントです。
そのテーマは、東京の中にあった「アジアの独立運動」。
劇場で上演されるのではなく、各自、チケットと引き換えに渡される冊子とラジオを手に、ゆかりの地を訪ねて、そこでラジオの周波数を合せて、流れてくる話に耳を傾けるという趣向。
取り上げる国は、朝鮮、バングラデシュ、台湾、ミャンマー、ネパール、カンボジア、インド、中国、フィリピン、ベトナム。
台湾に関しては、「日本に亡命した言語学者の独立運動家」として王育徳博士を取り上げています。
話を聴く拠点は、池袋から一番近い拠点が、王育徳博士のお墓(要町の祥雲寺)です。
(話の内容は、独立運動よりも、言語学者としてのことにフォーカスしていました)
開催期間は11月9日から12月8日まで。
冊子とラジオは返す必要がなく、期間中は何回でも自分の都合で各拠点を周ることができます。
チケット代4000円(前日までに予約すると500円引き。ペアチケットは10%引き)
チケットセンター 電話予約03-5961-5209 web予約 http://festival-tokyo.jp/
編集部註:
王育徳博士は台湾独立建国聯盟の前身である台湾青年社の創設者です。
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
説明
2013年11月11日月曜日
2013年11月9日土曜日
「台湾の声」【英漢文声明】 Overseas Taiwanese organizations express concern about backsliding of democracy in Taiwan
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「台湾の声」【 11 月 23 日】台湾出身戦歿者慰霊祭と根井洌・台湾協会理事長の講演会
【11月23日】台湾出身戦歿者慰霊祭と根井洌・台湾協会理事長の講演会
靖國神社では戦友会やご遺族による慰霊祭を随時斎行されております。
皆様にはご高承のように、大東亜戦争には約20万名の台湾出身者が軍人・軍属として出征し、30,304名が
尊い命を日本国に捧げられ、現在、靖國神社にはその内の27,864名の方々がご祭神としてお祀りされ、日々
慰霊の誠が捧げられております。
この、台湾出身者を対象とした慰霊祭を、平成17(2005)年12月4日、私ども李登輝学校日本校友会が中心
となり第1回「台湾出身戦歿者慰霊祭」を斎行、その後、皆様のご協賛により平成21年から「永代神楽祭」
となり、以降、毎年11月23日に執り行うこととなりました。
つきましては是非この「永代神楽祭」に是非ご参列いただきますよう、ここに謹んでご案内申し上げます。
また、慰霊祭の後に、台湾協会理事長の根井洌(ねい・きよし)先生より、台湾協会が行っている慰霊祭や
奥多摩町の台湾出身戦没者慰霊碑などについてお話しいただきます。
併せてご参加のほどお願い申し上げます。
平成25(2013)年11月吉日
李登輝学校日本校友会 理事長 天目石要一郎
記
【日 時】 平成25(2013)年11月23日(祝)午後1時45分 靖國神社・参集殿に集合
【会 場】 靖國神社本殿 午後2時 永代神楽祭(昇殿参拝)
東京都千代田区九段北3-1-1 (TEL 03-3261-8326)
【交通】地下鉄 半蔵門線・東西線・都営新宿線 九段下駅(出口1)徒歩8分
都営新宿線 市ヶ谷駅(A4出口)徒歩10分、東京メトロ 有楽町線・南北線 市ヶ谷駅
(出口1=A-1)徒歩10分、JR中央線・総武線 市ヶ谷駅、飯田橋駅(東口)徒歩13分
【講演会】 午後3時〜4時30分 靖國会館 2階 九段の間
【講 師】 根井洌先生(一般財団法人台湾協会理事長)
【演 題】 台湾協会─日台友好の深化を目指して
【参加費】 2,000円(玉串料1,000円、講演会1,000円)
【お申込】 申し込みフォーム、メール、FAXにて
https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/15vq4jb3iotr 【PC用】
https://mailform.mface.jp/m/frms/ritoukijapan/15vq4jb3iotr【携帯用】
E-mail:info@ritouki.jp FAX:03-3868-2101
【主 催】 李登輝学校日本校友会
【後 援】 日本李登輝友の会
【連絡先】 日本李登輝友の会
〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A
TEL:03-3868-2111 FAX:03-3868-2101
E-mail:info@ritouki.jp
ホームページ:http://www.ritouki.jp/
Facebook:http://goo.gl/qQUX1
------------------------------------------------------------------------------
第9回台湾出身戦歿者慰霊祭 参列申込書(いずれかに○をつけてお送り下さい)
・慰霊祭 [ご参列 ご欠席]
・講演会 [ご出席 ご欠席]
・お名前
・お電話
------------------------------------------------------------------------------
李登輝学校日本校友会 事務局 片木裕一
靖國神社では戦友会やご遺族による慰霊祭を随時斎行されております。
皆様にはご高承のように、大東亜戦争には約20万名の台湾出身者が軍人・軍属として出征し、30,304名が
尊い命を日本国に捧げられ、現在、靖國神社にはその内の27,864名の方々がご祭神としてお祀りされ、日々
慰霊の誠が捧げられております。
この、台湾出身者を対象とした慰霊祭を、平成17(2005)年12月4日、私ども李登輝学校日本校友会が中心
となり第1回「台湾出身戦歿者慰霊祭」を斎行、その後、皆様のご協賛により平成21年から「永代神楽祭」
となり、以降、毎年11月23日に執り行うこととなりました。
つきましては是非この「永代神楽祭」に是非ご参列いただきますよう、ここに謹んでご案内申し上げます。
また、慰霊祭の後に、台湾協会理事長の根井洌(ねい・きよし)先生より、台湾協会が行っている慰霊祭や
奥多摩町の台湾出身戦没者慰霊碑などについてお話しいただきます。
併せてご参加のほどお願い申し上げます。
平成25(2013)年11月吉日
李登輝学校日本校友会 理事長 天目石要一郎
記
【日 時】 平成25(2013)年11月23日(祝)午後1時45分 靖國神社・参集殿に集合
【会 場】 靖國神社本殿 午後2時 永代神楽祭(昇殿参拝)
東京都千代田区九段北3-1-1 (TEL 03-3261-8326)
【交通】地下鉄 半蔵門線・東西線・都営新宿線 九段下駅(出口1)徒歩8分
都営新宿線 市ヶ谷駅(A4出口)徒歩10分、東京メトロ 有楽町線・南北線 市ヶ谷駅
(出口1=A-1)徒歩10分、JR中央線・総武線 市ヶ谷駅、飯田橋駅(東口)徒歩13分
【講演会】 午後3時〜4時30分 靖國会館 2階 九段の間
【講 師】 根井洌先生(一般財団法人台湾協会理事長)
【演 題】 台湾協会─日台友好の深化を目指して
【参加費】 2,000円(玉串料1,000円、講演会1,000円)
【お申込】 申し込みフォーム、メール、FAXにて
https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/15vq4jb3iotr 【PC用】
https://mailform.mface.jp/m/frms/ritoukijapan/15vq4jb3iotr【携帯用】
E-mail:info@ritouki.jp FAX:03-3868-2101
【主 催】 李登輝学校日本校友会
【後 援】 日本李登輝友の会
【連絡先】 日本李登輝友の会
〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A
TEL:03-3868-2111 FAX:03-3868-2101
E-mail:info@ritouki.jp
ホームページ:http://www.ritouki.jp/
Facebook:http://goo.gl/qQUX1
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第9回台湾出身戦歿者慰霊祭 参列申込書(いずれかに○をつけてお送り下さい)
・慰霊祭 [ご参列 ご欠席]
・講演会 [ご出席 ご欠席]
・お名前
・お電話
------------------------------------------------------------------------------
李登輝学校日本校友会 事務局 片木裕一
2013年11月8日金曜日
「台湾の声」【傳田晴久の台湾通信】馬祖の旅( 1 )
【傳田晴久の台湾通信】馬祖の旅(1)
◆はじめに
このたび台湾の離島「馬祖」を訪ねるツアーに参加いたしましたので報告させていただ
きます。このツアーは日本李登輝友の会が主催するツアーで、「台湾の達人」片倉佳史さ
んが同行解説してくださるというものです。
私は金門島、澎湖島には行ったことがありますが、馬祖列島にはまだ行ったことがな
く、かねて行ってみたいと思っていたところでしたので、自分の齢を忘れていくことにい
たしました。ご報告したいことがいろいろありますので、2、3回に分けさせていただきま
す。まず初めは「馬祖」の紹介から始めましょう。
◆「馬祖」とは?
右の地図はインターネットからの引用ですが、右下に台湾本島があり、左上の中国との
間に小さな島が下から上に金門、烏?、馬祖列島が並んでいます。我々が訪ねる「馬祖列
島」は福建省連江県にあり、台湾本島の西北方約210kmにありますが、大陸はほんの目と
鼻の先、約10km弱と離れていませんので、晴れている日は対岸がよく見えます。
馬祖列島は5つの大きな島(南竿島、北竿島、西?島、東?島、東引島)で構成され、合
計総面積は約25,000ヘクタールあるが、日本では馬祖列島の事を一括して馬祖島(ばそと
う)と呼んでいます。人口は表敬訪問した県長(県知事)楊綏生氏によれば約12,000人
(除:軍人)と言うことです。
◆馬祖の謂れ
南竿(なんかん)島に天后宮という廟があり、そこに媽祖様が祀られていますが、廟を
紹介するパンフレットに「霊穴傳奇」という項があり、次のような記述があります。
清朝の初め、「使琉球記」に「天妃」は父のために海に身を投じ、亡くなった。連江県
誌には詳細な記述があり、伝説によれば父と兄は船に乗って?江口海域に来たが、突然猛
烈な暴風雨に出合い、船は毀れ、人は溺れた。媽祖は躊躇うことなく海に飛び込み父と兄
を救出したが、大波逆巻き彼女は不幸にも亡くなってしまい、その聖体は漂流し、馬祖の
澳口に漂着した。村民は媽祖を現在の天后宮の霊穴(お墓)に手厚く葬ったという。
伝えられるところによれば、人々は海に入り魚を獲るが、暴風雨になる前夜、あるいは
船が進路を見失ったとき、岸辺に突然火球が出現し、危険を避けて引き返すように漁船を
導くという。この紅の火の玉は媽祖の霊穴から出現するというので、住民はこれを「媽祖
火」または「媽祖燈」と言う。
これで媽祖と馬祖が結び付きましたが、なぜ島の名前が「媽祖」でなく「馬祖」なの
か。これは「重男軽女」(男尊女卑)思想の結果とか、地名に「女偏」が付くのはいけな
いということで、「馬祖」になったと聞きました。
◆今回のツアー行程
今回のツアーの行程を簡単に紹介します。
初日10月24日(木)夕方、台北松山空港から小さな飛行機(ボンバルディア社製約60人
乗り)に乗って馬祖列島の南竿島へ、飛行機は風が強いのかかなり揺れ、少々ひやひやし
ましたが、無事到着。
早速「八八坑道」(もともとは戦車を格納するための坑道であったが、現在は老酒の酒
蔵として利用されている)を見学、老酒の良い香りの歓迎を受け、幸先良いスタートを切
りました。
福澳港に移り、今度は小さな船で北竿(ほくかん)島へ、海はかなり荒れて、猛スピー
ドで飛ばす船は上下に跳ねるようで、スリル満点でした。西の彼方に夕日が沈む景色をゆ
れる船べりにしがみつきながらの鑑賞。北竿島に上陸後、車で夕食をとる龍和餐庁へ、途
中「坂里大宅」に立ち寄り、馬祖特有の石造りの建物を見学。夕食時、自己紹介をし、わ
れら一同初めて本当の仲間となりました。宿泊は「地中海民宿」という洒落た名前の石造
りの民宿でした。
2日目10月25日(金)、朝食前に村の守護神「蛙」の置物などを見物、石造りの集落を、
各所に掲げられる反共スローガンを横目に散策、朝食後「戦争平和紀念公園」を見学、再
び船で南竿島に戻りました。
昼食は九榕閣餐庁で、馬祖国家風景区管理処の皆さんとともに郷土料理をいただきまし
た。午後は「北海坑道」(戦時、哨戒艇基地として花崗岩の壁を人力で削って作った水
道)などの軍事施設を見学しました。四維村で夕陽を鑑賞した後、夕食は依?的店で自家
製の素晴らしく美味しい老酒を呑みながら楽しみました。その後、夫人珈琲でひと時を過
ごしました。
最終日10月26日(土)は朝食に大変美味しいという扁食(ワンタン)を頂き、介寿村付
近を散策、お土産屋を覗いた後、連江県政府を訪ね、県長(県知事)を表敬訪問しました。
昼食後いよいよ最大のお目当て、「媽祖巨神像」を見学に行きました。圧倒されるよう
な媽祖様の像を後に南竿空港から空路台北の松山空港に戻り、解散しました。
◆馬祖列島は別世界
初めて訪ねた馬祖列島(その中の2島のみであるが)を一言で表現するなら、「別世界」
という言葉がぴったりではなかろうか。
いくつかの見聞からそのように感じましたが、まず行政区分では台湾の西北端に位置す
るが、ここでは台湾語は全く通ぜず、もともと「?東語」を話すそうであるが、若者は当
然であるが、お年寄りも北京語を流暢に話す。1949年(中華民国軍が台湾に逃げ込む)以
来、金門、烏?(うきゅう)とともに馬祖は国共内戦の最前線となり、中華民国軍兵士が
大量に常駐し、北京語が日常使われるようになり、島民は北京語を使用しなければ生活が
成り立たず、北京語を話すようになったと言います。
台湾の建物は煉瓦造りが多いが、ここには煉瓦は製造されず、ほとんどの建物は花崗岩
の石造りである。小さな島であるが、地形は凹凸が多く、坂道と階段だらけである。車で
移動する分には構わないが、車を降りてから目的の場所に行くのは大変である。本文の冒
頭に「自分の歳を忘れて云々」と書いたのは、この坂道や階段の存在を知っていれば……
の思いからである。
聞くところによると、当地では酒の製造に関して当局は黙認しているそうで、各餐庁が
それぞれの味がする老酒を作り、ふるまってくれる。北竿島の地中海民宿の老酒、南竿島
の依?的店の老酒を試したが、まったく味が異なり、それぞれ特徴があり、大変おいしか
った。お酒の製造が黙認されているなんて、呑兵衛にとってはまさに天国。
馬祖列島は獣は少ないそうだが、鳥や魚、植物は種類が多く、中には日本との交流をう
かがわせるものもあるという。特筆すべきは絶滅危惧?A類にリストされている「ヒガシ
シナアジサシ(?嘴瑞鳳頭燕?)」という海鳥が馬祖列島に生息していることが確認され
たことです。渡り鳥が南北に移動するとき、馬祖列島はその中間に位置しているので、こ
こでは多くの鳥が観測され、バードウオッチングのメッカとなっています。
馬祖列島の人口は12,000人と聞きましたが、それは戸籍上の話で、実際にそこに居住し
ているかどうかははっきりしないそうです。馬祖にはこれと言った産業も無いので、過疎
が進み、学校を出た若者の多くは台湾本島、台北に行ってしまう。選挙の時には戸籍のあ
るところで投票するので、その時だけ故郷に戻って来るとのことである。
また、馬祖列島には軍隊が駐留しているので、場所によっては民間人より軍人の方が多
いこともあるという。県長に軍人は何人くらいいるかとお聞きしたら、それは「秘密」と
かわされてしまった。
◆おわりに
媽祖は台湾人にとっても馴染みが少ないところだそうである。地理的にも台湾本島より
も中国大陸に近く、交通手段も限られ、要するに、馬祖は行きにくい場所、その理由は春
(3〜5月)は霧が出る、夏は気温が30度以上、秋は台風、冬は風が強く、船もよく欠航に
なる。飛行機は飛ばない可能性が高く、馬祖ツアーは業者もほとんど企画しない。
今回の馬祖の旅は幸いにも天候に恵まれ、素晴らしい体験の連続でした。「台湾の達
人」片倉佳史さんの同行解説によって、多くの知見が得られました。県長さんは我々が帰
るときにたくさんのお土産をくださいました。だからいう訳ではありませんが、皆さん、
機会がありましたら、是非とも馬祖列島を訪問してください。
次の「台湾通信」では媽祖信仰について書きたいと思います。
◆はじめに
このたび台湾の離島「馬祖」を訪ねるツアーに参加いたしましたので報告させていただ
きます。このツアーは日本李登輝友の会が主催するツアーで、「台湾の達人」片倉佳史さ
んが同行解説してくださるというものです。
私は金門島、澎湖島には行ったことがありますが、馬祖列島にはまだ行ったことがな
く、かねて行ってみたいと思っていたところでしたので、自分の齢を忘れていくことにい
たしました。ご報告したいことがいろいろありますので、2、3回に分けさせていただきま
す。まず初めは「馬祖」の紹介から始めましょう。
◆「馬祖」とは?
右の地図はインターネットからの引用ですが、右下に台湾本島があり、左上の中国との
間に小さな島が下から上に金門、烏?、馬祖列島が並んでいます。我々が訪ねる「馬祖列
島」は福建省連江県にあり、台湾本島の西北方約210kmにありますが、大陸はほんの目と
鼻の先、約10km弱と離れていませんので、晴れている日は対岸がよく見えます。
馬祖列島は5つの大きな島(南竿島、北竿島、西?島、東?島、東引島)で構成され、合
計総面積は約25,000ヘクタールあるが、日本では馬祖列島の事を一括して馬祖島(ばそと
う)と呼んでいます。人口は表敬訪問した県長(県知事)楊綏生氏によれば約12,000人
(除:軍人)と言うことです。
◆馬祖の謂れ
南竿(なんかん)島に天后宮という廟があり、そこに媽祖様が祀られていますが、廟を
紹介するパンフレットに「霊穴傳奇」という項があり、次のような記述があります。
清朝の初め、「使琉球記」に「天妃」は父のために海に身を投じ、亡くなった。連江県
誌には詳細な記述があり、伝説によれば父と兄は船に乗って?江口海域に来たが、突然猛
烈な暴風雨に出合い、船は毀れ、人は溺れた。媽祖は躊躇うことなく海に飛び込み父と兄
を救出したが、大波逆巻き彼女は不幸にも亡くなってしまい、その聖体は漂流し、馬祖の
澳口に漂着した。村民は媽祖を現在の天后宮の霊穴(お墓)に手厚く葬ったという。
伝えられるところによれば、人々は海に入り魚を獲るが、暴風雨になる前夜、あるいは
船が進路を見失ったとき、岸辺に突然火球が出現し、危険を避けて引き返すように漁船を
導くという。この紅の火の玉は媽祖の霊穴から出現するというので、住民はこれを「媽祖
火」または「媽祖燈」と言う。
これで媽祖と馬祖が結び付きましたが、なぜ島の名前が「媽祖」でなく「馬祖」なの
か。これは「重男軽女」(男尊女卑)思想の結果とか、地名に「女偏」が付くのはいけな
いということで、「馬祖」になったと聞きました。
◆今回のツアー行程
今回のツアーの行程を簡単に紹介します。
初日10月24日(木)夕方、台北松山空港から小さな飛行機(ボンバルディア社製約60人
乗り)に乗って馬祖列島の南竿島へ、飛行機は風が強いのかかなり揺れ、少々ひやひやし
ましたが、無事到着。
早速「八八坑道」(もともとは戦車を格納するための坑道であったが、現在は老酒の酒
蔵として利用されている)を見学、老酒の良い香りの歓迎を受け、幸先良いスタートを切
りました。
福澳港に移り、今度は小さな船で北竿(ほくかん)島へ、海はかなり荒れて、猛スピー
ドで飛ばす船は上下に跳ねるようで、スリル満点でした。西の彼方に夕日が沈む景色をゆ
れる船べりにしがみつきながらの鑑賞。北竿島に上陸後、車で夕食をとる龍和餐庁へ、途
中「坂里大宅」に立ち寄り、馬祖特有の石造りの建物を見学。夕食時、自己紹介をし、わ
れら一同初めて本当の仲間となりました。宿泊は「地中海民宿」という洒落た名前の石造
りの民宿でした。
2日目10月25日(金)、朝食前に村の守護神「蛙」の置物などを見物、石造りの集落を、
各所に掲げられる反共スローガンを横目に散策、朝食後「戦争平和紀念公園」を見学、再
び船で南竿島に戻りました。
昼食は九榕閣餐庁で、馬祖国家風景区管理処の皆さんとともに郷土料理をいただきまし
た。午後は「北海坑道」(戦時、哨戒艇基地として花崗岩の壁を人力で削って作った水
道)などの軍事施設を見学しました。四維村で夕陽を鑑賞した後、夕食は依?的店で自家
製の素晴らしく美味しい老酒を呑みながら楽しみました。その後、夫人珈琲でひと時を過
ごしました。
最終日10月26日(土)は朝食に大変美味しいという扁食(ワンタン)を頂き、介寿村付
近を散策、お土産屋を覗いた後、連江県政府を訪ね、県長(県知事)を表敬訪問しました。
昼食後いよいよ最大のお目当て、「媽祖巨神像」を見学に行きました。圧倒されるよう
な媽祖様の像を後に南竿空港から空路台北の松山空港に戻り、解散しました。
◆馬祖列島は別世界
初めて訪ねた馬祖列島(その中の2島のみであるが)を一言で表現するなら、「別世界」
という言葉がぴったりではなかろうか。
いくつかの見聞からそのように感じましたが、まず行政区分では台湾の西北端に位置す
るが、ここでは台湾語は全く通ぜず、もともと「?東語」を話すそうであるが、若者は当
然であるが、お年寄りも北京語を流暢に話す。1949年(中華民国軍が台湾に逃げ込む)以
来、金門、烏?(うきゅう)とともに馬祖は国共内戦の最前線となり、中華民国軍兵士が
大量に常駐し、北京語が日常使われるようになり、島民は北京語を使用しなければ生活が
成り立たず、北京語を話すようになったと言います。
台湾の建物は煉瓦造りが多いが、ここには煉瓦は製造されず、ほとんどの建物は花崗岩
の石造りである。小さな島であるが、地形は凹凸が多く、坂道と階段だらけである。車で
移動する分には構わないが、車を降りてから目的の場所に行くのは大変である。本文の冒
頭に「自分の歳を忘れて云々」と書いたのは、この坂道や階段の存在を知っていれば……
の思いからである。
聞くところによると、当地では酒の製造に関して当局は黙認しているそうで、各餐庁が
それぞれの味がする老酒を作り、ふるまってくれる。北竿島の地中海民宿の老酒、南竿島
の依?的店の老酒を試したが、まったく味が異なり、それぞれ特徴があり、大変おいしか
った。お酒の製造が黙認されているなんて、呑兵衛にとってはまさに天国。
馬祖列島は獣は少ないそうだが、鳥や魚、植物は種類が多く、中には日本との交流をう
かがわせるものもあるという。特筆すべきは絶滅危惧?A類にリストされている「ヒガシ
シナアジサシ(?嘴瑞鳳頭燕?)」という海鳥が馬祖列島に生息していることが確認され
たことです。渡り鳥が南北に移動するとき、馬祖列島はその中間に位置しているので、こ
こでは多くの鳥が観測され、バードウオッチングのメッカとなっています。
馬祖列島の人口は12,000人と聞きましたが、それは戸籍上の話で、実際にそこに居住し
ているかどうかははっきりしないそうです。馬祖にはこれと言った産業も無いので、過疎
が進み、学校を出た若者の多くは台湾本島、台北に行ってしまう。選挙の時には戸籍のあ
るところで投票するので、その時だけ故郷に戻って来るとのことである。
また、馬祖列島には軍隊が駐留しているので、場所によっては民間人より軍人の方が多
いこともあるという。県長に軍人は何人くらいいるかとお聞きしたら、それは「秘密」と
かわされてしまった。
◆おわりに
媽祖は台湾人にとっても馴染みが少ないところだそうである。地理的にも台湾本島より
も中国大陸に近く、交通手段も限られ、要するに、馬祖は行きにくい場所、その理由は春
(3〜5月)は霧が出る、夏は気温が30度以上、秋は台風、冬は風が強く、船もよく欠航に
なる。飛行機は飛ばない可能性が高く、馬祖ツアーは業者もほとんど企画しない。
今回の馬祖の旅は幸いにも天候に恵まれ、素晴らしい体験の連続でした。「台湾の達
人」片倉佳史さんの同行解説によって、多くの知見が得られました。県長さんは我々が帰
るときにたくさんのお土産をくださいました。だからいう訳ではありませんが、皆さん、
機会がありましたら、是非とも馬祖列島を訪問してください。
次の「台湾通信」では媽祖信仰について書きたいと思います。
2013年11月7日木曜日
2013年11月6日水曜日
2013年11月5日火曜日
「台湾の声」【岐阜と大阪】台湾関係講演会
【岐阜と大阪】台湾関係講演会
その1.日本李登輝友の会岐阜県支部主催の講演会のご案内
近くて近い国、台湾。日本統治時代まで遡っての変遷と、今の台湾をわかりやすく
お話いただきます。
台湾に興味ある方、台湾のことをもっと知りたい方お待ちしております。
【演 題】 「喜歓(シーファン)台湾、集まれ台湾好き!」
【講 師】 梶山憲一(「な〜ほど・ザ・台湾」元編集長)
【日 時】 11月17日(日)午後2時半開会(5時終了予定)
【会 場】 ハアートフルスクウェアG 2階研修室50(JR岐阜駅東隣)
【参加費】 無料
【主 催】 日本李登輝友の会 岐阜県支部
http://homepage3.nifty.com/ritouki-gifu/
【後 援】 岐阜市
【事務局】 〒502−0850 岐阜市鷺山東2-14-21
電話:058-294-9175 FAX:058-294-9176
【特 典】 先着50名様にDVD無料進呈
☆講演終了後、付近で懇親会を開催します。会費4,000円程度。
その2. 第32回日本と台湾を考える集いのご案内
【日 時】 平成25年11月30日(土)午後1時開場 1時半開始
【会 場】 大阪市立難波市民学習センター第2研修室OCATビル4階
http://www.osakademanabu.com/namba/
【講 師】 酒井 亨氏 金沢学院大学准教授 「台湾人が好きな日本:今で
しょ!」(仮題)
【参加費】 一般1,000円、学生は500円。
【主 催】 日本と台湾を考える集い
メール管理者(事務局副代表)近 藤 080-1403-3578
http://tsudoi-jptw.jimdo.com/
【申 込】 http://goo.gl/0RFwrh のフォーマットに入力してください。
【懇親会】 終了後、551パンチャン蓬莱で希望者により行います。会費2,500円程度。
☆講師紹介
石川県金沢市出身、早稲田大学政治経済学部卒業、台湾大学法学研究科修士
課程修了。
共同通信社記者を経て、2000年から約10年間台湾に在住し、フリージャーナリス
トとして 東アジアや中東の政治、経済、文化について雑誌記事、単著を発表。
2010年度後期神戸大学大学院国際協力研究科客員教授を務め、現在は金沢
学院大学准教授。
「むじな@金沢よろず批評ブログ」で台湾、国際情勢、アニメなどについて情報
発信している。 → http://blog.goo.ne.jp/mujinatw
台湾に関する著作は多数。今月刊行される以下の二冊については会場にて頒布予定。
休憩及び終了後にサインしていただけます。
・『中韓以外、みーんな親日〜クールジャパンが世界を席巻中〜』 (ワニブックスPLUS新書)
ワニブックス ¥882。
・『アジア 反日と親日の正体』(イースト新書) イースト・プレス(2013/10/10) ¥966。
その1.日本李登輝友の会岐阜県支部主催の講演会のご案内
近くて近い国、台湾。日本統治時代まで遡っての変遷と、今の台湾をわかりやすく
お話いただきます。
台湾に興味ある方、台湾のことをもっと知りたい方お待ちしております。
【演 題】 「喜歓(シーファン)台湾、集まれ台湾好き!」
【講 師】 梶山憲一(「な〜ほど・ザ・台湾」元編集長)
【日 時】 11月17日(日)午後2時半開会(5時終了予定)
【会 場】 ハアートフルスクウェアG 2階研修室50(JR岐阜駅東隣)
【参加費】 無料
【主 催】 日本李登輝友の会 岐阜県支部
http://homepage3.nifty.com/ritouki-gifu/
【後 援】 岐阜市
【事務局】 〒502−0850 岐阜市鷺山東2-14-21
電話:058-294-9175 FAX:058-294-9176
【特 典】 先着50名様にDVD無料進呈
☆講演終了後、付近で懇親会を開催します。会費4,000円程度。
その2. 第32回日本と台湾を考える集いのご案内
【日 時】 平成25年11月30日(土)午後1時開場 1時半開始
【会 場】 大阪市立難波市民学習センター第2研修室OCATビル4階
http://www.osakademanabu.com/namba/
【講 師】 酒井 亨氏 金沢学院大学准教授 「台湾人が好きな日本:今で
しょ!」(仮題)
【参加費】 一般1,000円、学生は500円。
【主 催】 日本と台湾を考える集い
メール管理者(事務局副代表)近 藤 080-1403-3578
http://tsudoi-jptw.jimdo.com/
【申 込】 http://goo.gl/0RFwrh のフォーマットに入力してください。
【懇親会】 終了後、551パンチャン蓬莱で希望者により行います。会費2,500円程度。
☆講師紹介
石川県金沢市出身、早稲田大学政治経済学部卒業、台湾大学法学研究科修士
課程修了。
共同通信社記者を経て、2000年から約10年間台湾に在住し、フリージャーナリス
トとして 東アジアや中東の政治、経済、文化について雑誌記事、単著を発表。
2010年度後期神戸大学大学院国際協力研究科客員教授を務め、現在は金沢
学院大学准教授。
「むじな@金沢よろず批評ブログ」で台湾、国際情勢、アニメなどについて情報
発信している。 → http://blog.goo.ne.jp/mujinatw
台湾に関する著作は多数。今月刊行される以下の二冊については会場にて頒布予定。
休憩及び終了後にサインしていただけます。
・『中韓以外、みーんな親日〜クールジャパンが世界を席巻中〜』 (ワニブックスPLUS新書)
ワニブックス ¥882。
・『アジア 反日と親日の正体』(イースト新書) イースト・プレス(2013/10/10) ¥966。
2013年11月4日月曜日
「台湾の声」【英語で発信を】戦後日本を支えた大東亜戦争の遺産
【英語で発信を】戦後日本を支えた大東亜戦争の遺産(江崎道朗)
「史実を世界に発信する会」 茂木弘道
今から70年前の昭和18年11月5日、6日に国会議事堂で世界史上初の有色人種による人種平等サミットが開かれました。参加国は、日本のほか中華民国(南京政権)、タイ国、満洲国、フィリピン、ビルマ、インド(仮政府)
です。インドネシアはまだ独立への体制が整わず、参加できませんでした。(日本政府は翌19年の9月にインドネシア独立を決定しています。)
この会議を傀儡政権を集めたものと切り捨てる人がいますが、各国代表の堂々たる、そして熱烈なアジア独立を訴える演説を一度でも読んだことがあるのでしょうか。読みもせず、そんなことを言っているのは、精神的に欧米の「傀儡」もしくは、既成観念の奴隷になっているということを知っていただきたいものです。
さて、江崎さんのこの論文は、大東亜戦争はアジアの独立をもたらしたことは言うまでもなく、日本は戦後その恩恵をアジア色から受けているのだ、ということも述べています。
何よりの皮肉は、日本を侵略国家であると断罪した「東京裁判」が行われている正にその時に、日本が解放したアジアを軍事侵略していたということです。
オランダはイギリスのバックアップにより、インドネシアに再襲来し、日本が育てたペタを中核とする独立軍と何と3年半も戦い、多くの犠牲者を出したのですが、その時東京裁判ではオランダ・イギリスを含む連合軍が、何と日本を「侵略者」として裁いていたのでした。
この江崎論文は、最初『別冊正論』第10号に「東京裁判克服もうひとつの意義」と題して掲載されたものですが、『コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾』(展転社)に掲記タイトルで収録されたものです。
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Legacies.pdf
英訳版を下記の通り英語版サイトに掲載し、NewsletterNo.61で海外に広く発信しました。
Legacy of the Greater East Asia War that Supports Postwar Japan
by EZAKI Michio, political analyst
November 1st, 2013
Mr. EZAKI Michio, writes that turmoil and conflict in Asia did not end with the Greater East Asia War in August 1945. Japan forcibly ended foreign colonialism in Asia and Asians declared independence, yet Europeans and Americans rush in to fill the void at the end of the War. As an ironic twist, Mr. Ezaki points out that while Europe and America were reasserting their supremacy over their former colonies, with countless Asian lives being lost in the process, Japan was accused of being an "aggressor" and tried for "crimes against peace" at the Tokyo Trials.
For those who have forgotten, Mr. Ezaki reiterates how the indigenous Asian peoples rejoiced upon the arrival of the Japanese and the departure of the Americans and Europeans. For example, leaders of post-war India and Indonesia have expressed their appreciation of the Japanese in training and arming their people. Furthermore, Mr. Ezaki describes how, after the end of the Greater East Asia War, the Allies waged their own "aggressive war" against Asia. The murderous attempts by the Dutch to reclaim Indonesia as its colony, what they called "police actions," were merely a different shade of "aggressive war".
After three and a half years of conflict, between an ill-equipped Indonesia militia against modern European military machines (of the British as well as the Dutch), hundreds of thousands of Indonesian lives were lost. As if the lives lost and property destroyed were not enough, the Dutch audaciously sued the Indonesians for damages as the price for independence. It was not until 2005 that the Dutch finally recognized Indonesia's 1945 Declaration of Independence.
*Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S2.pdf
*Full text: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S4.pdf
*Author profile: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S3.pdf
MOTEKI Hiromichi, Secretary General
for KASE Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact
Phone: 03-3519-4366
Fax: 03-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com
「史実を世界に発信する会」 茂木弘道
今から70年前の昭和18年11月5日、6日に国会議事堂で世界史上初の有色人種による人種平等サミットが開かれました。参加国は、日本のほか中華民国(南京政権)、タイ国、満洲国、フィリピン、ビルマ、インド(仮政府)
です。インドネシアはまだ独立への体制が整わず、参加できませんでした。(日本政府は翌19年の9月にインドネシア独立を決定しています。)
この会議を傀儡政権を集めたものと切り捨てる人がいますが、各国代表の堂々たる、そして熱烈なアジア独立を訴える演説を一度でも読んだことがあるのでしょうか。読みもせず、そんなことを言っているのは、精神的に欧米の「傀儡」もしくは、既成観念の奴隷になっているということを知っていただきたいものです。
さて、江崎さんのこの論文は、大東亜戦争はアジアの独立をもたらしたことは言うまでもなく、日本は戦後その恩恵をアジア色から受けているのだ、ということも述べています。
何よりの皮肉は、日本を侵略国家であると断罪した「東京裁判」が行われている正にその時に、日本が解放したアジアを軍事侵略していたということです。
オランダはイギリスのバックアップにより、インドネシアに再襲来し、日本が育てたペタを中核とする独立軍と何と3年半も戦い、多くの犠牲者を出したのですが、その時東京裁判ではオランダ・イギリスを含む連合軍が、何と日本を「侵略者」として裁いていたのでした。
この江崎論文は、最初『別冊正論』第10号に「東京裁判克服もうひとつの意義」と題して掲載されたものですが、『コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾』(展転社)に掲記タイトルで収録されたものです。
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Legacies.pdf
英訳版を下記の通り英語版サイトに掲載し、NewsletterNo.61で海外に広く発信しました。
Legacy of the Greater East Asia War that Supports Postwar Japan
by EZAKI Michio, political analyst
November 1st, 2013
Mr. EZAKI Michio, writes that turmoil and conflict in Asia did not end with the Greater East Asia War in August 1945. Japan forcibly ended foreign colonialism in Asia and Asians declared independence, yet Europeans and Americans rush in to fill the void at the end of the War. As an ironic twist, Mr. Ezaki points out that while Europe and America were reasserting their supremacy over their former colonies, with countless Asian lives being lost in the process, Japan was accused of being an "aggressor" and tried for "crimes against peace" at the Tokyo Trials.
For those who have forgotten, Mr. Ezaki reiterates how the indigenous Asian peoples rejoiced upon the arrival of the Japanese and the departure of the Americans and Europeans. For example, leaders of post-war India and Indonesia have expressed their appreciation of the Japanese in training and arming their people. Furthermore, Mr. Ezaki describes how, after the end of the Greater East Asia War, the Allies waged their own "aggressive war" against Asia. The murderous attempts by the Dutch to reclaim Indonesia as its colony, what they called "police actions," were merely a different shade of "aggressive war".
After three and a half years of conflict, between an ill-equipped Indonesia militia against modern European military machines (of the British as well as the Dutch), hundreds of thousands of Indonesian lives were lost. As if the lives lost and property destroyed were not enough, the Dutch audaciously sued the Indonesians for damages as the price for independence. It was not until 2005 that the Dutch finally recognized Indonesia's 1945 Declaration of Independence.
*Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S2.pdf
*Full text: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S4.pdf
*Author profile: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/102_S3.pdf
MOTEKI Hiromichi, Secretary General
for KASE Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact
Phone: 03-3519-4366
Fax: 03-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com
2013年11月3日日曜日
2013年11月2日土曜日
2013年11月1日金曜日
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