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  • 2008年10月17日金曜日

    「台湾の声」【台湾紀行】パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界 -1

    【台湾紀行】パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界-1

                         西豊穣

    原住民族の旧社に関してはこれまで投稿した記事の中で折に触れ
    て紹介してきましたが、今回は私が住んでいる場所柄足を運ぶ機
    会の多い屏東県のパイワン族旧社を集中的に選んで紹介します。


    <パイワン族秘道について>
    日本の台湾領有時代は原住民の村落は何々「社」と呼ばれており、
    往時著名な人類学者によりその生活が著述、映像という形で記録
    され今に残されています。当時の文化、生活形態はとうに消失し、
    戦後は殆どが現代生活に便利な低い土地に移遷してきており、先
    祖伝来の集落はその際遺棄され、今は熱帯の草木、樹木に覆われ
    ているのが普通です。

    現在の台湾では、これらの旧社名は、現代の集落名の前に「旧」
    とか「老」を冠して区別してあります。実際それらの旧集落跡を
    訪ねると、もし運が良ければパイワン族の伝統的な家屋様式であ
    る石板屋の壁の石積みの一部と住居内に残る柱の役割を果たす石
    板、住居前に敷かれたこれも石板の回廊等が見れますが、これは
    誰かが定期的に訪れ薮を払う等の何らかの管理がなされている場
    合です。大概の場合は旺盛で深い緑の底に沈んでいます。


    ここで云う秘道とは嘗ては原住民の生活道、旧社間の連絡道、そ
    れらが日本時代には理蕃道へ変遷していったものが中心で、現在
    でも原住民、並びにハイカー等によって歩かれている道という意
    味です。移遷後の集落と先祖伝来の地である旧社を結ぶ道は、旧
    社付近に耕地を残しているのが普通であるし、同時に現在でも貴
    重な狩猟道でもある為、確実に確保されています。

    問題は旧社と移遷後の現在の集落との距離です。単に山から降り
    て麓に移動しただけというケースは非常に少なく、その間には山
    や谷が横切り、途方もない距離があるのが普通です。もしその間
    を産業道路なり林道で繋がっていない場合はその当方もない距離
    を歩くか、仮令自動車通行が可能な道路で繋がっていても普通の
    人には何とも心もとない危険な運転になるのが常です。その意味
    ではこれら旧社と現集落間を結ぶ連絡道も秘道と呼べます。


    <森丑之助と「生蕃行脚」>
    パイワン族の旧社の数は非常に多くこれまで私が訪ねたことがあ
    るのをそのまま漫然と羅列してもいたずらに冗長になってしまい
    ます。そこで今回は日本の台湾領有時代、パイワン族が実際どう
    いう生活をしていたかを知るに格好の材料となる森丑之助の「生
    蕃行脚」に拠りながら紹介することにしました。

    「生蕃行脚」は森丑之助が1900年(明治33年)に台湾南部に居住
    するパイワン族の集落を鳥居龍蔵と訪ね歩いた時の回想録ですが、
    「生蕃行脚」の名は、楊南郡(註1)が同回想録も含め森丑之助の
    台湾原住民族に関する著述を編集・中国語へ翻訳した書(註2)を
    2000年に出版し、その本に「生蕃行脚」の名を冠したことから寧
    ろ台湾で知られるようになりました。楊氏自身の希望で2005年に
    なり日本で出版されたのが「幻の文化人類学者森丑之助-台湾原住
    民の研究に捧げた生涯」(笠原政治・宮岡真央子・宮崎聖子編訳、
    風響社出版)で、その中にも「生蕃行脚」が所収されています。


    「生蕃行脚」の中で描かれているパイワン族集落(註3)の踏査コ
    ースは、現在の屏東県春日郷から入り、来義郷を経て泰武郷へ南
    から北へ向けて歩かれています。その回想記の中に聊かでも集落
    の紹介があるのは、リキリキ社(現春日郷力里)、パイルス社
    (同南和に移遷、現代台湾漢音表記は白鷺)、プツンロク社(現
    来義郷文楽)、ボガリ社(同望嘉)、クナナウ社(同古楼)、内
    社(ライ社、同来義)、プンティ社(現泰武郷佳興)、カピヤン
    ガン社(同佳平)、クワルス社(同泰武)ですが、それらの中で
    森丑之助が多くのページを割いて紹介している集落は、リキリキ
    社、ボガリ社、クナナウ社の三社で、それら三社の当時の集落規
    模が大きかったことに依ります。


    リキリキ社、ライ社、クナナウ社に関しては、以前の投稿の中で
    「台湾の声」の読者には紹介したことがあります(「浸水営古道」
    と「崑崙拗古道」を参照)ので、今回は森丑之助の言う「パイワ
    ン族蕃社の頭骨架(註4)のうちでも最大なるもの」を嘗て擁して
    いたボガリ社と、ボガリ社に隣接する来義郷内に残る旧社遺構の
    核心部を為しながら台湾でも殆ど紹介されることのない、パイル
    ス社とブツンロク社を中心に紹介していきます。「生蕃行脚」の
    中でこれら三社は「地理上の関係のみでなく、歴史的からもこの
    三者には一つの連盟が成り立って居り、頭目なり有勢力者間とも
    親族関係のつながって居るものが少なくない」と説明されていま
    す。


    これまでだと、とにかく現地(現村落)まで行けば旧社に辿り着
    く手掛かりがあろうと何はともあれ出掛けるのが常でしたが、し
    っかりした山行記録でもない限りそうそう容易には旧社には辿り
    着けません。加えて、余所者(よそもの)である私が原住民の先
    祖伝来の地に妄りに足を踏み入れるのは非常に失礼な話だという
    ことに漸う気付き、今般これら来義郷のパイワン族旧社の核心部
    を訪ねるに当たり初めて原住民のガイドを頼むことにしました。
    来義郷郷公所(来義郷役場)に問い合わせたら、文楽村に住む屏
    東県原住民生態環境保護登山協会の尤振成理事長をすぐに紹介し
    てくれました。


    <パイルス社>(白鷺社、現屏東県来義郷南和へ移遷)

    今年のカルマエギ台風が金曜日の昼前には台湾を抜けたが、台湾
    を襲う台風はその後ろに厚い雨雲を引きずる為、台風一過後も一
    両日は雨が残るのが常である。土曜日の朝、尤理事長と文楽国民
    小学校の前で待ち合わせ、土、日の日程を話し合った。話をして
    いる間、雨が降ったり止んだりする。私の希望はボガリ社に入る
    のに天気のいい日を選ぶというものだったので、確実に天気の好
    転する日曜日にプツンロク社とボガリ社に入り、土曜日はパイル
    ス社、時間が許せばタナシウ社(現来義郷丹林)まで入ろうとい
    うことで話が纏まった。


    やがて我々が乗る車が来た。ディーゼル・エンジン四駆の軽トラ
    で、我々は荷台に渡された二枚の板の上に座る。新ためてこの手
    の車は馬力があること、これでなくては台湾の産業道路、林道は
    舗装してあろうがなかろうが、走れないこと、加えて容易に命を
    粗末にしてしまうことをこの二日間で痛感する。理事長は助手席、
    理事長も運転手さんも共に文楽村に住んでいる。


    南和村から入り力里渓を暫く遡ると白鷺橋があり、ここがパイル
    ス社に到る産業道路と現在チカタン社(老七佳、現春日郷七佳、
    「崑崙拗古道」参照)へ到る登山口に繋がる郷道との分岐である。
    白鷺橋の付近に小さな川が力里渓に流れ込んでいるが、その小さ
    な川を右岸に渡りそのままぐんぐん高度を上げていく舗装されて
    いる産業道路がパイルス社に到る道であった。この道路には幾ら
    高度を上げてもずっと電柱が立っている。この道路と電柱は実は
    チカタン社へ辿る時、力里渓を隔てた対岸にずっと見えていたも
    ので、それがパイルス社への道路であることは思い付かなかった。
    暫く登ると台風通過後の雨雲の影響で霧に見舞われ視界が殆ど利
    かなくなったのが残念であった。私が確かめたかったのは、パイ
    ルス社から果たしてリキリキ社が望めるかということであったが
    確認のしようがなかった。途中から一台のバイクが上がってきて
    理事長と一緒に台風の影響で道路を塞いでいる樹木、石を除きな
    がら進む。実はこのバイクの御仁はパイルス社の頭目であった。
    理事長はもともとはボガリ社の出身なので、異なる部落に入るの
    に仁義を切ったわけである。とうとう産業道路の舗装も切れず電
    柱も切れぬ間にパイルス社に着いた。標高800メートルぐらいとの
    ことなので、力里渓谷からの高度感は相当なもので、森丑之助が
    さらりと「渓流一つ隔ててリキリキ社と対峙して居る」とはとて
    もイメージ出来ない。


    最近立て直した石板屋が何棟か立っており、一棟は頭目の住居を
    復元したものだそうだ。庭には水道まで付けられており、涼亭も
    ある。明らかに外部の宿泊者を意識したものだ。そこを抜けて少
    し上がると広い庭を持つ石板屋に出た。日本時代の衛生所跡に立
    てたもので、外には物干し台があり、家屋の中も生活出来る様に
    なっている。まず米酒を用い家の中に設えた祭壇に向かい祈りを
    捧げる。祭壇の下には誰かが埋葬されているはずだ。庭先に設け
    られた露台で軽い食事を取る。見慣れないものを食べさせられた
    が、すぐにパイワン族の主食里芋を燻製したものであることが判
    った。


    頭目の風貌は忘れ難い。日本時代に撮影された今に残る原住民の
    頭目の写真を見ていて何時も思うのだが、何故こうも堂々として
    カメラの前に立てるのか、引き締まり整った顔立ち、優雅な物腰、
    私は失礼ながら食事時の彼の仕草、物腰をじっと観察していたと
    いうか、見惚れていた。今の日本では斯様な風貌にはなかなか出
    会えなくなったと勝手に思う。


    その後この頭目に旧社の中を案内して貰った。衛生所脇には、緑
    地の金属板に白字で漢音表記とローマ字のパイワン語発音が併記
    された指導標が立つが、これが旧社内のあちこちに立つ。それだ
    けではなく、白鷺橋を渡って以降旧社へ到る産業道路脇にも幾つ
    も立っていた。例えば、頭骨架(首棚)には「漢名:頭[盧頁]架
     母語:Puquluan」という具合に標示されている。旧社をぐるり
    と囲むようにコンクリート製の遊歩道が出来ている。私としては
    初めて見る原住民族の頭骨架は残っていたが殆ど原型を留めてい
    ない。頭骨架への標示板は遊歩道脇に立っておりそこから少しば
    かり薮を入り込むとあるのだが、案内人無しでは見付けられそう
    にない。駐在所跡、学校跡にも標示板が立っている。後者は戦後
    の国民小学校跡で、日本時代はここら一帯の子供達はボガリ社の
    教育所まで通っていたそうだ。


    クナナウ社、ボガリ社への連絡道も標示されていたのは、恐らく
    は「生蕃行脚」の影響と思われる。森丑之助はこの後紹介するボ
    ガリ社を起点にパイルス社との間を往復しつつ、クナナウ社を訪
    れる機会を狙っていた旨の記述があるからだ。加えて、ボガリ社
    への連絡道入口脇の樹木の上に見張り台が設えてある。パイルス
    社は当時「人口も少なく而かも強大なるリキリキ社と敵対するが
    故に(中略)、物見台を作り壮丁をして見張番をさせて」いたと
    いう記述に拠ったものだと思う。理事長の元々の計画は、土曜日
    にブツンロク、ボガリ両社に入り、そらからボガリーパイルス社
    間の連絡道を歩き、パイルス社で一泊、日曜日はそのまま下山す
    るというものであった。


    標示板の真新しさと設置箇所の多さを看るにこれまで私が訪ねた
    パイワン族の旧社の中では最も外部に解放しようという意識が強
    そうである。但し、幾ら旧社へ到る道路が舗装してあるからと云
    って個人で車を運転して入るのは危険である。又、その祭場の多
    さ、狩猟の為のわなの多さを考えたら、必ず原住民の案内人を雇
    うべきである。


    この夜は、文楽国民小学校に露営した。(続く)


    註1:国家公園管理処の委託研究事業である楊南郡氏に依る「八通
    関古道西段・東段調査研究報告」と「合歓山越嶺古道調査報告」
    は台湾古道研究の金字塔であり、既に戦後七十年を超えたことを
    考え合わせると、これらを超える研究が今後出て来ることは有り
    得ない。これら日本人に拠り開鑿された古道も今は異なる国家と
    なっている為、最早現代の日本人に同程度の踏査・研究は望むべ
    くもなく、それだけに日本統治時代に光を当てた同氏の功績は大
    きく、又貴重である。

    註2:「森丑之助的台湾探検 生蕃行脚」森丑之助原著、楊南郡訳
    注、遠流出版公司、2000年1月1日初版第一刷

    註3:本投稿の中のパイワン族旧社のカタカナ表記はすべて森丑之
    助の「生蕃行脚」中の表記に従った。

    註4:「頭骨架」の単語は「生蕃行脚」中の表記に従った。パイワ
    ン族等の台湾原住民が「出草」(首刈り)で得た頭顎骨の主に石
    組みに依る陳列棚。東京大学総合博物館の「東アジア・ミクロネ
    シア古写真資料画像データベース」に収用されている頭骨架の写
    真には「首棚」のキャプションが付けられている。


    西豊穣 ブログ「台湾古道〜台湾の原風景を求めて」
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