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  • 2014年7月14日月曜日

    「台湾の声」【傳田晴久の臺灣通信】「すごい人たち」

    【傳田晴久の臺灣通信】「すごい人たち」

    傳 田  晴 久

    1.はじめに

     台湾の大学の新学期は9月で、卒業式は6月に行われます。私が住んでいる台南市の樹はガジュマル(榕樹)、花は鳳凰木と言われておりますが、その鳳凰木は何時が見ごろかと伺いますと卒業式の頃と言います。その卒業式は6月7日に行われました。

    私は、台湾通信(第六十八回)「ある重度身障者の成功物語」にて素晴らしい台湾人を紹介しましたが、それに勝るとも劣らない人々がこの度の卒業式で、難病や苦境を克服して見事卒業されたと、新聞が紹介しています(2014年6月8日自由時報、他)。今回の台湾通信は遅くなってしまいましたが、その方々を紹介させていただきます。

    2.台湾版ホーキング

     筋委縮性側索硬化症と言う難病にかかるも研究を続け、天体物理学の分野で活躍する英国の物理学者ステファン・W・ホーキングと言う方がいますが、台湾版ホーキングと呼ばれる董庭吉さんは中山大学で情報工学博士号を自力で獲得しました。卒業式にて彼は、今まで自分を助けてくれたすべての人々に対し深甚な謝意を表し、微力ながら社会にお返ししたいと謙虚な挨拶をされました。

     董庭吉さんは脊髄性筋肉萎縮症にかかっており、独りでは全く生活することが出来ず、ベッドの上がり下り、入浴、トイレ、外出時のバスの乗り降りなどは全て家人に抱きかかえられておこない、食事もスプーンのみで、箸も使えない。父親の董崑惶さんは子供の面倒を見るために23年間仕事に付けず、かつて貧乏生活に陥っていたが、幸いなことに息子が頑張り屋で、高校生の時に奨学金をもらい、いくらか生活の足しになった。実は兄の董庭榮さんも脊髄性筋肉萎縮症であるが、中国医学の医師検定試験に合格し、姉の董玉如さんは教職試験に合格したので、今ではまあまあある程度のゆとりが出てきている。

     董庭吉さんが中学生の頃、障害者のための特殊教育の林慧珠教師に出合った。先生は彼の才能を見抜き、勉学を支援し、中学二年生の時に飛び級で高校学力試験(高中聯考)を受けさせたが、結果は首席であった。彼は中山大学の情報工学科を出、修士課程に進み、更に2008年に主席で博士課程に進んだ。そして5年半後の今年、博士の学位を取得しました。

     彼がどのくらい努力したかのエピソードがある。彼は毎朝6時に起きて勉強を始め、夜の12時に就寝するという。すなわち毎日18時間の勉強である。彼は曾て圧力に耐えかね、机に突っ伏して泣いたが、父が自分のためにどれほどの苦労をしているかを思い起こし、涙をぬぐって勉強を続けたという。

     尚、台湾には4年前にも董庭吉さんと同じ病の彭士齋さんが新竹の清華大学情報工学の博士号を取得していると言います。

    3.両目全盲を克服してドクターに

     交通大学の情報工学博士課程の学生甘仲維さんは現在34歳であるが、両親の仕事の関係でマレーシア、香港など外地で育ち、米国で情報系の大学を出、台湾に戻ってから交通大学の情報工学系の大学院に進んだ。卒業後、半導体企業に勤めた後、ヤフーにスカウトされたが、同時にドクターコースに進んでさらに深く研究したいと考えた。

     博士課程の4年生の時、28歳であったが、ウェブサイトのトップページ設計の仕事についており、10年来交際中の女友達と結婚直前であったが、突然緑内障に罹り、11回の手術を受けたが、両目の視力を失ってしまった。彼は失明した後、休学を余儀なくされ、職も失い、さらに婚約までもだめになってしまった。しかし、彼はそれらに挫けることなく、博士論文を仕上げ、無事卒業の日を迎えたが、その式典の時に彼は「あなたが信じる時」という歌を披露し、他の卒業生たちとともに「希望を棄てることなかれ」と励まし合った。

     彼は失明する前、銀髪族(シルバー世代)のためのウェブサイトのトップページを読みやすくするアイディアを持っていたが、失明した後ますますそれを実現したいと考えた。2年経過し、復学した後、もともとの自動化系統の論文を諦め、視覚障害者サービス研究に改め、1年後に100頁を超える論文を完成させた。

    4.記憶喪失から角帽に挑戦

     南投県にある南開科技大学の楽齢學校(熟年学校)では72歳の卒業生黄秀味さんがいる。黄さんは正式な学生ではないが、学校側は黄さんに学士の角帽をかぶらせ、熟年学校卒業生代表として表彰台に立たせ、卒業式典においてもっとも注目される卒業生となった。

     黄さんは子供の頃中学校をでて、南投県の田舎に住んでいたが、55歳になるまで台湾語しか話せなかった。17年前うっかりして転倒し、頭に大けがを負い、意識不明になった。意識は戻ったが、記憶を完全に失ってしまった。親類友人全て分からず、当時の事は何も思い出せない。文字も読めなければ書くことも出来ない。さらに悪い事には話すことも出来ず、周りが話す台湾語もチンプンカンプンであった。

     ここから彼女の新しい人生が始まった。記憶を失ったので、親戚の人もわからず、2年間は夫すら近づけなかった。90歳になる父親は生前涙を流しながら彼女の手を取り、年老いた父親を思い出してほしいと願ったが、彼女は遂に「お父さん」と言うことはできなかった。

     彼女はリハビリの期間、リハビリの先生の勧めで、パソコンを利用して文字を習うことを開始し、今では標準的な国語を話すことが出来るようになった。彼女は「毎日が新鮮で、楽しい」と語っているという。

    5.模範的「活到老、學到老」

     非常に重い病気を克服して博士号を手にした人、苦境を乗り越えて卒業した人が紹介されましたが、その他に「活到老、學到老」(〔諺〕生きている限り学び続ける)を実践した人も紹介されている。

     台南の台湾首府大学を最高齢(71歳)で、皆勤賞で、且つ主席で卒業と言う修士がいる。その鄭木田さんはエンジニアリング会社を定年退職した後、向学心止みがたく、5年前に同大学のレジャー管理学を受験し、入学した。成績優秀で、修士課程に進むと同時に高雄応用科技大学の土木系の修士課程に入った。彼は今回台湾首府大学の修士を卒業したが、高雄応用科技大学の土木系の修士を卒業した後はさらに博士課程に進む予定という。

    6.おわりに

    「すごい人」を4人紹介しましたが、その他に発達障害を克服して2つの大学院を卒業した麻豆真理大学の頼恒吉さん、高校生ですが、3年間重度の肢体障害がある同級生の両足となって支援した屏東県の陳「王文」伶と鄭如育さんも紹介されている。変わった所では台南の監獄内に設けられた学校を卒業した受刑者がいる。

    これらの人々の快挙の裏には3つの要素があるように思われます。第1はもちろん本人の努力、それも並々ならぬ努力がありました。第2に両親、家族の血のにじむような養護、支援、そして第3に周りの、社会の支援がありました。その他にもいろいろな僥倖のめぐり合わせもあることでしょう。

    思いますに、311献金でも明らかになったように、台湾(人)には困っている人に手を差し伸べる心、親切にしてもらったことに対して心からの謝意を表し、今度は自分が奉仕しようという心があるように思います。






    『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html

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