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  • 2014年8月10日日曜日

    「台湾の声」【講演録】台湾の「日本精神」から見た日台関係 

    【講演録】台湾の「日本精神」から見た日台関係 

    戎 義俊(台北駐福岡経済文化弁事処処長)

     

    熊本ロータリークラブ「週報No.48 6月13日分」より
     http://kumamotorc.otemo-yan.net/e852532.html

                      ◇  ◇  ◇

    戎義俊(えびす・よしとし)1953年生まれ。76年、輔仁大学日本語科卒業。85年、慶応義塾大学修
    士課程修了。2013年3月31日から台北駐福岡経済文化弁事処処長。

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    一、日本と台湾の結びつき

     半世紀にわたった台湾の日本統治時代。「蓬莱(ほうらい)の島」、そして「美麗島(びれいと
    う)」と呼ばれた台湾で日本人と台湾人がともに過ごした日々の歴史遺産は今も人々に親しまれ、
    台湾に息づいています。

     日本と台湾、その結び付きが大変強いことは言うまでもありません。日本から台湾へ向かう渡航
    者は年間140万人を超え、台湾から日本を訪れる渡航者は2013年度の実績で230万を数えます。台湾
    の人口が2,300万人余りである事を考えれば、その数の多さが分かるでしょう。往来の多さだけで
    なく、心と心の結び付きが強いともよく言われます。東日本大震災の時に巨額の義援金が台湾から
    送られたことや、インターネットを通じての被災地応援のメッセージなど、日台の結び付きは想像
    を超えるものがあると言っていいと思います。

    二、「日本精神」は台湾では固有名詞として定着している

     最近、台湾で『KANO』という映画が大ヒットしています。KANOこと嘉農は正式名称を嘉
    義農林学校といい、1931年、台湾代表として甲子園に初出場、準優勝を果たした野球部のことで
    す。映画は史実を基につくられており、日本人、本島人(台湾人)、そして原住民からなるチーム
    を一つにまとめ上げ、当初は弱小だったチームを生まれ変わらせた指導者・近藤兵太郎監督の立派
    な人物像が描かれています。近藤監督役を演じているのは、日本の俳優・永瀬正敏さんです。

      『KANO』を通して、日本の教育は素晴らしかったという事が分かりました。「日本の植民
    地時代を美化しすぎている」という批判もありましたが、台湾が中国に呑み込まれようとしている
    現在、台湾人が顧みるべきは、この映画で描かれているような「日本精神」であります。この「日
    本精神」に触れる事を通して、台湾人は中華思想の呪縛から改めて脱し、「公」と「私」を区別す
    る武士道的な倫理に基づいた民主社会を確立しなければなりません。「台湾人も日本人もこの映画
    を見るべきだ」と思い、私からおすすめさせていただきます。

     「日本精神」とは台湾人が好んで用いる言葉で「勇気」「誠実」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」
    「責任感」「遵法」「清潔」といった精神をさす言葉です。日本統治時代に台湾人が学び、ある意
    味、台湾で純粋培養された精神として、台湾人が自らの誇りとしたものであります。「日本精神」
    すなわち大和魂は「●命(ビヤミア)」「全力を尽くして事に当たる」「命を懸けて行動する」こ
    との象徴です。「●」は台湾語で「全力を尽くす」の意味で、「打●」というと「倦(う)まずた
    ゆまず頑張る」すなわち「勤勉」に通じる言葉であります。
    (●=手偏に弁)

     日本の近代教育を受けた台湾人が戦後、目にしたものは中国文化ですが、この時、台湾人は「日
    本精神」の優位性を見出(みいだ)したのです。そして自ら選んで「大和魂」で精神武装し、内外
    の厳しい環境を生きようとしているのです。彼らの「大和魂」はひとつの生活の知恵であり、台湾
    人の魂として生き続ける新たな精神文化なのであります。

     教育によって台湾に浸透した「日本精神」があったからこそ、台湾は中国文化に呑み込まれず、
    戦後の近代社会を確立できたと考えられます。私の母は、昔の日本人の先生は、この日本精神で接
    してくれたと言いました。だから私たちも多少なりともその日本精神というものに染まっているの
    です。

    三、「日本精神」を体現した人物

     台湾の農業改革で大きな貢献をした水利技術者の八田与一のことを台湾で知らない人はいませ
    ん。八田先生は干ばつが頻発していた台湾南部の嘉南平野を徹底的に調査し、灌漑設備が不足して
    いることを指摘して、当時としては世界最大規模である「烏山頭ダム」の建設事業を指揮しまし
    た。

     その後、フィリピンでの灌漑調査のために乗った船が米潜水艦に撃沈されて八田先生は亡くなり
    ましたが、遺骨は台湾に戻り、烏山頭ダムのほとりに眠っています。ダムのほとりの八田先生の銅
    像とお墓は今では国が整備した公園となって、国民から親しまれています。

     日本は1895年4月に台湾総督府を開庁し、そのわずか3ヶ月後の7月に、「教育こそ最優先すべき
    である」として台北郊外の芝山巖というところに最初の国語学校(日本語学校)「芝山巖学堂」を
    開校しました。現在では芝山巖は台湾教育発祥の地とされ、「六氏先生」の慰霊碑が建立されてい
    ます。

     「六氏先生」というのは、匪族に襲われて殺された6人の日本人教師のことです。危ないことが
    分かりながらも決して逃げる事のなかった教師たちの責任感と勇気は、教育者としての模範と受け
    止められ、多くの人から敬(うやま)われました。戦前の日本人は勇気と責任感を持ち、「六氏先
    生」はその象徴的存在でありました。この「勇気と責任感」こそ、日本人が台湾で尊敬された最大
    の理由であると私は思っています。

     「日本精神」というものを究極にするのならば「勇気と責任感」に集約されるのではないかと
    常々思うのです。教育に命をかけた「六氏先生」の話は台湾ではよく知られ、慰霊碑には今も献花
    が絶えません。

     「八田与一先生」「六氏先生」、他にも台湾のために自らを犠牲にした方々が大勢おられます。
    彼らに共通するのは「日本精神」を体現した人物であるということです。

     これから、日本にも台湾にも、この「日本精神」が脈々と継承され、そしてお互いにますます輝
    いてもらいたいと祈願します。

    四、昔の日本人は素晴らしかった

    (一)研究熱心

     日本人がすごいところは、何かを研究する時にとことんやることです。何かを真似する時には、
    日本人はそれを自分のものにして、更に改良を加えてまた別のものを作ってしまいます。しかし、
    台湾人は見た目だけしか真似できません。外観だけ真似をして、あとは出来るだけ手抜きをするの
    です。

     日本人は違います。これはいいと思ったら、グループで一生懸命研究して、その原理を求めて、
    自分でまたそれに基づいて研究を進めて、更に別のものを作るのです。そこのところが私は立派だ
    と思います。

     それから、日本人はお金と時間をかけてでも新しいものにチャレンジします。そして、もう一つ
    私が立派だと思うことは、日本人はチャレンジしたものを公にして皆で研究します。昔の日本人
    は、緊急時には皆で力を合わせて、一つのものを四つに分けて、みんなで頂いたものです。自分だ
    けがいっぱい得られればよい、自分だけが大きくなりたい、餓死したくない、という人は少なかっ
    たのです。台湾人も苦労してでも、一口のものを半口に減らしてでも人にあげます。

    (二)けじめを重んじる

     それから、日本人は「けじめ」を重んじます。「はい」といった事は最後まで全うします。日本
    人は、必ず約束を守ります。そういうふうに私たちは日本人を見てきたのです。

    (三)素朴な宗教心がある

     昔の日本人が素晴らしかったのは、前の代の教え方が良かったからではないかと思います。つま
    り、当時の日本人にも更に昔の日本人にも、いわゆる儒教の精神が生きていました。特定の宗教と
    いうより、生かされていることをお天道(てんとう)様に感謝し、お天道様に恥じないように生き
    ようという素朴な宗教心があったからこそ、昔の日本人は素晴らしかったのだと思います。

    五、今日における日本の若者の問題点

    (一)今の日本の問題点は、平和すぎて将来に対する夢がないことなど色々ありますが、一番の
    問題点は、日本人には、生かされていることに感謝するという素朴な宗教心がないことではないで
    しょうか。だから自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのかが分からないのではないでしょ
    うか。

    (二)今の日本の青年は裕福すぎて考えが甘くなっているのではないかと思います。今の日本の若
    者は感謝を知りません。喜びを知りません。今、自分がこんなに幸せな国家に住んでいるのにそれ
    を当たり前と思ってしまい、幸せを幸せと思えないのです。正にこれこそが不幸なことではないで
    しょうか。単一国家でやってきた日本人に生まれたことを、日本の方々は心から感謝しなければな
    らないと思います。

    この世界には、国を二つにされた経験を持つ国家というものがほとんどですけれど、日本だけが
    二つにされていないのです。戦国時代といった内乱はありましたが、外国から二つにされた経験は
    ないのです。例えば、中国は八つに分かれていました。ドイツは東西、朝鮮は南北、ベトナムも南
    北です。私たち台湾人にいたっては、一時、国籍のない人間という立場に立たされていたのです。
    ですから、皆さんは日本人であることに感謝し日本という国を大切にして欲しいと心から願いま
    す。

    六、台湾と日本、二つとも立派になってほしい

    いつも日本の地図を見ていてつくづく思うことがあります。自然の神様は国の形でその国の生き
    方を教えているのではないかと。ある時にふと地図を逆(さか)さにして見ると、日本が龍に見え
    る、そして台湾はまるで龍を踊らせている火の玉のようだと思いました。この時、この日本という
    龍について行けば東洋は立派になるんだなと思いました。台湾と日本は同じ火山脈(かざんみゃ
    く)でつながれていて、切っても切れない強い強いつながりがあるのです。

     日本がしっかりしなければ、東洋には平和は来ないと私はずっと信じています。日本の経済がよ
    くならないと、世界の少なくともこの東洋の経済は良くなりません。日本という国が強く立派に
    なったら、台湾も立派になります。日本の経済が立ったら台湾の経済も良くなります。そして台湾
    が良くなったら日本も更に伸びます。

     日本と台湾、二つとも立派になって欲しい—これが私の心からの願いです。日本の皆さんが本当
    に自信を取り戻して、日本のために努力をして欲しいと思います。もちろん台湾も努力を続け、お
    天道様から見られても恥ずかしくないように立派な国を作っていきたいと思っています。日本と台
    湾、これからもお互いに切磋琢磨してまいりましょう。

    ◆台湾の近代化のインフラ整備のため犠牲になった6名の日本人

     今から100年少し前、日本統治時代と呼ばれる1895年からの50年間、かなりの日本人がフォルモ
    サ・麗しき島と呼ばれていた台湾に渡りました。

     1898年、第4代総督児玉源太郎の民政長官として赴任した後藤新平が台湾で行った近代化政策
    は、「生物学の原則に従う」ものでした。元来医者であった後藤は、新領土の社会を一つの生命体
    として捉え、生き生きとした生命力を引き出す進め方を選択しました。台湾の社会風俗などの調査
    を行い、その結果をもとに政策を立案していきました。

     その具体策として後藤は、台湾の人々の暮らしを豊かにする産業を興すと同時に、港湾、鉄道、
    道路、上下水道など基本的なインフラの整備に総力を結集しました。そのために内地から各分野で
    最も優れた人材が呼ばれました。

                     (「台湾の礎を築いた日本人たち・緒方英樹著」より抜粋)

     これから申し上げる6名の日本人は、自らの命を台湾のインフラ整備のために捧げ、犠牲となら
    れた方々です。ここで簡略に6人の物語を紹介します。

    1 八田與一

     まず始めに「八田與一」技師です。1886年に石川県金沢市で生まれた土木技術者で、1910年、24
    歳で台湾に渡りました。

     34歳から10年の歳月をかけて台湾南部の烏山頭に当時東洋一といわれた烏山頭ダムを作り、15万
    ヘクタールの嘉南平原に灌漑用の水路を張りめぐらせ、不毛の地と呼ばれていた平原を台湾最大の
    穀倉地帯にかえました。その灌漑用水路の長さは16,000!)(地球半周分の長さ)に及び、日常的な
    生活用水にも困り苦しんでいた60万人を超える農民の生活を助けました。

     ダム完成の一年後には、作業着姿の八田与一の銅像が人々によってダムを見下ろす丘の上に設置
    され、その功績と精神は後世に伝えられています。

     八田は、その後も台湾各地で産業開発に参画していましたが、1942年、南方開発派遣要員として
    船でフィリピンに向かう途中、アメリカ海軍潜水艦に撃沈され56歳で亡くなり、遺骨は台湾に戻り
    ました。

     その3年後、終戦をむかえた年の1945年9月1日、32年間八田と暮らした烏山頭で妻の外代喜(と
    よき)夫人は夫の後を追うように烏山頭ダムの放水口に身を投げました。享年45歳でした。八田の
    銅像の後方には夫妻の墓碑が建てられ、ダム湖のほとりで烏山頭ダムを見守っています。

     八田の命日の毎年5月8日には地元の人によって慰霊祭が催され、近年建設された八田記念公園に
    は、外代喜(とよき)夫人の銅像も設置されました。その除幕式には八田技師の長男の嫁にあたる
    女性が一族を代表して出席されるなど、交流は脈々と受け継がれています。

    2 末永仁

     2人目に「末永仁(すえながめぐむ)」技師です。

     1886年に福岡県の旧筑紫郡で生まれました。1910年、23歳で台湾に渡り、台中の試験農場で「台
    湾蓬莱米」の開発改良に心血を注ぎ、自己を顧みず台湾のために尽くされました。1937年からはボ
    ルネオ島のサラワク王国に招かれ稲作指導を行っていましたが、指導に邁進するあまり滞在中に結
    核を患い、1939年台湾に戻りました。

     その後、台湾での作業中に実験田で倒れ療養を続けましたが、同じ年の1939年12月に53歳でこの
    世を去りました。

     台湾の風土に適した台湾蓬莱米を開発し台湾の農業を大きく変えた末永技師は「台湾蓬莱米の
    母」といわれ、台中農事試験場内には、胸像が建てられています。また、出身地である福岡県の農
    業試験場農業資料館と、大分県の大分県立三重総合高等学校にも胸像が設置されています。

    3 飯田豊二

     3人目は「飯田豊二」技師です。

     1873年に静岡県で生まれました。1911年38歳の時、台湾南部の高雄と屏東の境を流れる高屏渓に
    かける下淡水渓(かたんすいけい)鉄橋を設計し架設工事に携わりました。

     工事中に何度も見舞われた豪雨や増水の対処や、寝食を忘れるほど仕事に没頭し続けた結果、下
    淡水渓(かたんすいけい)鉄橋の完成を目前に過労による病(マラリア)に倒れてしまい、1913年
    の6月に、鉄橋の完成を見ることなく40歳で亡くなりました。彼の功績を讃えて建てられた飯田技
    師の記念碑は、今でも下淡水渓(かたんすいけい)鉄橋を見守り続けています。

    4 進藤熊之助

     4人目は「進藤熊之助」技師です。

     1874年に茨城県で生まれました。1899年、25歳で台湾に渡り、大変困難を極めた阿里山森林鉄道
    の測量と建設に携わり情熱を傾けました。その優秀な仕事ぶりが認められ、阿里山作業所の技手
    (ぎて)から技師に昇格するも、1914年2月に、鉄道修復工事中に材木運搬車が脱線して重傷を
    負ってしまい、数日後に息を引き取りました。40歳でした。

     彼は、優れた技術を持つだけでなく誠実で勤勉な技術者であり、私利私情を捨てた働きは多くの
    人の心を打ち、その功績を讃えるために350人の有志によって寄付金が集められ、嘉義公園内に記
    念碑が建てられました。

    5 松木幹一郎

     5人目は、「松木幹一郎(まつきかんいちろう)」です。

     1872年、愛媛県で生まれました。後藤新平の信頼が篤く、1929年57歳で台湾電力の社長に就任
    し、中断していた日月潭の水力発電事業を再開させ、精力的に水力発電工事に携わりました。自ら
    歩き回って実地調査を行い、ついに1934年、当時アジア最大の発電量となる水力発電所を完成させ
    ました。

     日月潭第一発電所と第二発電所の完成のため尽力し、1939年、67歳の時に、脳溢血で急逝しまし
    た。過労といわれています。1年後の1940年には、その功績を讃えて日月潭に銅像が建てられまし
    た(戦時の金属供出により銅像は失われ、現在の胸像は新しいもの)。

     後に日月潭第一発電所は大観水力発電所と改名され、その発電量は現在でも台湾の水力発電全体
    の半分以上を占め、この発電所がなければ今の台湾はないと語り継がれており、「台湾電力の父」
    といわれています。

    6 明石元二郎

     6人目は「明石元二郎(あかしもとじろう)」です。

     1864年、福岡県で生まれました。1918年に第7代台湾総督となり、亡くなるまでの1年4ヶ月の在
    任中に台湾電力株式会社を設立し、水力発電所の計画を立案、調査に着手しました。また、日本人
    と台湾人の共学制を採用するなどの教育改革や南北縦貫道路や鉄道の充実など後の台湾の発展に欠
    かせない大きな業績を残しました。

     しかし1919年7月、公務で日本に渡る洋上で病に倒れ、郷里の福岡で55歳で亡くなりました。明
    石の遺骸は「もし自分の身に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るように」との遺言通り、福岡
    から台湾にわざわざ移され、現在も台湾に眠っています。

     明石が短期間の在任中に着手した日月潭水力発電事業は、第一次世界大戦による経済不況や関東
    大震災による影響で10年間中断されていましたが、先に述べました松木幹一郎によって再興され16
    年がかりで達成され、台湾の工業化を促しました。日月潭水力発電は、1898年から1906年までの8
    年8ヶ月間、民政長官として台湾の土台を築いてきた後藤新平が描く台湾インフラ整備のクライ
    マックスともいえる大事業でありました。

    ◆台湾の教育のために犠牲になった6名の教師

     これまで台湾の近代化のインフラ整備のため自己を顧みず犠牲になった6名の日本の方々の物語
    について紹介しましたが、備考としてインフラ整備のためでなく台湾の教育のために犠牲になった
    6名の教師を紹介します。

     「六氏先生」というのは、日本統治が始まってすぐの1895年7月、「教育こそ最優先すべき」と
    台湾に設立された小学校「芝山巖学堂(しざんがんがくどう)」で、抗日事件により殺害された6
    人の日本人教師、楫取(かとり)道明(山口県出身38歳)・関口長太郎(愛知県出身37歳)・中島
    長吉(群馬県出身25歳)・桂金太郎(東京都出身27歳)・井原順之助(山口県出身23歳)・平井数
    馬(熊本県出身17歳)のことです。

     当時の台湾では日本統治に反対する勢力が激しい抵抗を続けていました。芝山巖も決して安全な
    場所ではなく、叛乱勢力による暴動が頻発すると、周辺の住民たちは繰り返し避難を勧めました。
    しかし彼らは避難せず、死を覚悟した上で教育者として説得にあたることを選び、1896年1月1
    日、6名の教師と用務員1名が約100人のゲリラによって惨殺されたのです。

     危ないことが分かりながら決して逃げる事のなかった教師たちの責任感と勇気は、教育者として
    の模範と受け止められ、多くの人から敬(うやま)われました。戦前の日本人は勇気と責任感を持
    ち、「六氏先生」はその象徴的存在でありました。

     この「勇気と責任感」こそ、日本人が台湾で尊敬された最大の理由であると私は思っています。
    教育に命をかけた「六氏先生」の話は台湾ではよく知られ、慰霊碑には今も献花が絶えません。

     彼らの台湾の教育にかける犠牲精神は「芝山巖精神」といわれて語り継がれ、殉職した6名の教
    師は「六氏先生」、そして芝山巖は台湾における教育の聖地とされています。

     六氏先生の内の一人で山口県出身の「楫取(かとり)道明」は吉田松陰の甥に当たる人物で、楫
    取道明の母親である吉田松陰の妹が、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主役になっています。

     また、最年少で命を落とした「平井数馬」は、熊本県の済々黌(せいせいこう)出身で、語学の
    才能に優れ通訳官として赴任していました。熊本市内にある平井数馬の墓には李登輝元総統も墓参
    りに訪れています。

    ◆結論

     台湾の近代化に全力を尽くし、台湾のインフラ整備のために犠牲になった日本の方々が台湾に遺
    した功績を、台湾の人々は忘れていません。その恩恵に心から感謝をし「滴水之恩、湧泉以報」
    (たとえ一滴の水でも受けた恩義は湧き出る泉として恩返しをする)という気持ちを持ち続けてい
    ます。

     2011年3月11日に発生した東日本大震災に対する台湾からの200億円を超える巨額の義援金は、そ
    の99%が民間から自発的に差し上げられたものでした。その背景には、先に述べた「滴水之恩、湧
    泉以報」の思いがあるとみられます。

     今日、台湾は世界一の親日国家であるといわれていますが、その要因の一つとして、台湾のイン
    フラ整備のために犠牲になった日本の方々の恩に報いたいという台湾の人々の思いがあげられるの
    ではないでしょうか。







    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html

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