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  • 2008年10月19日日曜日

    「台湾の声」【台湾紀行】パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界 -2

    【台湾紀行】パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界-2

                     西豊穣

    <プツンロク社>(現屏東県来義郷文楽)

    森丑乃助はプツンロク社では「我々内地人の旅客を歓び迎へて呉
    れて、(中略)永く滞留して呉れとて非常なる優遇をした」と記
    述されているように随分愉快に過ごしたようだ。その理由として
    「該社は卑南-枋寮の隘路唯一の通路で、(中略)日本人としては
    全く珍しくない為である」と述べている。プツンロク社は丁度現
    在の文楽村の裏山上にある。余談だが、裏山とは日本語だ。これ
    は自分の住居を基準にしてその後方に控える山という意味のはず
    だ。尤理事長はこの二日間我々を案内するのに盛んに「後山」と
    いう単語を使っている。ああ、後山というのは日本語の裏山を意
    味するのだなと気付く。台湾では後山とは通常は東海岸、特に花
    蓮方面を意味する。

    文楽村を見下ろしながら舗装された産業道路を半時間弱ぐんぐん
    登るとやがて左側、すなわち谷側に広々とした畑が広がった場所
    に出る。一部は国民小学校(戦後のもの)跡地で、これが旧プツ
    ンロク社の始まりである。日本時代はこの旧社には教育所はなく
    ボガリ社まで通っていたのはパイルス社と同じである。運転手さ
    んはそこに畑を開いており、この後ボガリ社から降りてきた時に
    その畑の端に作られた小屋で休憩した。産業道路に沿い山側に石
    板屋の残骸が生い茂った藪の間に見える。この舗装道路から外れ
    草に覆われた別の産業道路を谷側に入ると頭目の住居跡に着く。
    着くといってもそこに案内板があるわけではなく、理事長が車を
    止めさせ、藪を切り払いながら入っていく。頭目の住居跡はそれ
    だけでは判らないが、森丑之助が頭目の「司令塔の如きもの」と
    表現した長い露台が見事に残っている。その頭目の家の下に位置
    する住居跡が運転手さんの旧住居とのことであった。

    <ボガリ社>(現屏東県来義郷望嘉)

    頭目の家に到るに産業道路を谷側へ入ったが、今度は山側へ更に
    別な産業道路を辿る。こちらも舗装されておらず、車のままその
    道に入り込んだ時には本当に車で走れるのかどうか驚き不安にな
    る。道脇には何本もの取水用のパイプが走っているのでとにかく
    道はあるのだ。やがて、左手に大きな谷が見えてくる。尖刀頭渓
    谷で、渓谷の向かい側の山の稜線越しに南大武山が見えてきた。
    しばらく走るとちょっとした広場があり、そこから先も更に車で
    辿れそうだったが、途中危険な場所があるというので、車をそこ
    に停め歩き出した。そこからボガリ社に到るまでは平坦な道で、
    四十分ぐらい、日本人のお陰だと理事長が言う。つまり、この産
    業道路は日本時代にプツンロク社とボガリ社を結ぶ理蕃道であっ
    たことが判る。原住民本来の連絡道は山の稜線伝いだったとも話
    してくれた。

    本来の産業道路の終点は沢が流れ込んでおり、茄苳樹の大木があ
    る。原住民には大事にされている樹だと誰かに聞いた。森丑之助
    も見ているはずだ。樹の袂には祭壇が設えられ樹中の空ろの中に
    も小さな祭壇がある。ここでも米酒で祈りを捧げ先を歩く。

    小さな沢を三本程渡りやがて旧社に辿り着くだろうという所で、
    いきなり尤理事長が道脇の山側の薮を払い始めた。そこには倒木
    が転がしてあったのでそれが目印なのかもしれないが、外部の者
    には全く見当も付かない頭骨架への入口である。百メートルぐら
    い入り込まなければならないと話していたが実際はそんなに距離
    はなかった。

    急な登りの先に二段の土手様のものを背にした平坦な場所があっ
    た。そこが頭骨架がある場所なのだが、何よりも驚いたことは、
    日本人の手になる「ボンガリ頭骨塚」、つまり日本様式の墳墓が
    あったことである。

    これで合点がいったことが二つある。一つは、実は理事長はこの
    塚の存在を予め我々に話してくれたのであるが、私の耳が悪い為、
    「買う」(北京語発音はマイで三声)と「埋める」(同二声)を
    聞き違えており、日本人がそんな所に土地を買って何をしたのだ
    ろう、まあ、現地に行けば判るかと聞き流していたのである。出
    草を悪しき習慣と看做した台湾総督府はこの「悪習」の根絶に努
    めたのであるが、その過程で、それまで頭骨架に安置されていた
    頭骨を、塚を作り一括処分させたようである。処分という言い方
    は適切ではないかもしれない。それは「塚」と刻しているからで
    ある。塚とは梅原猛が彼の著作の中でしばしば言及しているよう
    に、古来、怨霊を封じ込める為のものだそうだ。台湾領有時代の
    日本人にとって原住民族の頭骨架は実に気味の悪いものであった
    ことが察せられる。

    二つ目は、クナナウ社跡にも高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」とは別
    に日本様式の墓様なものが現存しているのは知ってはいたが、そ
    れが何なのか判らなかったのだが、これもボガリ社と同じ首塚で
    あることが知れた。ということは、当時は各所に首塚が作られた
    はずだが、今現在どれくらい現存しているのかは判らない。

    頭骨架と云っても単に石を積みその隙間に出草で刈った首級を安
    置していたものだが、森丑之助が「昔から苔に蒸せし石畳のうち
    にある古髑髏のみでも四、五百顆を数へ、従来見た所のパイワン
    族蕃社の頭骨架のうちでも最大なるもの」と呼んだボガリ社のそ
    れは、森丑之助自身の撮影になる「蕃族図譜」所収の写真を見る
    と、高さはともかく、横の広がりが相当大きかったことが判る。

    それらの写真のイメージと現在の様子は全く異なる。まず草に完
    全に覆われている為石積みそののが何処にあるのか皆目判らない。
    理事長に草を刈って貰ってやっと判ったが、それも元々の頭架の
    中のほんの一部である。戦後、牛が石積みを大きく壊したとも話
    していた。

    今でもボガリ社の頭骨架には二つの頭骨が安置されている。もと
    もとは四つ残っていたのだが、二つは消失したそうだ。日本時代
    は出草は禁止されそれまでの集めた頭骨は塚の中に埋めさせられ
    はずなのに、今でも残っているというのは変な話だが、つまり戦
    後のものだそうだ。その経緯に関して質問するのは失礼であろう
    と思い聴かなかった。

    頭骨架への入口からボガリ社入口まではすぐだった。「蕃社を距
    りし一、二町の所」に頭骨架は作られるのが普通であるという森
    丑之助の記述そのままだ。入口で道は二手に分かれており、一つ
    は下りながら旧集落へ到るもの、もう一本はそのまま真っ直ぐに
    進むもので、コンクリートの遺構が散在している場所に出る。日
    本時代は日本人の宿舎だったそうだ。そこを過ぎると広々とした
    実に気持ちの良い場所に出た。ボガリ教育所とその運動場(戦後
    もそのまま国民小学校)で国旗掲揚台が残っていた。旧社の最高
    所に当り、その先はパイルス社へ繋がる。広場の真ん中辺りに丁
    度都合よく樹木があり木陰で休憩。その後、集落の方へ下る。集
    落の住居跡ははっきり判る形で割りとよく残存している。一つは
    集落の規模が大きかった為、薮に覆われるのを免れている住居跡
    が多い。幾つかの住居跡には柱に相当する石板に赤いペンキを用
    いカタカナで個人名と家族名(その住居の場所)が記されている。
    これは少なくとも屏東県一帯の旧社跡では共通に見られる。中に
    はわざわざ金属板とかプラスチックの板に、漢字とカタカナを併
    記して掛けてあるものもある。戦後も相当長い期間(そして一部
    地域では現在でも)カタカナが使われていたことが判る。

    学校跡の直ぐ下も樹木の殆ど無い広場になっているので、最初は
    そこから集落が始まるのかと考えていたら、その広場は祭場だと
    いう。そこには祭祀用の祠が七箇所あるのだそうだが、草茫々で
    何処にあるのか全く見当が付かない。その中で一番大きい祠を覆
    っている草を切り払い祈祷。この祠は石積で正面だけが開いた箱
    状のものであるが、その側面に石板が使われそこにパイワン族男
    性の顔の浮彫がある。相当古そうだ。理事長に依るとボガリ社の
    シンボルとのこと。來義(ライ社)の人間がこの浮彫を写真に撮
    り持ち帰り、今では同じシンボルを来義でも使っているが、もと
    もとはボガリ社のものだ、つまり盗用されたとでも言いたいのだ
    と思う。ボガリ社はここら一帯では神話が一番多いそうで、一つ
    話してくれたが理解出来なかった。

    日本軍が残した金塊探しの場所があるというので連れていって貰
    った。車を停めた場所からプツンロク社側へ少し戻った所に谷側
    へ降りる別な産業道路が付けられていた。少し下ると明らかに漢
    人に依って建てられたプレハブの廟があり、今でも管理されてい
    る。その直ぐ下には作業小屋がありその軒下に錆付いた掘削機と
    思しきものが放置してある。理事長が子供頃に宝探しは始まった
    らしい。その掘削の規模は相当なもので、平地だった場所が深い
    谷に変わってしまったと言う。試しに後でグーグル・アースで見
    てみたらそれとはっきり判る亀裂が見て取れる。恐らく廟はその
    時に建てられたもので、朝晩金塊にぶち当たるように祈ったのに
    相違ない。全く金(きん)の魅力は偉大である。

    理事長も運転手さんも道を歩きながら目を凝らしているのは猪
    (いのしし)の通り道である。これは暫く注意して見ていると素
    人でもそれと見て取れる。その夢の跡に下る途中の道端に数箇所
    ステンレスのワイヤーを使って罠が仕掛けてあるのを初めて見た。
    猪がそこを通れば自然に締まる仕組みになっているのだと思う。
    ボガリ社の頭骨架の下に蕨類と思われる白く変色した草様のもの
    が丸い座布団のような形で設えてあった。猪の産褥だという。こ
    れは素人には判らない。

    文楽村に降りてきたのは昨日パイルス社を訪ねた時と同様、昼過
    ぎだったので、理事長も交え運転手さんの家で彼のガールフレン
    ドも呼んでビール、軽い食事を取りながら歓談することになった。
    その際、運転手さんのお父さんか、彼の従兄弟のお父さんか忘れ
    てしまったが、文楽村の古老を呼んでくれた。日本名は恒岡勇さ
    ん。日本語教育は小学校1年から6年まで受けた、普通は4年まで
    で、頭のいい人が6年まで習う、文楽村の第二代目の村長を務め
    たとおっしゃっていた。日本語をもう五十年しゃべったことがな
    いからと言っていたが、相変わらず(原住民の老人は皆という意
    味)きれいな日本語である。最初現れた時、大きな声で直立不動
    で何か言われた。その部分は私は聞き取れなかったが、私が緊張
    していたからだと思う。自身のことを「わたくし」と言う。全く
    こちらが恥ずかしい。大東亜戦争という単語が何回も飛び出す。
    日本が大東亜戦争に勝ったら勉強のできる人は大陸に行くのだと
    先生が言っていたと話してくれたが、これはどういう意味だろう
    か?いずれにしても、一体日本人は当時この人たちに何をしたの
    だろうか?又、彼らは当時どう感じその後の人生でどういう影響
    があったのだろうか?そんなことを理解するには私も含めもうそ
    ろそろ遅きに失したと思う日本人が出て来るに違いない。台湾に
    おける日本の最後の残り香でありやがてそれは完全に消失するこ
    とを痛感する。

    <結び>
    「生蕃行脚」は、プンティ社(現泰武郷佳興)、カピヤンガン社
    (同佳平)、クワルス社(同泰武)の紹介で結ばれています。こ
    のうちカピヤガン社、クワルス社は北大武山への登山口に到る舗
    装された自動車道(泰武郷郷道106号線)脇に遺構があり、案内人
    を頼まずとも誰でも簡便に立ち寄れます。特にカピヤガン社の場
    合、旧社跡は丁度住居跡が区画整理の役割を果たすような格好で
    畑になっている為、旧社の規模がどれくれらいであったかが明瞭
    に判ります。加えて、最近頭目の住居と司令塔たる露台が復元さ
    れました。これまで紹介してきた旧社は往時どのくらいの広がり
    であったかを想像するのは旺盛な草樹木に遮られ極めて困難なだ
    けに、カピヤガン社遺構は非常に特殊な例で、私が見たパイワン
    族旧社遺構では最大規模のものです。プンティ社跡は、クワルス
    渓を挟みカピヤガン社の真向かいにあり肉眼で僅かに確認出来ま
    す。

    1900年の踏査行の際、森丑之助はプンティ社から「パイワン蕃人
    の発祥の地とし、又彼等の死霊のこの山に還ると云ひ、信仰的に
    も崇敬せる霊峰」である大武山への登攀を試みるのですが果たせ
    なかったと述べています。郷道106号線を現泰武村まで上がった後
    の道路上からは正に屏風の如く立ち上がった台湾中央山脈最南の
    三千メートル峰である大武山が眼前に立ち現れるのですが、何故
    パイワン族にとり大武山が聖なる山で在り続けるのか感得できる
    瞬間です。(終り)


    西豊穣 ブログ「台湾古道〜台湾の原風景を求めて」
    http://taiwan-kodou.seesaa.net

    西豊穣 台湾紀行古道シリーズ バックナンバー

    2008/10/17 パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界-1


    2008/01/05 玉山古道−余話
    http://www.emaga.com/bn/?2008010008393972008356.3407

    2008/01/02 玉山古道(新高山歩道)
    http://www.emaga.com/bn/?2008010001769565014831.3407

    2007/06/16 蘇花古道−3
    http://www.emaga.com/bn/?2007060069026465008515.3407

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    http://www.emaga.com/bn/?2007060066088784011088.3407

    2007/06/14 蘇花古道−1
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    2006/11/26 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−3
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    2006/09/30 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1
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    2006/07/05 六亀特別警備道付記‐竹子門発電所
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    2006/07/03 六亀特別警備道(扇平古道)
    http://www.emaga.com/bn/?2006070005430276009918.3407

    2006/03/06 浸水営古道
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    2005/12/23 崑崙拗古道
    http://www.emaga.com/bn/?2005120083972080008877.3407

    2005/04/26 八通関古道
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    2005/02/25 霞喀羅古道(石鹿古道)
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    2005/01/06 能高越嶺古道
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